朱未
あべせい
朱未
「もしもし、お客さん。おつりですよ」
「エッ、あッ、そうか」
店を出ようとした客が戻ってきて、レジの女性店員から釣り銭を受け取った。
店員は20代後半の朱未(あけみ)。
客は同じ年恰好の軽トラック運転手・芝川青居(しばかわあおい)。店は、敷地6坪ほどの小さな洋食屋だ。
青居は朱未から受け取った手の平のなかの硬貨を見て、
「これ、多いよ」
「そう?」
朱未、レジから出てきて、青居の手の平を覗く。
「あらッ、ホント。ごめんなさい。えーと……ちょっと待ってて」
朱未、レジ前に戻ると、
「バーグ定食に、コーヒーだったわね」
言いながら、レジのタッチパネルを操作する。
「しめて1120円。千5百円、もらったから、差し引きィ……380円のお釣りだわ。20円多かったのか。待って、この百円、ちょっと借りる」
朱未は、青居の手の平から百円玉を1個つまみとった。
「くずすわね」
そう言い、レジの中から硬貨をいくつか手にとって、再び青居の前に戻る。
「はい。これで間違いないわ。落とさないでよ」
左の手に掴んでいる硬貨の固まりを、青居の手の平に押し込むと、自分の右手を上から重ねて、青居の手を包みこむようにした。
そして、そうしたまま、
「わたし、朱未。あなたは?」
「エッ」
青居は、ドギマギしつつ、
「芝川青居……」
「そォ。青居さんね。運転しているの?」
「エッ」
青居、自身の作業用ジャンバーの胸元を見て、
「あァ、これ」
そこに「芝川運輸」と刺繍してある。
「一応自営だけど、宅配の下請けだよ」
「この辺、駐車場が少ないから、たいへんでしょう?」
「まア……」
「これからもよろしくね」
朱未はそこでようやく、両手で包み込んでいた青居の手を解放した。
「は、はい。こちらこそ」
青居は、硬貨を握っている左手をグーにしたまま、妙な感覚に襲われるが、朱未の屈託ない笑顔に気圧されるようにして店を出た。
青居は、店から10数歩離れてから、握っていた左手を開いた。
すると、
手の平に、硬貨と一緒に、二つ折りになった小さな紙切れが載っている。紙切れを開くと、手書きのペン字で、
「明日も来てね。朱未」
とある。
青居は、いま出て来た洋食屋「キッチン・シロー」を振り返る。
東赤塚駅から徒歩6、7分の距離にあり、2人掛けのテーブル席が2つに、カウンター席が6つだけの小さな店だ。
いつもは隣のカレーショップに入るのだが、カレーショップが混んでいたのと時間がなかったことから、この日初めて「シロー」に入った。
小さいながらもオープンキッチンで、U字型のカウンターのなかで、コック服を着た50前後の男がフライパンを振っている。
テーブル席とカウンター席の間を縫うように行き来して注文をとり、料理を運んでいたのが、朱未だった。
動きやすいセーターに綿パンのスタイル。形のいい胸のふくらみが青居の目に焼きついている。
青居は、「シロー」から徒歩で3分余りの駐車場に戻った。
駐車場は20数台のスペースがあるが、この時間はいつも数台しか駐まっていない。青居は愛車の軽トラックに乗った。
軽トラは中古で、見るからに古い車だ。あちこちキズがあるうえに塗装が剥がれていて醜い。しかし、同棲していた女に逃げられてから、一念発起して個人会社を立ち上げ、いまはお金がかかる。余分なお金は使いたくなかった。
青居が、軽トラのエンジンを掛けたとき、車のフロントの前に突然女性が現れた。
30前後の人妻風の女性だ。厚手のカーディガンを羽織り、ゆったりしたスカートを履いている。女性は、運転席の青居に近寄ると、
「あなた、ここは月極めですよ」
微笑を浮かべて言った。
青居は咄嗟に頭をかいて、
「すいません。ほかに駐めるところが見つからなくて……」
