第15話 揺れ惑う明星


 漆黒の帳が落ち、彼方に無数の星々が瞬く。

 様々な光に彩られた、宇宙を模した闇のキャンパス――その空間に、小さくも鮮やかに存在感を放つ一等星があった。

 神々しい黄金に輝くその星の表面には、紅と藍の異なる光が妖しく揺蕩う。

 ただし、その二つの妖光には僅かな陰りが見える。


「なんで今さら余の前に現れたんだ、シルフィアット……」


 星の正体は【魔王】こと、エスメラルダ・ルシファリアだった。

 彼女はゆったりと安楽椅子に腰かけるように何もない場所に浮かび、その二色の眼でぼんやりとここではないどこかを見据えていた。


「魔王城に遺してきた生命魔法理論。確かにあれらを見れば余が生きている可能性を疑っても仕方ないが、それにしたって何百年も生き永らえて探し続けるなど正気の沙汰ではない……普通なら、喜ぶべきなんだろうがな」


 エスの行っていた生命研究は動物実験までが精々で、魔族を相手に行ったことはなかった。ただでさえ魂の冒涜として厭われる禁忌の魔法を完成させるために、守るべき魔族を実験体にする――それは彼女の信念に反していたからだ。

 紙の上に纏めたまま、日を見ることなく魔王城の研究室に放置していた机上の理論。

 それが今になって過去に死んでいるはずの亡霊と共にやってくるなど、彼女が素直に喜べるはずもなかった。


「あの魔法をこのまま放置しておくわけにはいかん。術式を知る術者……シルフごと葬り去らなければ、また多くの犠牲者が出る」


 シルフィエットの精神をこの世に留める楔として使用されているのは別人の肉体だ。

 そして、術者の魂を馴染ませるには無垢な赤子こそが器に好ましい。

 ひ弱な赤子の魂を排し、その空っぽの器に自身の魂を割り込ませることで新たな支配者となる。

 つまり、彼女が生まれ変わる度に最低でも一人は犠牲にならなければならない。 


「赤子が本来持つ運命を捻じ曲げてまで生き永らえるなど、神であろうと余が許さん。次に顔を見せた暁には、直々にその魂ごと消滅させてやるっ! ……だが」 


 彼女が最後に残した言葉が、エスの心に尾を引きずっていた。

 ――次の【人魔大戦デストラクト】は必ず起きる。


「忠誠心の高さを誇りにしていたあいつのことだ、余に嘘を吐いてはいないだろう。このままでは本当に第二の人間と魔族の戦争が起きるかもしれん。奴を殺せば辺境にまで拡がる情報網を丸ごと失う、そうなれば魔族側の統制を取るのが難しくなる」


 シルフィアットが持っている現代の魔族側の情報は、今のエスにはない貴重なものだ。

 彼女を殺せばそれが丸々失われ、魔族の犠牲が増えるのは必至だ。

 だが彼女を殺さなければ、彼女の延命のために生まれて間もない命がまたもや奪われることになる。

 その二者択一の選択に、今のエスはどちらを取るべきか心を悩ませていた。


「ったく、どうしたもんかねぇ……」


 エスに今の魔族を見捨てる、という選択肢はない。

 かつての彼女は自身と異なる【魔王】の理想像を勝手に祭り上げて調子に乗った彼らにほとほと愛想が尽き、そのまま彼らを見捨てて魔王軍を去った。

 しかし心が落ち着いた今、改めて戦争で苦しむ者がいると言われれば放っておけるほど彼女は冷徹にはなれなかった。


「それにこのままじゃ、結局昔と同じ轍を踏むのがオチなのが目に見えてるしなー……」


 かつてのように【魔王】として大いなる力を振るうだけでは結果は変わらない。

 魔族の中ではそれで良くとも、人間界とは軋轢が深まるばかりでそのまま大戦までもつれ込んでしまう。

 それでは過去と何も変わらない。

 シルフィアットの甘言に乗ろうが乗るまいが、いずれにせよ彼女がこのままラストと平穏を享受することが出来ないのは確かだった。


「あーあ、こいつは難題だ」


 迷いから生じる鬱憤を晴らすように、エスは部屋いっぱいに広がる星空を見上げた。

 ――彼女は星空を見るのが好きだった。

 星は下界の争いになぞ構うことなく、空に悠々と己の存在を主張している。

 明けの明星とも称えられた金髪の魔王も、彼らのように自由気ままに輝いていたかった。だからこそ、自分も星のような気分を味わえるように彼女は屋敷の一角にこの無重力の天象儀室プラネタリウムを作った。

 しかし、このままでは彼女はシルフィアットの誘いに乗って下界に堕ちる凶星となってしまう。


「全ての望みを想いのままに叶えることは、【魔王】であろうと不可能なのかねえ……」


 決して届くことのない星々に恋焦がれるように、エスは手を伸ばそうとした。


「……む?」


 その夜空に一つ、新たな星が輝いた。

 だが、創造主である彼女はこの部屋の情景を一切操作していない。

 紛い物の空に勝手に新たな星が生まれるわけがない――否。

 それは星ではなく、彼女が見慣れた魔力の光だった。


「ただでさえシルフのせいで悩まされてるってのに、今度は誰だ?」


 ここは彼女のみが知る部屋であり、通常の屋敷の構造からも隔絶された異空間だ。屋敷のどこからも魔法陣は繋がっておらず、同居人であろうと追いかけてくることは不可能だとエスは考える。

 理論上は彼女以外に足を踏み入れることは誰にも出来ないこの場所にいったいどんな来客がやってくるのかと、エスは咄嗟に身構える。

 彼女が見守る中、やがて収縮する転移の光の中から一つの影が現れる。


「――エスお姉さん!」


 うっすらと星々の光に照らされて姿を見せた人影が聞き慣れた声で彼女の名を叫ぶ。

 そこに立っていたのは、彼女が予想だにしていなかった少年。

 エスが手を離したはずの、ラストだった。

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