第15話 跪いて、触手を振れ その壱

 篠宮は社長室のデスクに腰かけると、目の前に置かれたPCを起動した。

 事前情報で得ていたパスワードを入力し、持参したフラッシュメモリからとあるツールをインストールする。

 インストール後はすぐにシャットダウンして再び暗くなったモニターを確認すると、社長室を後にした。

 エントランスまで下りると出社してくる社員たちとすれ違ったが、篠宮を怪しむ者は誰もいない。

 当時の同僚たちとすれ違うことを危惧したが、誰も篠宮に気がつきはしなかった。

 入室する時より遥かに緩いセキュリティを経て、ビルの外へ出ると篠宮はきつく締めていたタイを緩めた。

 昔は毎日10時間以上きっちりと閉め続けていたネクタイが、今ではほんの数分でも息苦しいと感じる。

 こんな些細な変化が、篠宮が道を別ってしまった世界との差を見せつけてくるような気がして苦笑した。

(ヤクザだってネクタイは締めてるだろうに)

 どちらかと言えば近い世界となった連中の姿を思い浮かべて再び苦笑する。

(どちらにも属さぬ半端者か)

 結局、篠宮には覚悟が足りなかったのだ。

 進む道はいくらでもあった。

 釈放されたのち、普通に再就職する支援の手もなくはなかった。

 しかし、それを拒んだのはやさぐれた感情に振り回されて足元を見ることすらしなかった篠宮のせいだ。

 この世界に足を踏み入れてからもいくつもの選択肢があった。

 そのいずれかを踏み出す勇気があれば、今はもっと変わっていただろうと思う。

 だが、今、こうして過去の選択肢の「もしも」を考えている事が、すでにこれから進もうとしている先への躊躇いであり、篠宮の半端である所以なのだ。

 無意識にポケットにしまった重い鉄の塊に触れる。

 この重りが篠宮をどこまで沈めてくれるかわからないが、それでも今までの中途半端な自分よりはより深いところへ落してくれるだろう。

「俺も、周りも……」

 篠宮はもう一度ネクタイを締め直すと、手を上げてタクシーを拾った。


(ご主人様……)

 篠宮のスマホは完全に電源が落されている。

 GPSも追えないし、もちろん通話も出来ない。

 通電さえしていれば、どんな手を使ってもつなげることができるが、電源を落とされてしまってはどうすることもできない。

 大島の会社を出たのは確認できた。

 少し歩いた先でタクシーを拾ったのも確認できた。

 しかし、篠宮がタクシーを拾った場所は複数個所の監視カメラの死角にあたり、車を拾うのはわかってもそのナンバーと車種を特定することができない場所だった。

 当然、篠宮はそれがわかってやっている。

 その用意周到さに陸はかなり苦戦させられていた。

(ああっ、もう!)

 キーボードを打つ手が焦る。

 篠宮は途中で銃を入手している。

 射撃訓練を受けたことの無い篠宮では銃で人を殺すことは難しい。

 トカレフとは言え、その反動などで動く的に当てるのはほぼ不可能だろう。

 それは篠宮も十分わかっているだろう。それなのに銃を手に入れたのだ。

 射撃訓練の必要もなく、避けもしない的――唯一例外の的を殺すために。

(ご主人様なら……どこへ行く……?)

 篠宮が死ぬ前に一矢報いてやろうと思うなら、どこへ行くか。

 大島か

 沙英子か

 両親か

 大島の会社に立ち寄っていたが、すでに会社は出て移動している。

 しかし、だからと言って大島がターゲットから外れてはいない。

 全員に可能性がある。

 ならば、どうする?

 三分の一の可能性にかけて誰かの元へ行くか?

(それでは外れた時に間に合わない)

 それならば……。

 陸は外装を再び装着すると、ネットカフェを出る。

 明るい日差しの下、暗い黄泉路へ向かおうとしている篠宮を捕まえなくてはならない。


 篠宮が次に向かったのは元婚約者の沙英子の元だった。

 タクシーをマンションの入り口から少し離れたところへつけてもらうと、エントランスから飛び出してきた人影が目に入った。

(沙英子?)

