寒い。ぬぐいを下げて、つぼへ下る。

 三畳へ着物を脱いで、段々を、四つりると、八畳ほどなへ出る。石に不自由せぬ国とみえて、下はかげで敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、とうほどなぶねえる。ふねとはいうもののやはり石でたたんである。鉱泉と名のつく以上は、いろいろな成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。おりおりは口にさえふくんでみるがべつだんの味もにおいもない。病気にもくそうだが、聞いてみぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとよりべつだんの持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだことがない。ただはいるたびに考えだすのは、はくらくてんをんせんみづなめらかニシテ洗フ二ぎようヲ一という句だけである。温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出しえぬ温泉は、温泉としてまったく価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。

 すぽりとかると、乳のあたりまではいる。湯はどこからいて出るか知らぬが、常でも槽の縁をきれいに越している。春の石はかわくひまなくれて、あたたかに、踏む足の、心は穏やかにうれしい。降る雨は、よるの目をかすめて、ひそかに春をうるおすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやくしげく、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立てめられた湯気は、床から天井を隅なくうずめて、すきさえあれば、節穴の細きをいとわずでんとする景色である。

 秋の霧はひややかに、たなびくかすみはのどかに、ゆうく、人のけむりは青く立って、大いなる空に、わがなき姿を托す。さまざまのあわれはあるが、春の夜のの曇りばかりは、ゆあみするもののはだを、柔らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。目に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹をひと破れば、なんの苦もなく、下界の人と、おのれをいだすように、浅きものではない。一重破り、ふた破り、いくを破り尽すともこのけむりから出すことはならぬ顔に、四方よりわれ一人を、あたたかきにじのうちに埋め去る。酒に酔うという言葉はあるが、烟りに酔うという語句を耳にしたことがない。あるとすれば、霧にはむろん使えぬ、霞には少し強すぎる。ただこのもやに、しゆんしようの二字を冠したるとき、はじめて妥当なるを覚える。

 余は湯槽のふちにあおむけの頭をささえて、透きとおる湯のなかの軽き身体からだを、できるだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわりふわりと、魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着のしんばりをはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦はらぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督キリストのおとなったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、もんは風流である。スウィンバーンのなんとかいう詩に、女が水の底でおうじようして嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリアも、こう観察するとだいぶ美しくなる。なんであんな不愉快な所をえらんだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはりになるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れるありさまは美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話かになってしまう。けいれんてきもんはもとより、全幅の精神をうちわすが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリアは成功かもしれないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味をもって、ひとつ風流な土左衛門をかいてみたい。しかし思うような顔はそう容易たやすく心に浮んで来そうもない。

 湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門の賛を作ってみる。


雨が降ったら濡れるだろ。

霜が下りたら冷たかろ。

土のしたでは暗かろう。

浮かば波の上、

沈まば波の底、

春の水なら苦はなかろ。


と口のうちで小声にじゆしつつ漫然と浮いていると、どこかでしやせんが聞える。美術家だのにといわれると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における知識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳にはあまり影響を受けたためしがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の湯壺の中で、魂まで春のに浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのは、はなはだ嬉しい。遠いから何をうたって、何を弾いているかむろんわからない。そこになんだか趣がある。いろの落ち付いているところから察すると、かみがたけんぎようさんのうたにでも聴かれそうなふとざおかとも思う。

 小供の時分、門前によろずという酒屋があって、そこにおくらさんという娘がいた。このお倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、かならずながうたのおさらいをする。おさらいが始まると、余は庭へ出る。ちやばたけつぼ余りを前に控えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は周り一尺もある大きなで、面白いことに、三本寄って、はじめて趣のあるかつこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびたかなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋のかたくなじじいのようにかたくすわっている。余はこの燈籠を見詰めるのが大好きであった。燈籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとにおうて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この燈籠をにらめて、この草のいで、そうしてお倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

 お倉さんはもう赤いがらの時代さえ通り越して、だいぶんとしよたいじみた顔を、帳場へさらしてるだろう。むことは折合がいいかしらん。つばくろは年々帰って来て、どろふくんだくちばしを、いそがしげに働かしているかしらん。燕と酒の香とはどうしても想像から切り離せない。

 三本の松はいまだに好い恰好で残っているかしらん。鉄燈籠はもうこわれたに相違ない。春の草は、昔、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。お倉さんのという、日ごとの声もよも聞き覚えがあるとはいうまい。

