第6話 糸

 門を潜った先は、相変わらず暗闇だった。

 ただ先程までとは違い、遥か頭上に星座のように散らばる無数の光源がある。


「なんだこれ?」


 奇異なことに、目の前に絹のような光沢を放つ一本の白い糸が垂れている。その糸を視線で追っていって、思わず久しぶりに目にする自分の手を凝視してしまった。


 なぜなら、糸の断端が俺の左手に埋まっていたからだ。正確には、まるでそこから生えているかのように、てのひらの窪みから白い糸が立ち上っていた。


「この糸の意味は? 門を潜ったら、すぐに転生するんじゃないのか?」


 つい癖で質問してしまったが、いくら待っても声は聞こえてこなかった。

 少なくとも、ここは槨離狭界ではない。門を潜った以上、異世界に至るまでの通路的な空間なのかもしれない。


 仕方なく糸が伸びる先を上空に向かって追っていった。何度も目を凝らしてようやく、星のように見える光源のひとつ――非常に小さな穴らしきもの——から、糸が吊り下がっているという推測に至った。


「まさかあれが出口なのか? ここからだとピンホールにしか見えないのに」


 掌から生え、更に、酷い噛み跡だらけの腕にも雁字搦めに絡む糸。他に出口らしきものは見当らない。この糸を辿れって?


「マジで? いや、これはないわ」


 だって、あまりにも細い。

 綱や紐というには頼りなく、せいぜい凧糸程度の太さしかない。ワイヤーか、釣り糸みたいな強靭さがあればまだしも、目の前の糸は柔らかそうで、脆そうで、登り綱に適しているとは到底思えなかった。


「おーい。説明くらいは欲しい。誰かいないのか?」


 無駄になる可能性を承知で、しばらくの間、ツンツンと糸を引っ張ってみたり、誰かがこの状況を説明してくれないかと待ってみたりしたが、何も変化は起こらない。やはりこの空間には、呼びかけに応えてくれる者はいなさそうだ。


「腹を括って登るか」


 いつまでもこうしているわけにもいかない。でもまさか、こんなところで、なんちゃって『蜘蛛の糸』をやらされるとは思わなかった。

 あの物語では、確か競合相手を蹴落とそうとすると肝心の糸が切れてしまう。でも、目視できる限りでは、ここにいるのは俺一人。現時点では、ライバルや妨害者はいないように見える。


「よいしょっと。思ったよりはしっかりしてる? いやでも揺れるとヤバいかも」


 細過ぎて糸を掴むのは無理なので、手繰り寄せ、手に巻き取るようにして登っていく。

 以前、検証的なバラエティ番組で、蜘蛛の糸に60Kgの人間がぶら下がるには、3万本くらい束ねる必要があると言っていた。


 今掴んでいる糸は、地球の蜘蛛の糸に比べたら明らかに太いが、せいぜい数百本分くらいしかない。

 異世界の神的存在が垂らす糸なのだから、普通ではないと思いたい。というか、そうじゃないと困ってしまう。


 幸いにも、かなり身軽になっている。身体自体が綱登りならぬ糸登り仕様に変わっているのか、あるいはこの空間の重力が違うのか。じゃなきゃ、俺がこんなにヒョイヒョイと登れるわけがない。


 ゆっくりとだが、確実に出口に近づいている。それが心の支えだった。


「これ、ヤバくないか?」


 ピンホールのように見えていた出口が、野球ボール大にまで大きくなった頃、糸に異常が現れた。


「なんでヘタれるんだよ!」


 ただでさえフワフワしていた糸の表面が削れ、粗く毛羽立ちが生じている箇所が見つかった。それも複数。


「切れるなよ。このまま最後まで保ってくれよ」


 出口はまだ飛び上がって届くほど近くはなく、跳躍するための足場もない。せめて他に掴めるものがあればいいのに。しかし、ないものは使えない。慎重に、でも出来るだけ早く登るしかなかった。

 出口を仰ぎ見ながら手を動かしていると、視界にキラリと光るものが映った気がした。


「なんだ?」


 気のせいじゃない。瞬きを控えて目を凝らすと、時折、白い糸に交差するように、線状の光の筋がよぎって見える。


「あれも糸っぽく見えるけど……それにしては、絡むわけでもなく、やけに動きが早くないか?」


 変則的な軌道で蛇行し、図形を描くように振れる金色の糸。行ったり来たりするその軌跡を目で追った。


「あんな動きをするってことは、端に推進力になるものか、おもりのようなものがついていそうなのに、ここからじゃ見えないや」


 こっちに来そうで来ない。金色の糸は、近づいてくるかと思えば離れていくといった、やけに思わせぶりな動きをする。あんなのスルーして、ひたすら上に進めばいい。理性はそう告げるのに、なぜか目が離せない。