 慌ててエントランスを飛び出してきたのは沙英子だった。

 左右を見渡し、タクシーを拾うと表通りの方へと出て行く。

「すみません、あのタクシーを追ってもらえますか?」

 支払いの途中だったが、そこに更に一万円札を追加して篠宮はドライバーに言った。

 辛うじて外出着ではあったが、御付の運転手を呼ばずにタクシーで出かけるとはよほど急いでいるのだろう。

(しかもこの道は……)

 篠宮が来た道を逆に辿るように向かっている。

(父親の会社に何の用だ? 旦那に何かあったのか……?)

 予想外の行動だった。

 車は真っ直ぐに大島の会社へ向かっている。

 その予想は外れることなく、沙英子を乗せたタクシーはビルの正面で止まった。

 そしてそのまま車から飛び降りた沙英子はエントランスへと飛びこんで行く。

(おかしい……)

 その慌てた様子もおかしかったが、沙英子が来たというのに秘書が誰も迎えに出て来ていないこともおかしい。

 この会社は大島の一族が経営する会社で、昔から沙英子はご令嬢として丁寧に扱われていた。

 彼女が会社を訪ねる時は御付の運転手が送迎して、エントランスにつけば必ず父親の秘書が迎えに出て来ていた。

 祖父が会長、父親が社長、夫が専務という立場の沙英子の扱いが落ちることはありえない。

 車から降り、様子を窺っていると更に驚く人物がエントランスに入って行くのを目撃した。

(親父っ!?)

 篠宮の父親だった。

 最後に見た時より随分と老けた印象はあったが、見間違うはずもない篠宮の父親だ。

 沙英子と同じく、車から降りるなり慌てふためくようにして急ぎ足でビルの中へ入って行く。

(何があった……?)

 このメンバーがそろうという事は篠宮絡みであるだろうと思われる。

 会社の事ならば沙英子は来ないだろうし、沙英子個人の事ならば父親が来ることが無いだろう。

(夕べ、沙英子に顔を見られた件か?)

 沙英子の方から探っていたのもあり、篠宮がマンションの部屋の前まで来ていたという事実は彼らを慌てさせるには十分だろうと思う。

 だが、それならばもっと早いうちに動いていたのではないだろうか。

 沙英子の様子を見ても御付の運転手の到着も待てずにタクシーで来ているようだった。

(丁度いい)

 篠宮は再びビルの中へと足を勧める。

 必要なのは立ち止まることではなく、先へ進むこと。


「一体何を考えているんだ……」

 大島孝明は椅子に深く腰掛けたまま忌々しそうに吐き捨てた。

 目の前の応接セットには四之宮と娘の沙英子が座っている。

 2人ともイライラと落ち着かない様子だ。

「何だって今頃連絡してきたのか……沙英子お嬢さん、貴女が余計な事をしたせいじゃないんですか?」

 四之宮はカツカツと足を揺すって靴を鳴らしている女に向かって言った。

 沙英子が息子の様子を探っていたのは報告を受けていて、その息子の居所にちょっかいを出したのも聞いている。

「私のせいだとおっしゃるの? 元をただせば貴方が上手く侑弥さんを処分できなかったからこういうことになるんじゃないのかしら?」

「沙英子、止めなさい」

 四之宮に食って掛かろうとする娘を大島が制止する。

 人払いをしてあるとはいえ、余計なことを口にするべきではない。

「お父様。あの人は私のマンションの部屋の前まで来ていたのよ! これ以上は耐えられないわ」

「沙英子」

「あの人の居場所を突き止めて、処分させようとしたのに」

 綺麗な顔とは裏腹に毒の含まれた言葉。

 此処に居る3人の共通の敵は篠宮だった。

 篠宮はあの事件の直前に大島の巨額脱税と横領を知った。

 一族会社とはいえ庇いきれるようなものではなかった。それを大島に指摘し、

 このことが明らかになれば、大島と沙英子は今の生活を失い、その援助を受けていた四之宮の会社が窮地に陥るのは目に見えていた。

 三者の思惑は一致し、すべてが用意された。

 大島を刺したとされるナイフに何故篠宮の指紋がついていたのか?

