23:髪奈裕江

 タクシーに乗り、途中で香居かいさんを拾って斎場へ向かう。着慣れない礼服に身を固めた俺と香居さんは無言のままだ。

 頭の中を整理しようにも、何だか気持ちも身体も思考回路もばらばらで、どうして良いかが判らない。ただ、状況に流されているだけだということを心のどこかで自覚する。

 暫くして、不意に香居さんが口を開いた。

「家族には会ったこと、ある?」

「いや、ないです」

「そっか……。お兄さんがいるのよ、あの娘。まぁ両親もフツーに健在だけどね」

「お兄さんの存在は知らなかったですね」

 そういえば付き合っていた頃もそういった話はしたことがなかった。俺も髪奈かみなもお互いに家族の話はあまりしなかったと思う。俺は一人っ子だし、面白い家族エピソードなんていうのもなかったから、特に嫌って話さなかった訳ではないけれど。

「私も一応面識はあるけど子供の頃から良くできた兄さんだったみたいでさ。去年まで留学してたのよ。折角帰ってきたのにこれじゃね……」

「……コンプレックスとか、あったんすかね」

 思うところが、少しはある。

「そういうのはなかったのかな……。いや、裏返しかもね。対抗してたようなところはあったわね。兄貴には負けたくない、ってさ。良くそういう話ってあるじゃない?子供の頃に比べられてっていうの。まさにそんな感じだったみたいよ、特に子供の頃は」

 子供の頃から様々なプレッシャーをかけられていたのかもしれない。髪奈本人からそういった話を聞いたことはなかったけれど、髪奈自身、話したくもないことだったという可能性は有りそうだ。

 そしてそういうものを器用にかわしているように見えるのが、髪奈の短所だ。結局心のどこかで燻ぶったまま、きちんと整理することもできないままで。

「クスリ、でしたっけ」

「リスカだって」

「リスカ?」

 聞き慣れない言葉だ。

「リストカット」

 そう言って、香居さんは手首に人差し指を当てた。そんな言葉ですら略される時代か。

「そっすか」

 昨日、香居さんから連絡を受けて、それから殆ど眠れなかった。今も気が張っているせいか、眠気はない。

「最期に会ったの、いつ?」

「一月くらい前、ですかね」

 美朝ちゃんが俺の部屋にきた日だ。あの時から明らかに余裕はなさそうだったけれど。

「そっか、やっぱり私が最期なんだろうな」

「電話はその一週間くらい後にありましたけど」

「私は先週だったからね……。かなりキツイよ」

 だろうな。香居さんと髪奈の関係は、きっと俺が思っているよりもずっと深い。頭もあまり正常に働いていないのは俺以上だろう。俺も香居さんも、上辺だけでどうにか喋っているような感じだ。地に足がついていない、ふわふわとした感じがずっと付きまとっている。何だか信じたくない、ぶっ飛んだ現実のせいで、色々なことが物凄い速さで通り過ぎていってしまって、自分の中に落ちてこないような感覚。

「……俺、何だか良く判ってないっす」

 多分、色々なことで、時間は必要だ。特に今の俺や香居さんにとっては。

「だよね……」

 軽く嘆息して、香居さんは目を閉じた。



 受付には長身の男性が立っていた。恐らく車内で香居さんが話してくれた、髪奈の兄さんだ。細身で整った顔立ちをしている、眼鏡の似合う男性だった。

「どうも」

 俺の隣にいた香居さんが軽く会釈した。

「あぁ、沙奈さなちゃん、しばらくぶりだね」

「お悔やみ申し上げます」

 もう一度頭を下げた香居さんに俺も習う。

「実はあんまり実感ないんだけどね……。ああして眠ってるところを見ても、ね……」

 感情がついてきていないのかもしれないが、俺も香居さんもそれは同じだ。肉親ならば尚のこと、だろう。

 俺もしばらく会っていなかったし、もう会えない、という実感がまるでついてこない。

「君は……」

 お兄さんが俺の顔を見る。

裕江ゆえの部屋に画があったよ。きっと裕江の中で特別な人なんだろうって、思っていた……」

「少し、前ですけど……」

 どこまで知っているかは判らないが、俺はそう言って俯く。初めて描いてもらった俺の絵は、俺の部屋の押し入れの奥だ。捨てようかとも考えたが、それは、髪奈が絵に注いだ情熱を、好き、という気持ちを、八つ裂きにしてしまうようで、俺にはできなかった。

 そして、別れた後もまた、髪奈は俺の絵を描いていたのか。

 それを、受けても。

 家族にかけても良い言葉が、見つからない。

「そうなんだ……。ありがとう、態々きてくれて」

「いえ」

 俺はもう一度頭を下げて香典を手渡すと、帳簿に名前を書いた。

 先に名前を書き終えた香居さんに次いで俺も焼香を済ませると、二人で棺に向かう。

「……ちょっと怖い、けど」

 それは俺も同感だった。子供の頃、爺ちゃんの葬式の時に、爺ちゃんの顔を見ることが怖くて仕方なかった。死んだ、生命が通っていない、人間ではなくなってしまったものを見るのが恐ろしかった。

 今思うとそれは、死に対する恐怖であって、死んだ人個人に向けられたものではない。頭では判っていても、やはり親友だったはずの人間の亡骸は、見たいものではないだろう。俺は香居さんの前に出て、先に髪奈の顔を見る。

 化粧を施された髪奈の顔は、綺麗だった。

「……」

 頬に軽く触れてみた。何度も触れて、何度もキスをした頬だ。

 もう動かない。

 もう戻らない。

 指先から伝わる肌の冷たさが、それを物語っている。

「裕江」

 ポツリ、と名前が口から飛び出た。

(どうしてだろう)

