第13話

 家に戻ると、作家と言うよりも漫画家、漫画家と言うよりも宮川大輔みたいな分厚いフレームのメガネをかけたオタク青年然とした担当の瀬戸君がチュートリアルの漫才ネタのように毛玉取りのコロコロの部分を絨毯に転がしながら嬉々としてココアの機嫌を取っていて、「あ、先生。お帰りなさい。ゲラ、マリナさんから預かってまぁす」と僕の顔も見ないで事務的に用件だけ述べると、「可愛いなぁ。うちの子にならないかなぁ」とココアに自分の彼女にも見せないような甘く脂ぎった顔を見せるので、「瀬戸君。ツンデレは女と猫の専売特許だぜ」とこちらも顔を見ないで言ってやった。もっとも、鈍感で気の効かない今日日の若者にこの程度の皮肉では効きはしないだろうが。

「ところでマリナちゃんはどこに行ったんだ?」

「なんか車検とかでトヨタにクルマ持って行かれましたよ。あと、今日はもう成城の実家に泊まるって言ってました」

「あ、そうなんだ。お留守番させて悪かったねぇ」

「いえいえ。今日はもうあとは社に戻るだけですし、それにその間、一時間もココアを独り占めできましたら。ねぇ。ココアぁ。じゃぁ自分はこれで」

 間男のような格好になった瀬戸君はその割には姦通の後ろめたさなど何もないかのように堂々たる態度でゲラの入った社名入りの茶封筒を黒い鞄に仕舞うと、ココアに手を振って「淋しいけどまたね」とそくさくと玄関に向かう途中、ふと何かを思い出したように振り向いた。

「あ、そうだ。先生はマリナさんとは結婚なされないんですか?」

「え?何だって?」

「だってお二人の『阿吽の呼吸』っていうんですか?どう見たって夫婦ですし、お似合いだって社でももっぱらの噂ですよ」

「付き合ってまだ三ヶ月だ。今はまだ何も考えられないよ」

「そうですかぁ?マリナさんは結構、その気だと思うんですけどね」

「どうだかな」

 僕は肩をすくめ、下らない冗談を聴いたときのように意地悪く半笑いして質問自体をなかったことにしようとした。瀬戸君も僕のリアクションの薄さにこれ以上の深入りは無粋と判断し、「また来週、ミーティングを兼ねて伺いますので、マリナさんと  ココアに宜しくお伝えください。では」とにべもなく、靴ベラを手にし、風雨と勤労にくたびれて本来よりはサイズが広がってしまったローファーに足をこじ入れながら又、何かを思い出したように且つ、どこか淋しそうに言った。

「先生。自分はしがない編集者ですが、先生の小説のファンです」

「ああ。それがどうした?」

「『ああ。それがどうした?』じゃありませんよ。最近の先生の小説はまるで情念が感じられません。あの果たせない想いに首でも括りそうな勢いの一途で不器用な男の情念がまるでないんですよ。それどころか女の敵になって過去の作品における純愛に殉じた男たちをせせら笑ってさえいる。まるで国を護るために戦った兵士を血も涙もない侵略者か犯罪人と言わんばかりに!」

 僕に対してはポーカーフェイスで通している瀬戸君が珍しく私情を顕わにし、感情的に声を荒げた。敵に回して本当の意味で怖いのは腕力に物言わせて、「拳を下ろすぞ」と脅しをかけてくる拳を下ろした後のことなど何も考えていない頭の弱いマッチョよりもネチネチと理論で責め立てて、相手を精神的にとことん追い詰め、疲弊させる瀬戸君のような頭の切れる粘着質な知能犯だ。

なので、これがマリナの方針であって、本来の僕の持つキャラクターと展開の黄金パターンは否定され、二度と顔を出さないように完膚なまでに海の底深く沈められてしまったのだ、と説明したところで事情はややこしくなるのが必定なので反論などとんでもない。

 しかし、僕は瀬戸君の説を正論と見做す。なぜなら僕も同じ想いであるからだ。コアなファンを無視してまで新しい、特に女性の読者に媚びへつらうことに迷いと憤りこそ感じれど、潔しとはしていない。

 だが、この頃の僕の作品には僕の息吹や思想が全くと言っていいほど入っていない。入れようとしても反映されない。言うなればマリナの簾政がはびこる傀儡国家だ。それも清貧の善政が立ち行かなくなったがゆえにマリナという有能な執政を迎えた傀儡国家。そして僕は絶望に革命を起こす気概も失せ、しょぼくれ、いじけた皇帝だ。そんな玉なしに昔日の輝きを崇められ、窮状を訴えられても辛くなるばかりだ。

