20:背反

『オフロあがったよ。ありがと』

 美朝みあさみあさちゃんからの電話を受けて俺は部屋へと足を向けた。

「あいよ、今戻るわ」

『うん……。お兄ちゃん』

「何」

 何だか含みのある声で美朝ちゃんは俺の名を呼ぶ。

『ホントはさ、何で私が今日、泊まらなくちゃいけないか、知ってるんでしょ』

「ホントは?俺は美潮みしお姉ちゃんに言われただけだからなぁ。ホントはもなにも……」

 とりあえず惚けてみる。いや、実際に明確な理由も答えも教えてもらっていない。嘘は言っていない。嘘は言っていないけれど、これはなんだか、美朝ちゃんに対して不誠実な気がする。

『お父さんとお母さんのこと、知ってるでしょ』

「んー、何となく、まずいのかな、くらいしか知らないけどね」

 やっぱり気付いている。逆に気付いてなければおかしい。そもそも俺の部屋に泊まることに関しても、何かあるんだったら、多少学校や予備校が遠かろうが、俺の実家の方へ泊まりに行くようにするはずだ。

 恐らくは、ある程度事情に通じている俺に美朝ちゃんを任せて、俺の親父やお袋には心配をかけたくない、もしくは首を突っ込んで欲しくない、という美潮姉ちゃんの意図が充分に感じ取れる。美朝ちゃんを遠ざけたくて、逆に気付かせてしまっていることに、当事者たちは誰も気付いていない。

『ホントはね、お兄ちゃんのとこ、こようかどうか、迷った』

(……だろうな)

「何で?あぁ、まぁ男の一人暮らしには」

『そうじゃないよ』

 俺のわざと偽った言葉を遮って美朝ちゃんは言う。もう部屋は目の前だ。元々それほど遠くまで出歩いてはいなかった。

『お兄ちゃん、私、子供扱いしてるの、判ってるけど……。だけど、そういうことじゃないよ』

 流石に全部を判っているという訳でもないことは判る。ただ、不安なんだろう。結果ではなくて、今この状況から美朝ちゃんが感じ取れる空気感が、言い知れぬ不安を誘うのだろう。

「電話切って。もう目の前だから」

『やだ』

(やられた)

 まさか締め出しなんて想像もしていなかったので、鍵は部屋に置きっぱなしだ。

「……何を知りたいの」

 迂闊だった。美朝ちゃんを子供扱いしていたのは俺も同じか。俺は観念して美朝ちゃんを促す。もしかしたら風呂に入ることが恥ずかしかった訳ではないのかもしれない。最初からこれを計算して演技していたのだとすれば、大したものだと思うが、感心している場合でもない。

『私達、遊びに行った日、お兄ちゃんさ、お姉ちゃんと何か話してた』

 見られていたか。髪奈からかかってきた電話で外に出た時だ。美朝ちゃんの寝ていた部屋はベランダがあって、玄関など丸見えだ。髪奈との電話を終えてから、美潮姉ちゃんと何かを話している、ということまでは知っているのだろう。

 美朝ちゃんの立場からしてみれば、何か感付いていることがあったとして、それの内容は伝えられることはなく、結果だけを突きつけられることになる。納得は、どうしたってできないだろう。

「……判った」

 こうなれば俺が美朝ちゃんの肩を持つしかない。美朝ちゃんが納得できるだけの言葉を持っている訳ではないけれど。

『いいよ、鍵開けた。……ごめんね、我侭言って』

「いや……」

 それだけ言って通話を終えると、俺は部屋への階段を上がった。


 買っておいた飲み物をいくつか出して、グラスを適当に二つ、テーブルに置く。

「あ、ありがと……」

「ま、遠慮しないで」

「うん」

 美朝ちゃんはウーロン茶を開けてグラスに注いだ。俺も美朝ちゃんの後にそれを注ぐ。

(さて……)

 どこから話したものか。

 話すといっても、俺だって殆どの事情を知らないに等しい。

(と、なれば)