用意していたいい訳だ。
「あなた、きょうだけじゃないでしょう。きょうで4日目ね」
「ハイ」
こういうときは弁解しないほうがいい。平謝りにかぎる。
「この3番を借りている方は、朝早く出庫すると、遅くなるまで戻って来ない。あなたはそれを知っていて、無断で利用していた。そうでしょッ」
「いいえ、奥さま。ぼくは、ただ、いつも空いているので、駐めさせていただいただけです。昼食をとっている間だけ」
「あなた、お仕事は?」
「荷物の宅配です」
「だったら、この辺りの地理には詳しいわね」
「だいたいは」
「そう。わかった。お昼だけだったら、この3番使っていいわ。3番の借り主には、わたしから言っておく。ただし、無料というわけにはいかない。この辺りだと、いまの時間、1時間、300円が相場だから、200円お出しなさいな」
「それでいいンですか」
「月末にまとめていただくから」
「助かります」
「それから、これはわたしの連絡先」
と言って、名刺を差し出す。
そこには、「白星氷見子」とあり、肩書きも住所もなく、ただ11ケタの番号が印刷されている。
[白星氷見子さんですか]
「あなたは?」
「ぼくは芝川青居です」
「何かあったら、そこに電話して」
「はい、そうさせていただきます」
青居は、相手の素性も確かめないで、そのように返事した。
翌日の正午少し前。
青居の運転する軽トラックが、前日氷見子から許可をもらった駐車場に入った。
ところが、3番のスペースには、真っ赤なツーシートのオープンカーが駐まっている。
「おかしいじゃないか」
青居は腹を立て、携帯を取り出すと、もらった名刺の連絡先に電話をかけた。
「もしもし、芝川です」
「この番号、あなたの携帯ね」
青居はそれには答えず、
「3番でしたね。駐めていいとおっしゃったのは……」
「昨日、話すのを忘れていたわ。3番は火曜と金曜はダメなの。隣の5番を使って」
「エッ、5番……」
「5」と記されたスペースは、確かに空いている。
「5番ですね。ほかに訂正はないでしょうね」
「ないわよ。あなた、わたしが信用できないの!」
氷見子は感情を害したのか、言葉遣いが乱暴になった。
「そういうつもりじゃ」
青居は携帯を切って、5番のスペースに軽トラを入れた。
そして、心を弾ませ、「キッチン・シロー」に急いだ。
心の中は「かわいい朱未ちゃんに会える!」でいっぱいだ。
ところが、いないッ!
シローの中は、昨日と全く同じ感じだが、料理を客席に運んでいるのは、朱未とは似ても似つかない、若いだけの、無愛想な女性だった。
青居はカウンター席に腰掛け、バーグ定食をもってきた愛想のないウエイトレスに尋ねた。
「朱未ちゃんは、休み?」
すると、カウンターの中で、オムライスを作っていたオーナーシェフが、額にシワを寄せて、
「お客さん、朱未にお金を貸しておられたンですか?」
「エッ!?」
「あの子は辞めました。うちとはもうなんのかかわりもありませんから」
シェフはうんざりだという顔をして、それっきり口を閉じた。
青居が勘定をするためレジ前に行くと、無愛想なウエイトレスが顔を寄せ、
「朱未さん、店のお金を持ち逃げしたンですって。シェフは全部で30万ほど貸していたみたい……」
小さな声で言い、おかしそうにニヤッと笑った。
ウソ、ウソだろうッ。青居は心のなかでそう叫びながら、駐車場に戻った。
信じられない。あんなにかわいい娘(こ)が、トンズラするなんて。何かの間違いだ。
青居はぼんやりした頭で軽トラのドアを開け、運転席についた。
と、いきなり、横から、
「元気、してた?」
びっくりして横を見ると、朱未だ。
いつの間にか助手席に腰掛け、うまそうに煙草を吸っている。
