第10話 王子、公爵家に着く
俺はレティシアとして、公爵家の迎えの馬車に揺られていた。クッションを敷き詰められた座席は横になる以外に足を下ろす場所がなく、俺はクッションにスッポリと包まれて快適な道行きだった。本当ならば。
しかし実際は、レティシアとして生活するとはどういう事になるのだろうと、内心は不安な事しきりで心の余裕がこれっぽっちも無かった。入れ替わりを知っているリリアーヌと二人きりであれば、公爵家に着くまでに事前の打ち合わせが出来たであろうが、何も事情を知らないエマという侍女頭も一緒だ。それが出来るはずも無い。
俺は一人でレティーは両親の事をどう呼んでいただろうかとか、顔を知らない家令や侍女をなんて呼べば良いかとか、そういった不安な事を堂々巡りで考えていた。
「お嬢様、先ほどからぼんやりとされて、まだお加減がよろしくないのですか?」
じっと黙って考え事をしている俺に、エマが声をかけてきた。
「い、いえ。私は大丈夫・・・よ。体調は悪くない・・・わ。心配してくれてありがとう、エマ。」
急な会話にドキッとしたが、どうにかレティーの振りをして返事が出来た・・・と思う。自分で言っておきながら自分の言葉にゾワゾワと鳥肌が立つようだ。元に戻れるまで、これにも慣れていかなくてはいけないのか。
しかし、レティーにもなりきってやると豪語したし、この身体を守ってやると言ったんだ。やれるだけやってみるさ。
「それにしても、お嬢様。先ほどのアラン殿下は格好良かったですわね。軽々とお嬢様を抱き上げて、馬車まで運んで下さって。近頃は私どもの間でも、お嬢様とアラン殿下の仲を心配するような噂が流れていたので、むつまじいご様子でホッとしました。」
「あ、あはは。」
俺は引きつったような笑いを浮かべる事しか出来なかった。
「あ、お嬢様、じきにお屋敷に着きますよ。多分、執事のセドリックさんが準備をしてお迎えして下さると思います。」
俺が上手く会話を繋げられないのを見て、リリアーヌが話しを切り替えてくれた。そうか、執事はセドリックというのか。こういうさりげないサポートは助かる。
「ありがとう、リリアーヌ。セドリックにはよろしく伝えておいてね。」
俺はリリアーヌの助けに感謝の意を伝え、少し身体を起こし馬車の窓から外を見てみた。公爵家の王都の屋敷は王城に近い区画にある。王城に近い屋敷ほど、古くから王家を支えてきた高位貴族家で、古くは王家の血筋から別れたジリー公爵家も例外ではない。
対して学園は新しい建物なので、王都の郊外に存在する。俺たちは今、王都の郊外から中央へ向かう石畳を馬車に揺られている訳だ。王城も段々と近くに見えてきた。
本来であれば俺もあそこに戻るはずのだが、今はレティシアだ。ほんの少し帰る場所が違うだけなのに、こんなにも不安な気持ちになるなんて・・・。負けそうになる心を叱咤し、俺は気持ちを引き締めた。
少し身体に力をこめたせいか、クーと可愛らしく腹がなった。俺の腹が鳴ったハズなのに、なんて可愛らしい音なのか。その可愛らしさが何だか恥ずかしくて、思わず顔が熱くなる。
「あら、お嬢様。着いたら急いでお昼の仕度を致しますね。消化に良い、少し柔らかい物になさいますか?」
エマが愛らしいものを見るような笑顔で聞いてきた。
「ええ。お願い・・・」
本当は普通に食べたいのだが、どうしてかそう返すしか出来なかった。
公爵家の屋敷についた。公爵家は広大な庭を持ち、門から屋敷の玄関まででも馬車で数分の距離がある。かつてはもっと広大な庭だったそうだ。
しかし、王都の人口が増え、王都の政治的役割が重くなってくると、次第に貴族達が領地から王都に出てくる際の屋敷を建てる事が増えた。その土地不足を補うため、国が公爵家を始め中央の貴族の土地の一部を買い取り、他の貴族達に売る事になって今の広さになったという。それでも、かなり広い。
そんな事を考えながら、よく手入れされた庭を眺めていると、やがて玄関前の車止めに馬車が止まった。
馬車の前に多くの人が集まってくるのが足音で分かる。俺は急に緊張して、身体を強ばらせた。
「大丈夫ですよ。私がお助けします。」
そんな俺を見たリリアーヌが、俺の手にそっと手を重ね、こっそりと声をかけてくれた。
「ありがとう。」