「まず、何を知りたい訳?」

「今日のこと」

 キッパリと、迷いもなく美朝ちゃんが言う。

「あぁ、最初に言っとくけど、俺も殆ど知らないからね」

「うん、いいよ。お兄ちゃんが知ってることだけで」

 それでも俺が知っていることを全部、という訳にはいかないだろうけれど。

「まぁ、俺も聞いただけだけどさ。清美きよみ叔母さんが今日、叔父さんと会ってるみたいだよ」

「大人の話ってことだよね、それって」

 子供の美朝ちゃんを外に追いやって、ということは、つまりそういうことだ。

「そうかもね」

「お姉ちゃんはどうしてるの?」

「それは知らない。美朝ちゃんと同じようにどっかに泊まってるかもしれないし、一緒にいるかもしれない」

「別れるのかな……。お父さんと母さん」

 結果如何でこの子の心の内は激しく変化してしまうだろう。受験に失敗して文字通り『死ぬほど』までに悩んでしまう年頃だ。親達はそういうことを判っていない。

「それは本人同士の気持ちだよね」

「やっぱり好きじゃないから別れるんだよね」

「好きじゃないとか、そういうことじゃないんじゃないかな」

「だけど……」

 お互いに嫌いで別れた訳ではない、という話は聞くし、実際俺と髪奈は嫌い合って別れた訳ではなかった。いや、これはあくまでも俺の主観でしかないけれど。

「まだ別々に暮らす前は、いつも喧嘩してたんだ」

「喧嘩の原因だって嫌いだから、とかそういうのが理由だとは限らない、けど……」

 目の当たりにしてない俺が今、ここで何を言っても無駄だ。叔父さんと叔母さんの関係は家族である美朝ちゃんの方が敏感に感じ取っているはずだし。

「うん……」

「全部が全部、一つの原因じゃないからね。俺は一緒にいる訳じゃないし、そういうのは美朝ちゃんの方が良く判ってると思うけど」

「でも、どっちが悪いとか、良く判らない。お母さんは言葉に棘はあるけどお母さんがそれだけ怒るようなことをお父さんが言ったりやったりしたのかもしれないし」

 原因を突き詰めたところで終わる喧嘩なんてない。美朝ちゃんはどっちが悪いのかを知りたがっているのかもしれないが、それを知ったところで何かが解決するなんてことは、多分ありえない。喧嘩なんてものは原因はどうあれ、お互いの気持ちに整理がつかなければ終わるものじゃないんだ。それに離婚にまで話が進んでいるのだとしたら、それはもう喧嘩などというレベルでもない。

「俺はね、身内じゃないし、実際関わって良いとも思えないから、何とも言えないけど」

「だけど、お姉ちゃんが私をお兄ちゃんのとこに泊めるようにしたのは、お姉ちゃんなりの考えがあってなんだと思う」

 大したことを話した訳じゃないけれど、美朝ちゃんは俺と美潮姉ちゃんが話しているところを見ていたのだ。それも大人たちから外れて、となれば、何か重要なことを話したのかもしれない、と思うのは自然な成り行きだ。

「そうかな……」

 美朝ちゃんが俺のことを好きだとか、そういうことはさて置いて、俺はあの時、美潮姉ちゃんに清美叔母さんに対する心情を吐き出しただけだ。こんなに多感な時期の子供がいて、受験が終わるまでの僅か数か月だけでもどうにかできなかったのか。人を生んだ親の立場として。清美叔母さんに対してあまり良い印象を持っていないのは変わらないが、正直に言えばたかし叔父さんだってどうかと思う。

 思うけれど。

「俺はね、そんなに中まで突っ込む気はないよ。美朝ちゃんにも美潮姉ちゃんにも悪いとは思うけどね」

「そう、なんだ」

 少し、がっかりさせたかもしれないけれど。

「変わりようのないことに首を突っ込んでもね、何も変わらないよ」

「そうなのかな」

「人一人動かすこと、気持ちのことだけどさ、それって並大抵のことじゃないんだよ。どんだけ頑張っても、一度決めちゃった人の気持ちって、中々動くもんじゃない。いくら、誰が何を言ったってね」

 髪奈のことを思い出しながら俺は言った。そしてそれは美朝ちゃんに向けた言葉でもある。それを感じ取れるかどうかは判らないが、今は美朝ちゃんの両親のことだけでも別に構わない。

 それを美朝ちゃんに伝えるだけの言葉は、多分ある。でもそれを美朝ちゃんに聞かせて、納得させて何になるというのか。論破なんてのは論破したと思い込んでいる側だけが気持ち良いだけだ。あんなもの、暴力と何ら変わらない。そしてきっと、理解と納得は違うもので、理解はしてもらえたとしたって、納得なんて出来っこない。

(判んないよ……。俺には)

「……そう、かもしれないね」

 一口、ウーロン茶を飲んで、美朝ちゃんは俯いた。

「親だ子供だって言ったって何も関係ないもんね。結局は人間なんだし……。自分が良かったらきっとそれで、仕方ないって、思うのかも」

 小さな声で、俯いたまま美朝ちゃんは言う。だから、そこで、残された方が気持ちを切り替えるしかないのだ、と俺は思うし、それ以外に方法も見つからない。

「片方と片方が違う気持ちになったんなら、どっちかはキズつくよ」

「二人以外にも傷つく人がいても、構わない、って、そういうことに、なるんだろうね」

 妙に物判りが良い気がする。

(自分でも気付いているのかもしれないな……)

 自分の気持ちが他人にどれだけの影響を与えるものなのか。そして、多分、変わらないだろう俺の気持ちを変える、ということが、どれほど大変なことなのかを。

「お兄ちゃんて、厳しいんだね……。他人にも自分にも」

「俺は、自分に甘くしてるのを隠して、逃げてるだけだよ」

 髪奈の、俺の枠から外れた行動からも、美朝ちゃんの気持ちからも。本当はそれだって判っているんじゃないのか、と問い詰めたかった。

 だけど、それは今やるべきことじゃない。今傷つく立場になろうとしているのは美朝ちゃんだ。何も知らされず、流されるだけの状況変化は、もう嫌だ、と言っているのだ。

 そして俺はこれから美朝ちゃんの側についてやらなくちゃいけない。本当なら他人事の、それも、お家騒動に首を突っ込むなんて面倒な真似はしたくない。けれど、今、美朝ちゃんが頼れるのは他人である俺しかいない。そしてその他人のはずの俺の方が、事情に通じてしまっている。

「……でもね、こうなったんなら、俺は美朝ちゃんの味方につくよ」

 ぽん、と美朝ちゃんの頭に手を乗せて、俺は言った。

 別の意味で逆効果だとも思ったが、それも今は仕方のないことだ。

 こういうときの優しさは、残酷なだけだ、ということを俺は嫌と言うほど知っているはずだったのに。


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