「朱未さん……」
「バーグ定食、おいしかった?」
「見ていたンですか?」
「ジャンパーの袖口にバーグのソースが付いているわよ」
「エッ」
青居は慌てて袖口を見る。
「ウソよ。あの店はハンバーグ以外はおいしくないもの」
「そんなことより、よく車の中に入れましたね」
「あなた、助手席のカギをかけていなかったじゃない」
「そうだったかなァ……」
言われてみると、そんな気もするが、よく覚えていない。
「朱未さん、お店をやめたンですか?」
「あそこのオーナーシェフ、わたしにちょっかい出してきたから……」
「ホントですか!」
青居は急に腹が立ってきた。
あの太っちょの赤ら顔の男が、かわいい朱未ちゃんに言い寄っているところを想像した。
「あの店に入ってまだ1ヶ月よ。わたし、デブとハゲは大嫌い」
「お金、持ち逃げした、って言ってましたけど」
「大ウソよ。昨日閉店後に、あのデブが、『これでいいだろッ』って、わたしの手にレジのお金を握らせたのよ。それまでにも、『一度だけ。いいだろうがッ』って、お金の入った封筒を握らせて何度も。しつこかったの。だから、昨日は、はっきり言ってやった。『あんたに抱かれるくらいなら、死んだほうがましよ』って。そうしたら……」
「そうしたら?……」
「『いままでやった金、返せ!』だって。そんなのおかしいでしょ。わたしの手を握って、胸まで触ってンのよ。だから、言ってやった。あいつが昨日勝手にわたしの手に握らせたお金を高く差し上げて『このお金は退職金代わりにもらっておくわ。バーカッ!』って。それでおしまい」
「そうだったンですか」
青居は、ますます朱未が好きになった。
「あいつ、奥さんもこどももいるのよ。従業員に若い女ばかり雇って、手当たり次第に手を付けている。奥さんと別居になって当然よ」
「そういえば、もう若い女性が来ていました。あまりかわいくなかったけれど……」
「あの娘はシェフの姪よ。大学に行っている。いくらなんでも、そんなに早くは見つけられないわ」
あの娘は急場しのぎか。
「でも、朱未さん。どうして、ここに?」
すると、朱未は煙草をもみ消し、大きな瞳で青居をじっと見つめた。
「もちろん、あなたに会いたくて……」
「エッ……ジョ、冗談はやめてください」
「『明日も来てね』って、メモを渡したじゃない。だから、ウソにしたくなかったの……」
青居は朱未の視線をはぐらかすように、
「ここに車を駐めているって、よくわかりましたね」
「この辺りで駐車できるところって、ここしかないでしょ。シローに駐車場があったらいいのだけど。で、覗いたら、『芝川運輸』ってドアに書いた軽トラがあったから、あなたのだなって」
しかし、ここは月極めだ。おれは違法なことをしている。コンプライアンスから言えば、おれと朱未ちゃんは、同じレベルかもしれない。
青居はそんな気持ちがして、朱未に一層親しみが湧いた。
ミラーに、後ろの荷台が写った。
30数個の宅配の荷物がある。
「ぼく、まだ配達が残っていて……」
いつまでも2人で話をしていたいけれど、まだ仕事があるから……とあとに続けたかったが、朱未は、それを遮り、
「わたし、青居さんに助けてもらいたくて、ここまで来たの」
「エッ……」
青居は、驚いて朱未を見た。
その横顔は寂しそうな憂いを湛えている。
「どういうことですか」
「わたしに少しだけ、時間をくれない? わたしにはあまり時間がないの」
「いいですけど。どうするンですか?」
青居に初めて不安が頭をもたげる。
朱未は、寂しげな表情のまま、
「まだ、配達はあるンでしょ」
「はい……」
「だったら、あなたは、仕事を続けて。わたしは、心の整理がしたいから……」
「じゃ、出発します」
