22:優しさの罠
(別に引きずってる訳じゃないよな……)
自分に言い訳して、電話をポケットから取り出す。
「……」
『あぁ、忙しかった?』
いきなり、挨拶もなしで髪奈はそんなことを言った。
「少しは。もう落ち着いたけど」
『かかってくるとは思わなかったよ』
取り繕っているのが判ってしまうくらいに沈んだ声だ。あの髪奈が簡単に切り換えられないほどのことなのか。
「あんたさ、前会った時、余裕なさそうだったし」
『ま、あん時はね』
「今も浮上してるようには思えないけど」
『まぁ別に就職のことでへっこんでる訳じゃないしさ』
どっちにしても余裕はないってことだ。
「……大丈夫、なの?」
つい、口に出てた。
『何?そんなヒドイ声してる?』
「自覚ないの、ヤバイでしょ」
髪奈自身にその自覚は無いらしい。
『そっかな』
そうだ。何が髪奈を追い込んでいるのか。それを聞き出す資格はもう俺には無いのかもしれない。
でも。
「あのさ」
『今度はね』
「え?」
俺の言葉を遮って、髪奈は言う。
『キミとは、ちゃんと恋愛、できるって思ってた』
「……!」
思わぬ言葉に俺は絶句した。
『あたしはね、こういう性格だし、多分無理かな、って思ってたけど』
何も、言葉が見つからない。
だけど、一つだけ気付いた。
『ま、結局、結果見ればそのまんまだったんだけどさ』
「……それはさ、手段を選ばなかったからじゃない?」
『え?』
「何で自分に自信がないのか俺には判らないけど、結局、俺ですら、そういう自信ないことから逃げる口実だったんでしょ」
前にも一度言ったことだ。けれど髪奈は覚えていないだろう。
『どういう、こと?』
「俺からも、自分からも、逃げる口実を作りたかっただけなんでしょ」
自覚はしていないだろう。だけれど、結局髪奈のしていることは、そういうことになるんじゃないかと思う。
『でも、じゃあ、あたしの気持ちってウソだってこと?』
「それは、俺には判らないよ。でもさ、あんたさ、色々できてるじゃん。前に進めてるよ。陸上がだめで絵をはじめたことも、俺と付き合ってだめだったことも、前に、進めてるって、多分そういうことでしょ。そう思えない?」
以前にも一度言ったことだ。やっぱりあの時の髪奈じゃ入ってなかったんだろうけど。だから、もう一度言う。何もかもが後ろ向きで、巧く回らないことがあったとしたって、それでも振り向けば後ろに道ができていたはずだ。
『でも、結局自動的っていうか、気付いたらこんなんだったんだもん』
「だからさ、それって前進だよ。アナタは好きだったものがダメんなったって、他にいいものを見つけて、それから始めて、続けられる力を持ってるじゃん」
それが髪奈の良い所だって思うし、俺にはない長所だ。本当に、何が不満でそこまで自分を壊しているのか、俺には判らない。
『だって、結果とかついてこないし』
そんなもの、陸上とは違うんだから、すぐに出てくる訳がない。
「何をそんなに急いでんの」
スタートが遅い、と言っていた。誰がスタートラインを決めた訳でもないのに。
『別に急いでるってんじゃ、ないけどさ……』
「もう少しさ、時間をゆっくり回したらいいと、思うけど」
『かもね……。ごめん。なんだか愚痴ばっかりだ』
「いや……」
愚痴じゃあない。
『また電話してもいい?』
「いつでも」
『さんきゅ、んじゃね』
そう言って、電話が切れた。そして溜息が漏れた。多分、付き合っていなくても、お互いで奇妙な意識があるんだろうと思う。一度付き合って、別れてもこういう関係であるということは。そして多分、美朝ちゃんの件と同じで、一時期は面倒で仕方がなかったけれど、今はそうではない。それに自覚がある。
自分の中で何が変わったかなんて判らないけれど、ふ、と気付いた時には何かが変わっている。髪奈は自動的、と言っていたけれど、きっと俺も少し、前に進めているような気はしている。
だけれど。
変に期待を持たせた優しさ。
そういうことのような気もする。そしてそれは本当の優しさでもなんでもない。そんなことくらい判っているはずなのに。
周りはそういうことに気付いてはくれない。どうして何もかもが上手く回って行かないのか。判らないけれど、時々酷く馬鹿馬鹿しくなってくる。
そう考えると、髪奈の葛藤も少しは判る気がした。
手の中で電話が震えた。美朝ちゃんが風呂から上がったんだろう。
俺は自分の部屋へと戻り始めた。
美朝ちゃんは風呂から上がったのに制服姿のままだった。
急に俺の所にきたのだから、着替えも何も持っていないのだ。
「美朝ちゃんさ、ちょっとデカイだろうけど」
俺はそう言って、普段は使っていない上下揃いのジャージを美朝ちゃんに差し出した。
「え、でも……」
「着替え終わるまでまた外、出てようか?」
「え、違くて、いいの?」
