第25話
夜に取り残された星が、青白んできた空にわずかにかかっている。夜明け前の夏の浜辺は、夜の喧騒が滓(おり)となってただよい、どこかけだるい。朝露を含んだ砂は重くからみついて、吉田たちを追って浜辺を歩くスメラギの足取りをさらに遅くさせた。
ほの暗い浜辺に、ふたりの姿は影としかみえない。頼りなさげな影は、時々ひとつに重なり合いながら、波打ち際をゆらゆらと漂っていた。
朝もやの中にスメラギと死神の姿を発見した小夜子は、吉田の背にさっと身を隠した。その肩を抱き、そっとスメラギの前に押し出したのは、吉田だった。
「僕が知らせたんだ」
小夜子は怪訝な顔をした。
「美月さんの体で一緒になっても幸せにはなれないよ。美月さんには美月さんの人生がある。人の人生をふみにじってまで幸せになろうとは、僕は思わない」
「美月さんが男だから? だから一緒にはなれないというの?」
「そうじゃなくて…」
「女の体にのりうつればいいわ。それならこんな風に人目を避けて行動することもないし」
「小夜子さんっ!」
吉田は思わず声を荒げた。
「誰の体でも同じだよ。その人にはその人の人生がある。その人生を自分のものにしてしまうだなんて、まるで殺人じゃないか。そんなことをしても、幸せにはなれないだろう?……」
強い口調に変わりはなかったが、吉田は一言一言をゆっくりと、はっきりと小夜子にその意味が伝わるようにと繰り出した。
小夜子は、目を見開いてじっと吉田の目をみつめていた。瞳が右へ左へ揺れ、吉田の意図を必死に探ろうとしている。
私を愛していないの? 私と一緒にいたくないというの? また別れ別れになるというのに平気だというの? 死んでもあなたのことが忘れられず、ずっと待っていたのに、やっと出会えたというのに! これからだというのに!!
小夜子の無言の抵抗にも、吉田は屈しなかった。彼の決心が揺るがないものだと悟り、小夜子の頬を涙が伝ってこぼれ落ちた。
泣き崩れる小夜子をしっかりとその胸に抱き、吉田は恋人との別れを惜しんだ。
吉田に背中を押され、小夜子はスメラギの前に立った。
朝日が水平線を割ろうかというそのとき、朝もやと見間違うかのような煙が美月の体からたちのぼった。その刹那、吉田の目が宮内小夜子の姿をとらえた。かつて愛した人の姿が、生きていた当時と変わらぬまま、そこにあった。小夜子の黒い大きな瞳がじっと吉田だけをみつめている。
愛おしい人の姿は髪の毛一筋でさえも見逃すものかと、吉田は瞬きを忘れて小夜子に見入っていた。
「待ってますから! あなたが生まれ変わるのを待ってますから!」
死神に腕をとられ、今にも連れていかれる小夜子は、かすかにうなずいた。
「待つだけ無駄だ。この女は生まれ変われない」
死神の一言に、空気が凍りついた。
「それはどういう?」
「おいっ、死神っ!」
スメラギが止めようとするのを無視し、死神は先を続けた。
「お前、何人も人間を殺しただろ」
小夜子が柏木孝雄を待ち続けた場所 ― 都心の繁華街を走る幹線道路の交差点では事故が相次いでいた。犠牲者はすべて若い男性。小夜子とわかれわかれになった当時の柏木孝雄と同じぐらいの年齢、顔つきもどことなく似ていたのは、柏木の面影をしのばせていたからだろう。
小夜子はただ、柏木孝雄を待っていただけだった。柏木孝雄と同じぐらいの年齢、背格好の男をみかけると、その姿を現してみせた。道路中央に立つ女を避けようと、男たちはハンドルを切り、あるものは交差点の角にある店に突っ込み、あるものは対向車線にはみ出し、それぞれに事故を起こして死んでいった。
「あれは、事故で……」
「理由は何でも、人間に危害を加えた霊は生まれ変われない。未来永劫、地獄ですごすことになる」
「未来永劫……」
小夜子の様子がおかしい。
ぞっとするような冷気がたったかとおもうと、小夜子の人の姿としての輪郭が、朝もやにとけこむかのようにぼやけていった。たちまち、あたりには吐き気をもよおすほどの異臭がただよいはじめ、空気が今度は熱をもちはじめた。
「わた……し、ワ、タシ……タカ、ダガ……オ……」
吉田にむかってのばされたその腕の皮膚はただれ、ズルリ……と肉がそげおちた。美しかった髪は、糸を引くように抜け落ち、助けを求めた黒い瞳はたちまち眼窩に沈んだ。
「小夜子さんっ!」
かけよろうとする吉田を、スメラギはその腕をつかんで引き止めた。
「スメラギさん! 小夜子さんはどうしたんです? 一体、何が起こってるんです?」
「怨霊になっちまった……」
小夜子はもはや人の形を失っていた。そこには、他をかえりみることのない、愛するものへの執着と情念だけが、凝固した感情だけがあった。それは、おぞましいほどに醜く、そしてひどく美しかった。
「未来永劫、添イ遂ゲラレナイノナラ、モウ一度、コノ男ノ体にニノリウツルマデッ!」
はげしい炎がたちまち、気を失って浜辺に横たわる美月めがけて走った。
「臨・兵・闘・者・皆、」
鋭い光が空(くう)を裂いた、
「陣・列・在・前!」
爪の先までそろえたスメラギの五本の指の鋭い刃先は、怨霊と化した小夜子を斬り裂いた。
小夜子の断末魔の叫びに、スメラギは母の声を聞いた気がした。
(ありがとう……)
最後に見た母の姿は、もはや怨霊ではなく、生きていた頃と変わらぬ優しい微笑みを浮かべていた。スメラギの心が目を偽ってみせた錯覚だったのかもしれない。
人に仇なす怨霊というが、苦しんでいたのは怨霊となった母自身だった。身の内から立ち上がる業火に焼き尽くされ続けながら、母はスメラギをいじめていた子たちに祟った。そして、呪われ、業火はさらに強まった。自らの尾をのんで空腹を満たす蛇のように、母は祟っては呪われ、苦しんだ。
すでにこの世のものではない母に、安息の死はおとずれない。地獄がその火を放った母を、救えるのはスメラギだけだった。
スメラギは、怨霊となった母を永劫の苦しみから救うために、寂滅の法を用いて滅ぼした。
小夜子もまた、消滅した。小夜子を消滅させたスメラギは、彼女を救ったことになるのだろうか……。
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