青居は、朱未と一緒にいることに満足して車を発進させた。
その後、2時間近く、青居は助手席に朱未を乗せたまま、宅配を続けた。
その間、朱未は、この種の仕事に経験があるのか、ダッシュボードに置いている伝票の束を取り「次はこれね」とその一枚を青居に手渡し、配達を終えた伝票はクリップで整理するなど、手際よく青居を助けた。
青居が、最後の荷物を配達し終えて車に戻ってくると、車のなかで朱未が携帯を手に、激しい口調でやりあっている。
その声が車の外まで聞こえ、青居は車まであと数歩というところで思わず立ち止まった。
「あなたねッ、いくらわたしから持っていけば気がすむの。もう充分でしょ……なに、アパート代? それはあんたが払えばいい……そう、電気もガスも水道も……止められる、って? そんなの知らないわよ……ここ? あんたの知らないところ。見つける、って? やってみなさい。あんたに出来るかしら?……いいから、もう電話しないで。じゃ、バイバイ……」
朱未が携帯を切ったのを見ると、青居はわざと大きな声で、
「終わった、朱未さん! 仕事、終わり!」
青は運転席に座ると、何も聞かずに車を走らせる。
時刻は午後4時を過ぎている。
10分近く沈黙が続いたあと、朱未がようやく口を開く。
「どこに行くの?」
「ぼくのアパート」
「そォ……」
青居は横目を使って朱未を見る。
朱未はひとが違ったように、物静かな表情をしている。
「いいンですか?」
「あなた、わたしの電話を聞いたのね」
「はい……」
「で、わたしに一晩泊まるところを貸して、恩を売ろうと考えた」
「……」
青居は黙った。少しは当たっている。
「図星なのね」
「朱未さんが電話の相手とどんなことになっているのか、よく知りません。でも、朱未さんは今夜、行くところがないみたいだから……」
「……」
数分、無言を貫いたあと、朱未は、小さな声で、
「ありがとう。あなたって、優しいのね」
優しいなンて言われたことはない。優柔不断なだけだ。同棲していた女に逃げられたのも、はっきりしないからだった。
青居は、半年前、3年間同棲していた女から、「結婚しない男といつまでも一緒にいることは出来ないわ」と告げられた。
決断できない男。青居は自分ではそう思っている。
「わたしのカレは……もうカレでもないか。あいつは暴力的で独占欲が強くて。そのくせ、弱虫で、なまけもので、我慢ができない。苦手なものに出くわすとすぐに投げ出す。最低の男。そんな男と半年も続いたわ」
「それで別れようと決めたンですね」
朱未は無言で頷く。
「あんな男とヨリを戻すくらいなら……」
「くらいなら?……」
朱未は少し考えて、
「その先はまだわからない。考えがまとまらないの」
「今夜、ひとばんゆっくり考えてください」
青居のアパートは小さな2階家だが、下に大家が住んでいて、その2階に3つの貸し間がある。青居は、その真ん中の6畳一間を借りている。
トイレと流しは共同、風呂はない。古い昔ながらのアパートだった。
青居はアパートの前に車を付けると、
「真ん中の部屋に入って待っていて。ぼくは車を貸し駐車場に入れてくる。これが部屋のカギ」
そう言って朱未に部屋のカギを預け、自分は駐車場に行った。
アパートに帰る途中、朱未の提案で、2人はスーパーで夕食の材料を買っていた。
青居が戻ると、朱未が横幅2メートルほどの共同の流しでお米を研いでいた。おかずはスーパーの惣菜コーナーで見つけた青居の大好物のトンカツとサラダに卵焼きだ。
午後7時。2人は小さな卓を挟んで、ささやかな夕食をいただく。
卓が小さいから、向き合っていると、青居と朱未の顔の間はわずか60センチほどしかない。互いに顔を見つめあって、テレ笑いしながら。