そういう一言が、こんなにも心の底から嬉しいなんて、俺は生まれて人の優しさを知った気がした。
馬車の扉が開けられる。眩しい光に一瞬目が眩んだが、それもすぐに収まり、初老の執事と大勢の侍女が馬車の前で俺が降りるのを待っているのが見えた。
執事が一歩前に出る。
「「お嬢様、お帰りないませ。」」
馬車のステップにゆっくりと足を下ろす。以前よりも身長が低くなっている事や、靴に少しヒールがあるせいで、思ったよりもステップが遠くに感じる。降りにくいなと思った時には執事がサッと手を差し伸べ、俺が降りるのをエスコートしてくれた。
助かる。俺も普段はエスコートをする側だったのだが、そうか、される側というのは存外安心感が増すものなのだな。
「ありがとう、セドリック。」
俺は馬車の中で名を覚えたばかりの執事に言葉を返した。
「お嬢様、お帰りなさいませ。」
俺が馬車を完全に降りるタイミングを見計らって、並んでいた大勢の侍女達が声を合わせて挨拶をした。皆、心配げに俺を見てくる。
あ、無理。俺、こんなに一度に侍女達の顔と名前、覚えられない。背中にじっとりと冷や汗をかいた。
「お嬢様、アラン殿下と階段から落ちて気を失われていたと聞きました。お身体大丈夫でしょうか? 車椅子も用意しておりますが。」
「え、ええ。もう大丈夫よ。ただ、そうね、少しお部屋で休ませてもらいたいわ。」
取りあえずボロが出る前に中に入りたい。
「お、お嬢様、お屋敷に入りましょうか。」
俺が困っているのを見て、リリアーヌが促してくれた。リリーも声が震えてるのをみると、俺と一緒で緊張してくれているのだろうな。
俺は足を一歩を踏み出したが、長いスカートが足に纏わり付いて来て、歩く事すらいつもと違うのだと思い出した。素早く思考を巡らし、レティシアはどう歩いていただろうかと考え、こんな感じだったかと少し小股に歩く事にした。周りの者達には不審に思われなかったと思いたい。
重厚な屋敷の扉をくぐると、早く衆目から逃れたいと思っていた俺に、次なる試練が待っていた。
公爵夫人、すなわちレティーの母親である。
夫人はレティーと同じ、長い透き通るような銀髪を頭の上の方でまとめ、少し動きやすいゆったりとした普段用のドレスを纏っていた。
レティーにそっくりな顔立ちで、本人がそのままほんの少しだけ年齢を重ねただけのように若々しく見える。ただ、その目はレティーよりもずっと冷ややかな印象がし、俺は幼い頃から少し苦手だった。何でも見透かされそうなその瞳に俺は圧倒されていた。
夫人は玄関ホールに入ってきた俺を冷ややかな瞳でじっと見つめていたが、急に目を潤ませたと思うと、俺に走り寄りガバっと抱きついてきた。
「レティーちゃん! アラン君と階段落ちちゃったんだって? 大丈夫なの? 怪我はない?」
あれ? ジリー公爵夫人ってこんなキャラじゃなかったような・・・ もっと冷ややかな感じじゃなかったか? 家ではこんな感じなのか?
しかし、不審に思われているのではと焦っていたが、どうやら違ったらしい。心の中でホッと安堵した。しかし、夫人の豊かな胸が俺の胸元に当たっているのに気づき、再び心が落ち着かなくなった。
「あ、当たって・・・」
「当たって?」
夫人が少し身体を離して不思議そうな目で俺を見た。
「い、いえ。お母様、わ、私は大丈夫です。ほら。怪我もありませんし、元気ですよ。」
俺は両手を広げて大丈夫とアピールしたが、それが返って夫人の不信感を煽ってしまったらしい。
「レティーが変だわ。抱きつくといつもなら冷ややかな目で『お母様、お戯れはやめて離れて下さい』とか言ってくるもの。」
そういう反応か! さすがにそこまで読めなかった!
俺様、ピンチ!
「あ、えーと、お母様が心配されているようだったので、さすがにいつものようには出来なくて。・・・少し疲れたので、お部屋に行きますね。」
「・・・そうね。少しお部屋でお休みなさい。後で念のためフォルジュ先生に診察して頂きましょうね。」
「はい。そうします。」
俺はリリアーヌを促して、冷や汗をかきながら、これから俺の自室になるレティーの部屋へと向かおうとしたが、夫人の心配そうな、それでいて何かを感じているような瞳がいつまでも気になっていた。
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