「あぁ、まだあるし、それは今俺着てないから構わないよ」
「うん、じゃあ借りるね」
そう言って美朝ちゃんは風呂場へ向かった。
俺が頭に手を乗せようとしてビクッ、とした美朝ちゃんを思い出す。
誰に殴られたかは知らないし詮索するつもりもないが、美朝ちゃんが殴られる謂れはないはずだ。他人のお家事情に口を出すつもりもないけど、今は美朝ちゃんがしたいようにさせた方がいいだろう。
「おっきぃー」
おれのジャージを着た美朝ちゃんが腰の辺りを掴んで戻ってきた。ウエストサイズが合わなくて、ジャージのパンツが下がってしまうのだろう。
「ま、制服でいるよかいいでしょ。制服はそこにかけときな。しわんなっちゃうから」
壁にかかっているハンガーを指差して、俺は笑顔になる。
十五歳にしては体躯の小さい美朝ちゃんが俺の服を着てタブダブな姿になっているのは何とも可愛らしかった。
「うん、何だか、ごめんね、色々と」
「いや、何日かいるつもりなら着替え、持ってくるといいよ」
「そうだね。……でも明日帰る。お兄ちゃんにも迷惑だし」
「俺のことはいいよ、別に。着替え取りに行くの嫌だったら俺も付き合うから」
多分そこが引っ掛かっているのだろう。家族の誰かしらと顔を合わせなければならないから。
「でも……」
「美潮姉ちゃんには俺がちゃんと言うから」
「……うん」
少しだけ笑顔になって、美朝ちゃんは頷いた。
「ちょっ!」
っと待った、と言う前にパン、と音が鳴った。美潮姉ちゃんの右手が美朝ちゃんの左頬で鳴らした音だ。
「殴ることないだろ!」
美朝ちゃんを庇うように前に出て、俺は抗議の声を上げた。
「あんたは黙ってて」
少し、ビビる位に冷たい声だ。だけれどそれに臆している場合ではない。
「誰が俺に頼むって言ったんだよ」
黙ってなどいられない。酷いにも程がある。
「面倒は見る気はないって言ってたでしょ」
「フォローはするって言ったろ」
だめだ。
売り言葉に買い言葉だ。
「口出ししないんでしょ」
「……なら、出させないようにしなよ」
少し冷静になって、俺は声のトーンを落とした。
「何でもかんでも当事者に隠して、大人の都合だとか何とか言って、外に追いやっといて、他人を利用するのは虫がいいでしょ。年端も行かない家族は当事者じゃない、なんて言わないだろうね」
外の人間をそうやって扱うのは百歩譲って良いとしても、美朝ちゃんは家族だ。家族の一員が家族の重大な問題から外されて良い訳がない。
「お兄ちゃん、いいよ、何も言わないで出てった私が悪いんだもん」
「美朝ちゃんがいられなくなっちゃったんだろ」
今がどういう時期か、判っているくせに。
「とにかく、何でもいいからカタチ作んなよ。このままやってくつもりなら。それまでは俺んとこにいればいいし」
このまま美潮姉ちゃんを責めたってどうにもならない。美潮姉ちゃんだって多分余裕はない。守ろうとしているはずの美朝ちゃんに手を上げてしまったのだから。
「……」
「美潮姉ちゃんだって一人で決められる訳じゃないんだし、とりあえずの動きが決まんなくちゃ美朝ちゃんが可哀想だよ。受験控えてんだよ」
「そうね……。ごめん、アサ」
軽く溜息をついて美潮姉ちゃんが謝った。
「いいよ……。お姉ちゃんだってお父さんとお母さんの間で辛いんでしょ?私は子供だから、そういうの代わってあげられないけど……。お兄ちゃん、私大丈夫だから、戻る」
美朝ちゃんの言葉に正直驚いた。結局、状況を把握しているのは、当事者でもなく、美潮姉ちゃんでもなく、俺でもなく、美朝ちゃんなんだ。
「判った。今度きつくなったら、ちゃんと美潮姉ちゃんに言ってからおいで」
「うん、ありがと」
笑顔になって美朝ちゃんが言う。赤くなった左の頬が痛々しい。
「美潮姉ちゃん、俺は、あくまでフォローだからね」
「判ってるって」
「半分しか判ってないでしょ。美潮姉ちゃんも、ってことだよ」
「……頼りにしてる」
軽く笑って、美朝ちゃんの肩に手を置く。
もう、大丈夫だろうか。逃げ道があればパンクはしないとは思うけれど。逃げ道に使われる、だとかそういうことはあんまり関係なく、きっと俺は美潮姉ちゃんと美朝ちゃんが上手くやっていければそれだけで良いんだろう。
「んじゃ俺は帰るけど、とりあえずパンパンひっぱたかないように」
「判った。また何かあったら頼むね」
「あぁ。んじゃね」
少しだけ笑顔になると、背を向けて駅へと歩き出す。
人の助けになるってことはばかを見ることばかりなのかもしれないけれど、助けてもらった人間に何も思われないのかもしれないけれど、俺はきっとこういうのが座りが良いのだろう。
美朝ちゃんのことも、美潮姉ちゃんのことも、そして髪奈のことも。
22:優しさの罠 終り
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