「朱未さんって、料理が得意なンですか」
「得意じゃないでしょ。得意だったら、サラダでも卵焼きでも作ってあげるわよ」
「そりゃそうか。でも、これおいしいですね」
青居は久しぶりに女性と一緒にテーブルを囲み、気持ちが弾む。
「1つしか部屋がないのね」
朱未は食べ終えると、6畳一間の部屋の中を見まわして言った。
「ぼくは押し入れで寝ます。心配しないでください」
押入れはあるが、半間だから、エビのように丸まって寝るしかない。
「そォ……でも、男のひとの部屋にしてはきれいにしている。なにもないけれど……」
「寝るだけだから」
家具らしいものは、小さな冷蔵庫と縦長の茶箪笥だけ。衣類はみんな押入れに入っている。
ふだん着る服は、ハンガーに吊るし、押入れの壁に打ち付けた釘に掛けてある。
「殺風景でしょう。でも、物をいっぱい置いてゴチャゴチャしているのは好きじゃないから」
青居はそう弁解して、朱未を見る。
物珍しそうに見ている朱未の顔は、無邪気なこどものように穢れがなく、美しい。
女性的な体の線も、青居を満足させる。こんなことって、あっていいのか。ちょっと早過ぎないか。
青居は、そう思いながらも、なるようになるしかない、と考える。
「お風呂に行きますか? すぐそばにあるンです」
「いいわね。じゃ、先に表に出て待っていてくれない? わたし、仕度したいから」
青居は石鹸とタオルを持って、表の歩道に出た。
銭湯はアパートから徒歩で数分のところにある。
朱未はすぐには出て来なかった。10分も待ったろうか。あとで考えると、この間、朱未はカレと電話で話をしていたようなのだ。
「待たせちゃった。ごめんね」
朱未は化粧を落としていたらしく、さっぱりした素顔で、青居を見つめた。
青居は恋人といるような、快い昂奮を覚える。
銭湯の暖簾をかき分け、2人は男湯と女湯の入り口で別れた。
30分後、表で落ち合う約束だった。しかし、30分過ぎても出て来ない。さらに10分待った。先に帰ったのだろうか。
青居は銭湯の番台に戻り、
「ぼくの連れは、まだ中でしょうか?」
青居は、入るとき、2人分の風呂代を出した番台の女性に尋ねた。
「あァ、あなたの彼女なら、入ってからすぐに帰ったわ」
「エッ! そうですか……」
青居は強い衝撃を受け、頭のなかが真っ白になった。
「待って……」
女性が、外に出ようとする青居を呼びとめる。
「あなたに伝言があったわ」
女性はテーブル裏に貼りつけていた紙切れをとって、
「『あとで連絡するから』そう、伝えておいて欲しい、って」
しかし、青居の耳に届いた風はない。
青居はぼんやりしたまま、アパートに戻った。狭い靴脱ぎに脱いであった朱未のスニーカーは姿を消している。
驚いたことに、部屋の中は、青居がふだん仕事から帰ってきたときの状態に戻っている。
小さな卓は、脚が折られて壁際に立てかけられてある。2人で食べたはずの惣菜のケースが見当たらない。
ご飯をよそった2人の茶碗も湯呑みも、茶箪笥の中に戻っている。炊飯器も中がきれいになって、茶箪笥の下の棚に入っている。ただ、炊飯器の中には水で洗って拭いたばかりと感じさせる湿気があり、それだけが、2人が一緒に過ごした事実を物語っていた。
青居は考える。あれは何だったのか。朱未はどこに行った! 書き置きも何もない。朱未の連絡先も聞いていなかった。
青居は翌日、無理を言って仕事を休んだ。
翌々日は、昼どきに「キッチンシロー」に行き、バーグ定食を食べた。あの無愛想なウエイトレスが、勘定をすませて帰る青居に、「これ、預かっています」と言って、二つ折りになった紙切れを手渡した。
青居は駆け足で駐車場に戻る。3番に止めてある軽トラに乗り、紙切れを開く。
「お電話、ください」