 三味の音が思わぬパノラマを余の眼前に展開するにつけ、余はゆかしい過去ののあたりに立って、二十年の昔に住む、がんなき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開いた。

 誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に注ぐ。湯槽の縁のもっとも入口から、隔たりたるに頭を乗せているから、槽に下る段々は、間二丈を隔てて斜めに余が目に入る。しかし見上げたる余のひとみにはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒をめぐあまだれの音のみが聞える。三味線はいつのまにかんでいた。

 やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照すものは、ただ一つの小さき洋燈ランプのみであるから、このへだたりではすみった空気を控えてさえ、しかと物色はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、こまやかなる雨におさえられて、にげを失いたるよいの風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らすかげを浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。

 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞絨ビロウドのごとく柔かとみえて、足音を証にこれを律すれば、動かぬと評してもさしつかえない。が輪郭は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭敏である。なんとも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中にあることをさとった。

 注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考えるあいだに、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。みなぎり渡る湯烟りの、やわらかな光線を一分子毎に含んで、うすくれないの暖かに見える奥に、ただよわす黒髪を雲と流して、あらんかぎりのたけを、すらりとした女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のという感じはことごとく、わが脳裏を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。

 古代ギリシアの彫刻はいざ知らず、きんせいふつこくの画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりにあからさまな肉の美を、極端までがき尽そうとするこんせきが、ありありと見えるので、どことなく気韻に乏しい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが解らぬゆえ、われ知らず、答えを得るにはんもんして今日に至ったのだろう。肉をおおえば、うつくしきものが隠れる。かくさねばいやしくなる。今の世の裸体画というはただかくさぬという卑しさに、技巧をとどめておらぬ。ころもを奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬとみえて、あくまでも裸体はだかを、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、あかはだかにすべての権能を付与せんと試みる。十分で事足るべきを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞという感じを強く描出しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその観者をうるをろうとする。うつくしきものを、いやがうえに、うつくしくせんとせるとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとのことわざはこれがためである。

 放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画において、詩において、もしくは文章において、ひつすうの条件である。きんだい芸術の一大へいとうは、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、として随処にあくそくたらしむるにある。裸体画はその好例であろう。都会にげいというものがある。色を売りて、人にびるを商売にしている。彼等はひようかくに対する時、わが容姿のいかに相手の瞳子ひとみに映ずるかを顧慮するのほか、なんらの表情をも発揮しえぬ。年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人をもって充満している。彼等は一秒時も、わが裸体なるを忘るるあたわざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんとつとめている。

 今余が面前にひようていと現われたる姿には、いちじんもこのぞくあいの目にさえぎるものを帯びておらぬ。常の人のまとえる衣装を脱ぎ捨てたるさまといえば、すでににんがいに堕在する。はじめより着るべき服も、振るべきそでも、あるものと知らざるかみの姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。

 室をうずむる湯烟は、埋めつくしたる後から、絶えず湧き上がる。春の夜のを半透明に崩しひろげて、部屋一面のの世界が濃かに揺れるなかに、もうろうと、黒きかとも思わるるほどの髪をぼかして、真白な姿が雲の底からしだいに浮き上がって来る。その輪郭を見よ。

 くびすじかろく内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、またなめらかに盛り返してしたはらの張りを安らかに見せる。張るいきおいを後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くるひざがしらのこのたびは、立て直して、長きうねりのかかとにつくころ、平たき足が、すべてのかつとうを、二枚のあしのうらに安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪郭は決して見出せぬ。

 しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が目の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種のれいふんのなかにほうふつとして、十分の美をおくゆかしくもほのめかしているにすぎぬ。へんりんはつぼくりんのあいだに点じて、きゆうりようの怪を、ちよごうの外に想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、めいばくなる調子とをそなえている。六々三十六鱗をていねいに描きたるりゆうの、こつけいに落つるが事実ならば、赤裸々の肉をじようしやしやに眺めぬうちに神往の余韻はある。余はこの輪郭の目に落ちた時、かつらの都をのがれた月界のじようが、おつに取り囲まれて、しばらくちゆうちよする姿とながめた。

 輪郭はしだいに白く浮きあがる。いま一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ、俗界に堕落するよと思うせつに、緑の髪は、波を切るれいの尾のごとくに風を起して、ぼうなびいた。うずく烟りをつんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場をしだいにむこうとお退く。余はがぶりと湯をんだまま槽の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す温泉の音がさあさあと鳴る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る