 僕は心から申し訳なく思った。

「期待に添えないですまない」

「言い過ぎました。謝らないでください。色々と大人の事情もあるのでしょう」

「しかし」

「ファンとはこのようにワガママなものです。ただ、米川先生と言うクールで稀有な太陽がこのまま地に落ちていくんじゃないかって不安になったんです。なんだか先生が先生でなくなってしまうような不安、と言えばわかっていただけますか?世界を広げるのも結構ですが、どうか原点をお忘れにならないでください」

「わかったよ」

「次回作、期待しています」

「ああ」

 マーケティングとスキルアップを両立させることが天分なのがマリナだとしたら、どこまでも僕の資質に賭けたいのが瀬戸君なのだろう。

 果たせそうもない約束をしてあげることはできなかったが、すでにゲラに目を通して、「嗚呼。今月もか……」と失望したことが窺えるどことなくやりきれなさそうな瀬戸君の沈んだ表情を見ていると、今すぐに僕が金庫に仕舞ってある例の小説を新作として託して、「これぞ偽りなき僕の作品だ!」と胸を張りたくなるのだが、あれは僕が麻樹をはじめとする何もかもを失い、チェンマイで、いや。この世界のどこででもいいので生き絶えてからはじめて生を受ける小説なので、結局、言いたいことなど何一つ言えず、おそらく色んな誤解や憶測を与えたまま、玄関で瀬戸君を見送るのだった。

 僕は手を組むべき思想家とはことごとく対立し、エグザイルやAKBといった圧倒的支持を受ける若者に擦り寄る最近の小林よしのり氏は辛すぎて見ていられないのだが、瀬戸君から見た今の僕はまさに「見ていられない」のかもしれない。もっとも、僕には小林氏における「戦争論」や「台湾論」のような歴史に残るべき名著はないが……

――それはそうと、麻樹の小説。届いているかな?

 思わぬところからのダメ出しに筋道の通った反論もできず、疲れがどっと滲んできたので、心が、体が、何か甘いもの、乃至はたった一部分でも麻樹のテイストが含まれているものを激しく欲していた。

――麻樹のあの白い体を抱けばこの暗い欲望と鎖と鉛球でがんじがらめにされた創作に対するしがらみが消えるというのだろうか?

と考えて、見えてこない答えを求めて、見えない敵にシャドウボクシングで挑みかかり、そいつに重いジャブを喰らったみたいにひとりの書斎に蹲り、「麻樹。僕に一瞬の救いをおくれ」と十も二十も年老いたようなしわがれ声で光を求め、這うようにして机に辿りつき、パソコンを開き、メールをチェックしたが、麻樹からの返信はなかった。

 空腹と寒さに苦しみ、それが限界に達し、非常食として食器棚にあるはずの最後の黒パンがすでになく、あとは飢え死ぬのを待つしかない状態と言えば拡張があるが、僕にとってそれは本当にそれしかなく、それでなければならないわけであり、「パンがなければお菓子を食べればいいのに」にはならないのだ。

――たった一時間前に送ったメールの返信がないというだけで、まるで狂人だ。

 その自己分析をしているのは完全に僕から幽体離脱してしまっている冷静な本来の僕だ。下手したら、事ここに至った一切とその対策までを得意げに饒舌に語り出しそうなもうひとりの僕だ。狂人というよりも分裂症に近い。

「マコトさん。どうしたんです?この世の終わりみたいな声出しちゃって、あの編集者に何か気に障ることでも言われたんですか?今度、顔を引っ掻いときましょうか?ボク、あのひとあんまり好きじゃないんで」

 ココアが目を白黒させながら小走りで入室し、僕の目の前に対峙した。相変わらず、猫でありながら僕より高いところには行かない。人間を知り尽くした猫だ。

「それもあるんだけど」

「マキさんのことですか?」

「あぁ。彼女、小説を書いてるらしくて、見せてくれって言ったんだけど」

「で、テキストが送られてきてないと、そういうことですか?」

「まぁ、そういうことだ」

 ココアは「ヤレヤレ」と首を捻って、真っ直ぐに僕を見据えた。

「小説を添削し、アドヴァイスするどさくさにマキさんと云々と言う考えは感心しませんね。だいたい、マリナさんのことはどうするんです?」

「それを言うなよ」

「いいえ。ボクは言います。片やもうすぐ人妻になる人、片や誰もが認め、誰もが羨むパートナーでしょうが。つったく、道理ってもんがわからなくなるなんて困ったお人ですよ。マコトさんは」