「うわっ、こっちに来た!」


 不意にヒュン! と、すぐ真上を金色の光がよぎった。

 軌道が変わった? すぐに遠ざかってしまったが、今のはかなり近かった。


「あっ、糸が。くそっ、奴が原因だったのか!」


 金色の光が掠めた箇所に、目に見えて新しい毛羽立ちができていた。あの場所には、さっきまでは何もなかったはずだ。

 なんだよこれ。誰の嫌がらせだよ。これ以上させるか! でも、空中からの攻撃を、どう防げばいい? 制御しきれない苛立ちが湧き起こる。


 この糸は俺の命綱だ。絶対に出口に辿り着いて、異世界に行くんだ。

 好き勝手されたらたまらない。奴がまた来たら容赦しないからな。逃げるなら、その前に捕まえてやるさ。離れていった光が糸を狙って近づく瞬間、そこを狙えばいい。


「来いよ……早くこっちに。ここまで来い!」


 コンマ何秒の勝負になる。瞬きを惜しんで、金色の糸の行方を探す。俊速で移動する金色の光。近づく度に手を伸ばすが、ことごとく空振りになる。


 ちっ! また削られた。緊張感から、口の中に唾が溜まってくる。あんなにビュンビュン飛ぶことないだろ。人の心を弄びやがって。

 はっきり見えてからじゃ遅い。つまり、タイミングを予想して動かないと間に合わない。


 惜しい! もうちょい早く。

 あっ! ちょっと触れた。もう少し、もう少しでいける。

 今だ!


「よしっ、掴んだ! 痛っ! なんだこれ、めっちゃ刺さってる」


 めっちゃ痛いけど手は決して緩めない。見れば、金色の糸の端に、紡錘形の棘針のようなものが付いている。思い切り掴んだせいか、右手の掌にグッサリと食い込み、傷口から血がダラダラと流れていた。


 コイツは攻撃したつもりなのかもしれないが、はっ、こんな痛みは今更だ。


「絶対に離してやらないからな」


 金色の糸が暴れて、傷口がグリグリと抉られる。痛い。そりゃあ痛いさ。でも我慢できる。抜けたら堪らないから、自ら針を押し込む勢いで糸を手に巻き取っていく。

 早くも血塗れの手で、元々の白い糸に、新たに手にした金色の糸を撚るようにして手繰り続ける。


 右手だけでなく、右腕までズキズキし始めた。針はブッ刺したままだし、血が固まって止まりそうになっても、擦れてすぐに出血する。それも放置だ。どうせこの身体は消えてしまうのだから。それより、早く出口に着かなきゃ。


 上に上に。手応えは存外悪くない。

 思わぬ儲けもので、金色の糸は見た目よりはるかに強靭で、随分と補強された気がする。暴れ馬みたいだけど、この手応えは頼もしいな。

 ただ、金色の糸を引っ張ると少なくない抵抗を感じた。でも負けない。その抵抗から引き剥がすように、強引に奪うように巻き取っていく。


「なんだこの音?」


 穴が近づくにつれて、カラカラカラカラという軽快な音が聞こえてきた。最初は微かだった音は次第にはっきりしてきて、カタンカタンと規則的な別のリズムも加わっていく。


「木を打ち鳴らす音? ここでBGMが鳴るなんて、物語の幕開けみたいで、でき過ぎじゃないか。でも楽しくなってきた。もう少し。あとちょっとだ……いけるか」


 思いっきり腕を伸ばし、やっと届いた穴の縁に手を掛けた。

 その瞬間、自分を構成する全てのものが溶けて消えていくような気がした。


「なんか変な感じ。バイバイ今までの俺」






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【あとがき】

この回で、重い展開だった第一章が終わり、次はいよいよ異世界です。

今まで投稿していた作品とジャンルが違うので、読んでもらえるか心配していますが、目を留めて応援ポチってして下さる方がいらしてとても嬉しいです。

まだ序盤ですが作品フォローや星をつけて頂けると大層励みになります。

続きを読みたいと感じてもらえるように、書き溜めに修正を加えながら投稿していく予定です。 漂鳥


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