 何故、ここに横たわっているのか。

 何故、もう動かないのか。

 何故、死を選んだのか。

 何も判らないのに。

 何も知らないのに。

 何も納得できていないのに。

 目の前の髪奈は、もう髪奈裕江ではない。

 何も、解らない。

「ばかね……」

 俺の横から香居さんが手を伸ばし、髪奈の額に触れた。その声は涙に震えているのではなく、叱咤するような優しい声音だった。

 親族がこちらを見ていた。美朝ちゃんと同じかいくつか年下であろう制服姿の可愛らしい女の子が目を真っ赤にしている。その目からの涙は止まってはいない。泣き腫らした目から溢れ出す涙が今も頬を濡らし続けている。彼女の視線は俺や香居さんではなく、髪奈を見詰めていた。俺が最期に会った日に髪奈が言っていた従妹の子かもしれない。

「まだ何も知らないじゃないの……」

 またぽつり、と香居さんが呟く。

 きっと、生きていた頃にも、何度も言った言葉に違いない。

 俺は香居さんと髪奈の傍から離れた。



 帰り、香居さんの部屋へ寄って、少しだけ話をすることにした。

 コーヒーを淹れてくれて、それを俺の目の前に置く。

「親友だとか何だとか、結局、人にとっては無意味なのかな……」

 別れた時の俺の気持ちに少し似ているのかもしれない。重さは別として。恋人だろうと親友だろうと、結局誰一人として力になってやることはできなかったということだ。

「人を、受け入れない人でしたからね」

「それは、そうかもしれないんだけどさ。もう少し、何とかならなかったのかな、って」

 人の気持ちは簡単には動かない。特に髪奈のような癇の強い人間の気持ちは、誰が何と言おうと、頑として動かない。

「無力感、っていうのは感じますね。あの人といると。あの人って、人を惹き付けるくせに、結果的には決して受け入れようとしない。……香居さんの話とか聴いてるとね、思うんですよ。あれだけ賑やかだったのも裏返しで、寂しい人だったのかな、って」

 極端な話になってしまうが、俺や香居さんには無いものを多く持っていた。そして髪奈には無いものを俺や香居さんは多く持っていた。両極の立場だったんだと思う。お互いに無いものを持っていたから、俺は恋人として、香居さんは親友として好きになった。

 そして両極だったからこそ、根底で反発し合っていたことが、あったのかもしれない。

「あいつがね、男と別れるたびに説教したり、喧嘩したりしてきた。何度も何度もね。アンタについてるコレは飾りか!ってさ」

 自分のこめかみをトントンと人差し指で叩いて香居さんは言った。

「前にさ、殴られたどうのって、話、したことあったでしょ」

「あぁ、はい」

「その時が一番ヒドかったのね。どっから貰ってきたんだか、クスリとか持ってたし」

 まだ付き合い始めたばかりの頃だ。だからあの時香居さんは退くかもしれない、と俺に言ったのだろう。

「それだけ入れ込んでたってコトっすかね」

「それはそうだったのかもしれないけど、それが悪いことだって、自覚は無かったのよね、アイツの場合」

 こく、とコーヒーを一口飲んで、香居さんは続けた。

 そうだろうか。確かに、悪いことを悪びれずにやっていた節はあった。いや、悪びれずにやっていたというよりも、善悪の判別はつきながらも、わざとそう見せていた節はあったように感じる。それこそ、誰かに咎めて欲しかったのではないか、と思うほどに。

「それで少しは懲りたみたいでさ、割と頑張って……。一歩退いた感じで付き合うようになったのよ」

 あれだけパワーがあっても一歩退いていたのかと思うと少し想像できないな。

「でもね、キミとの付き合いは少し違った。口じゃ言わなかったけど、嫌われないようにって、頑張ってるように、見えた」

 今更そんなことを言われてもどうにもならない。付き合っている時に判っていればあるいは何かが変わったのかもしれないけれど、それも無意味な想像でしかない。

「そういうことを突きつけられちゃえば、確かにどうにかなったのかもしれないっすけど……。でも、多分、この結果になったのは誰のせいでもないです」

 冷たい言い草だ。

 自分でもそう思うけれど、それだけの事実、たった一つの現実のみが残されてしまった。

 その突き付けられた現実に、俺や香居さんが背負える責任は何一つとして残っていない。

「最期の電話でね、俺とはちゃんと恋愛できると思ってた、って言ったんですよ」

「それは本当だと思うよ。キミとの話はね、今までで一番聴かされてたし」

「でも、今、髪奈が死んで、前に付き合ってた男が背負えるものなんて何もないですよ。……それこそ俺と駄目になったから死んだ、って言われたって、何も背負えないです」

「傲慢、だもんね、それは」

 俺が言おうとしてることを判ってくれて、香居さんが頷いた。言い訳がましいことなのかもしれないが、責任逃れでは決してなく。気持ちも、関係すらも、離れてしまった人間の行動をどうすることもできない訳で。

 やり場のない、どうして良いか判らない気持ちのやりようとでもいうのか。誰に何を問うても答えを得られない疑問だとか、自分の無力さを責めたい気持ちだとか、そういう気持ちの無意味さだとか、きっと何もかもが判らない。

 そういうものがのべつ幕なしで俺にも、香居さんにも降りかかっている。

 だから、無理やりにでも、そういった事象、思考とはクリアランスを作って、自らを守らなくちゃいけない。

「全部、終わったことですよ。これから俺たちがしなくちゃいけないのは、髪奈はもういないってコトを受け止めて時間を使わなくちゃいけないってことです」

「……そうだね」

 俯いて香居さんは一言、呟いた。

 俺の、本当は何も意味なんて判っちゃいない言葉に。


 23:髪奈裕江 終り

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