「ココア。お前は猫だからわからないかもしれないが、人を好きになるってことはいつも清く正しいとは限らないんだ。欺かなきゃいけないことだってあるし、手を汚さなきゃいけないことだってあるさ」

「その割には臆病で、やることが姑息ですね。マリナさんというものがありながら、結局、そういう強欲に取り憑かれたどっちつかずの亡者は最後にはどちらをも失うことになるんですよ」

「そう。僕は失うんだ。そしてもう、死刑執行の日はすぐそこまで近づいているんだ」

 僕は作曲家が作曲に煮詰まった時みたいにキーボードの前にうつ伏した。ピアノのように派手な不協和音を奏でないが、鈍い崩れるようなタイピング音がする。まるでわかりきっている運命を嘲笑うような軽さだ。このまま泣いてしまいたいが、機械は水に弱いので堪えるしかない。僕は涙を流すこともままならないのか?ひたすら非力さが心の傷跡に沁み、それがまた新たな涙に姿を変えようとするのを堪える。

 すると、見かねたココアが身をひょいと机の上に移し、僕の手の甲をザラザラとした舌で舐めながら、「それだけの覚悟があるのならいいことを教えますよ」と教唆をするように秘密めいた小声で鳴く。

 僕はそれには何の期待もせず、俯いたまま聴き続けた。

「マリナさん。今日、携帯を忘れてますよ。取りに戻らないうちにマキさんの携帯番号をメモして、電話して『あなたの小説を読みたいからどうしても会いたいんだ』とハッキリと伝えたらどうですか?」

「へ?」

 僕は耳を疑った。

 ココアと会話できると言っても頭のいいココアと違って、僕のほうは意訳が多く、ネイティヴすなわち、猫でないとわからない細かいニュアンスまで聞き取れるわけではないのだが、確かに「今日、マリナ、携帯、忘れている」は聞き取れた。

 僕は勢いよく顔を上げた。

「ど、どこにあるんだ?」

「ケリーバックの中。鍵は掛かってないはずだから、急いで!」

 僕はココアに急き立てられるようにマリナがいつもメインに使っている赤のケリーバックをクロゼットの中に見つけるとまるで初めて女のブラを外す少年のように手を震わせながら口をあけ、セーラムライトの空き箱やスケジュール帳や雑然と丸めた数枚のレシートの間をぬって、ドコモの五六年前の古い機種の携帯が顔を出した。じじいのお告げと言い、ココアのことと言い、恋愛中というのは喩え、片道通行と雖も、不可思議なことが多々起こるものだ。

 僕は「感心している場合ではない」とアドレス帳の「ま」行を探ったが、ないので、軽く癇癪を起こし、ココアを睨んたが、マリナは麻樹を「お姉ちゃん」と呼んでいることを思い出し、「ま」行から「あ」行に移すと、最後のほうに「お姉ちゃん」の番号は登録されていた。僕はその番号を間違えてしまっては泣くに泣けない後の祭りなので、指が汗ばみ、震えながらも僕の携帯に一個一個、ゆっくりと数字を押し、さらに間違いはないか、と「ゼロハチゼロ」なんて声に出して確認し、麻樹の携帯番号を控え、シャツの袖で指紋を拭き取り、マリナの携帯を元通りに戻した。まるで現金かダイヤでも盗んだみたいだ。それも麻樹の為に盗んだのではなく、麻樹のものを盗んだのだ。

「いいですか。ボクは何も教えていませんし、どうなろうともボクは関与しません。全てご自分の責任ですよ。マコトさん」とココアは渋い顔をすると、首の鈴をチリンチリン言わせて暖かい窓辺のお昼寝ポイントに去っていった。

 狐と言うよりも猫に抓まれた気分のまま、液晶画面にいとおしげに浮かぶ麻樹の携帯番号をうっとりと見詰めているとほどなくマリナが帰ってきた。

「まったく、厭になっちゃう!携帯を忘れるなんて。ガソリン代エディで払おうて思ったら携帯がないんですもの」

 その声が聴こえると、ココアは走って玄関にマリナを迎えに行く。

その可愛い惰性を含んだ日常性には何の矛盾もなかった。

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