 両親が雇った弁護士は何故篠宮の話を聞かずに大島の言い分を前提に動いていたのか?

 判決後も予てから準備していたかのようにスムーズにすべてが切り捨てられる方向へと動いたのは何故か?

 篠宮がキッチンで使っているナイフを持ち出すのは沙英子には容易い事だった。

 篠宮に有利にならぬように意をくんだ弁護士を用意して四之宮に斡旋したのは大島だった。

 沙英子との結婚で手に入れるものに不満があると日ごろから言っていたと証言し、性格的に難がある息子を厳しく育てきれなかった悔恨をマスコミに訴えたのは四之宮夫妻だ。

 篠宮を生贄にして、大島の会社は更に業績を伸ばし、沙英子は望む恋人との結婚を手に入れ、四之宮は事業の安定を手に入れた。

「殺してしまえばよかったのよ……」

 悔むように吐き捨てるのは、事件の直前まで篠宮に愛を囁いていた赤い唇だ。

「バカなことを言うな。沙英子。人を殺して完全に処分することなど出来ん。社会的に抹殺することが一番だったんだ」

 しかし、今、篠宮は再び3人に影を落とす。

 気弱だった篠宮はあの事件ですっかりなりを潜めたと思っていた。

 彼の持ち物であるホテルに火をつけたのは脅しだった。それで黙れば見逃してやろうと思っていたのに、篠宮は沙英子の前に姿を現した。

「なにかしら手を打たなければ……奴が知っている横領の件はすでに穴を埋めてはあるが、それでも探られて楽しい話ではない」

 大島は面倒なことになったと眉を顰めた。

 篠宮の事だけではない。

 この狼狽える目の前の二人がすでに篠宮以上の足枷となっていることを何とかしなくてはならない。

 黙っていれば、ヤクザ相手に小ネタを売る仕事で大人しく腐れて行くだけの篠宮を、要らぬ詮索で焚き付けたのは娘の沙英子だ。夫となった男は出来が悪く、今も小銭をごまかすような横領を重ねるばかりの能無しだ。

 四之宮も欲張って仕事を大きくしたものの、それを維持するにも大島の助けが無くてはならない有様で、この先もこの無能な男に金を引かれ続けるのだと思うと胸が悪くなる。

 大島にとって二人はすでに邪魔な枷でしかないのだ。

 皮肉なことだが、ゼロ以下の場所へ叩き落とした篠宮はそこから不動産を得て、今ではそこそこの資産を得るまでに至っている。目の前の無能たちより、篠宮の方が優秀だと言える。

(どうしたものか……)

 大島はヒステリックに喚くしか能のない二人を前に、頭を悩ませていると秘書からインターフォンに連絡が入った。

『社長、面会の方がお見えです』

「今、来客中だ。断れ」

『あの、それが……』

 歯切れの悪い秘書の声を遮るように男の声が割って入る。

『お久しぶりです。大島専務』

 聞き覚えのある声。専務というのは敢えてのイヤミのつもりなのだろう。

「篠宮くん……」

 インターフォンから響いた声と大島の呟きに他の2人も身を強張らせる。

 今まさに話をしていた人物が乗り込んできたのだ。

『私もお招きいただけませんかね? 久しぶりに皆さんにお会いしたい』

 落ち着いた声、セキュリティ用のモニターへ目をやると、フロア入口の受付のカメラに少しやつれはしたが見覚えのある男が立ってこちらを見ているのが映っていた。

「お父様っ……」

 青褪めた沙英子が大島の腕を掴む。

 四之宮は言葉も出ずに呆けたようにこちらを見ている。

 警備に通報して追い出すことは可能だ。

 だが、ここへ来たという事は篠宮にもそれなりの準備があると見た方がた正しい。

 なにせ、大島も沙英子も四之宮も匿名の電話で此処へ集められたのだ。

 その匿名の主が篠宮だと考えるのはごく自然なことだった。

「通せ」

 大島は短く答えた。



―― 続

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