とあり、電話番号が記してある。
青居はすぐに自分の携帯を使って番号をプッシュした。
「もしもし」
女性の声だが、朱未ではない。どうなっているンだ。
「もしもし、ぼく芝川青居です。朱未さんですか?」
「わたしは白星氷見子です」
「ヒミコ?」
青居はすぐには思い出せなかった。氷見子が駐車場の管理人を思わせる婦人だったことを。
てっきり朱未と思った青居には腹立たしい気持ちだけが起きる。
「いったい、なんですか!」
「あなた、昨日来なかったわね」
「ちょっと事情があって……」
「そォ、わたしのほうにも事情があって。もうそこには駐めないで。いままでの分はチャラにしてあげるから。じゃ……」
氷見子はそれだけ言うと、電話を切った。
なんなんだッ! 青居の怒りはますます増幅する。
この辺りで昼食をとろうとすると、駐車場は徒歩で5分以上かかるスーパーに行くしかない。ここの駐車場を見つけるまではそうしていた。明日からは、昼食の場所を変えるしかない。
そんなことを考えながら、青居は軽トラを3番から出した。
とまもなく、キッチンシローのオーナーシェフが、2枚のプレートを持って現れ、3番と5番の背後のフェンスに、そのプレートをそれぞれ貼りつけた。
「キッチンシロー専用駐車場」
とある。
3番と5番はもともと借り主がいないスペースだったのか。それをあのババァ……。青居は、氷見子のずるそうな笑顔を思い出した。
翌日から青居は、配達コースを毎日変え、お昼の食事は毎回違う店で食べるように心がけた。
万が一、朱未と出会えるかも知れないと思うからだ。
それから1ヵ月。
その日、シローにたたずまいがよく似た洋食屋を見つけて入った。
駐車したコインパーキングからは10分近くかかる。その店にもウエイトレスはいたが、青居のお袋のような年配の女性だった。
バーグ定食を食べて駐車場に戻る。車のエンジンをかけようとして、フロントガラスのワイパーに紙切れが挟まれているのに気がついた。
フロントガラス越しに「朱未」という小さな文字が見える。青居は慌てて車外に出て、紙切れを読んだ。
「助手席はカギがかかっていたわ。朱未」
とあり、8桁の電話番号が記してある。
青居は急いで、その番号に電話した。
「もしもし、『食事処さひご』です」
朱未の声だ。
「ぼく、芝川青居です」
「よくわかったわね」
「朱未さんこそ、ぼくの車が駐めてあるの、よくわかりましたね」
「何言ってンの。このあたりの駐車場をお昼時に探せば、すぐに見つかるわ。汚い車だもの」
「汚くてすいません」
「本当は、3週間、かかったのよ」
「ひさごは、どこですか?」
「本当を言うと、あなたがいまいる駐車場のすぐ近く。いま話すから……」
「ハイ」
朱未はひさごの場所を説明し終えると、
「お昼は食べたの?」
「食べましたが、まだ食べられます」
「ハンバーグはないわよ」
「かまいません」
「トンカツと卵焼きでいい?」
「はい、なんでも。朱未さん、ぼく、うれしくて……」
「どうしたの。泣いているの?」
「いいえ……あれから、ぼく、ずいぶん探したンです……」
「いいわ。そういう話はこっちに来てから。わたしも、前のカレと別れるのにずいぶん苦労したのよ」
「もう、いいンですか」
「携帯を捨てて、荷物をコインロッカーに預けて、出て来たの……」
「いま、どこで寝泊まりしているンですか?……」
「いいから、早く、いらっしゃい。早く来ないと、またいなくなるわよ」
「行きます。すぐに行きますから……」
青居は携帯を手に持って駆け出した。
(了)
朱未 あべせい @abesei
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