第9話

 十八時。

 横浜駅の交番の前で待ち合わせ。

 樹は、どうして自分がそこに向かって歩いているのかと心の中で問うていた。

 失礼なヤツだと思っていた伊織と待ち合わせをして一緒に出掛けることになるだなんて。

(あり得ない、あり得ない)

 しかもその失礼なヤツは、樹の誕生日を祝ってくれると言うのだ。

 本当は彼女と過ごすはずだったのに、人生何が起こるか分からない。

 樹が電車から降りて待ち合わせ場所を目指していると、伊織の方が先に到着しているようだった。

「うん、今日はアルバイトじゃないんだ。友達と出かける。だから、うん、先に寝てくれてていいよ。え?起きて待ってるって?困ったさんだなぁ。うん、じゃあね」

 誰かと電話で話していた伊織は、樹の姿を見つけて嬉しそうに手を振ってくる。

「友達」と出かけるのだそうだが、樹の方は「友達」とは認めてはいないので、勝手にそう言われても困るのだ。

「さて、行こうか」

 伊織はるんるん気分で歩いていたが、樹はのっそりと足取りも重かった。

 こんなに対照的な二人が同じ場所へ向かって歩いていく。

 しかも、お祝いされる側の方がどんよりしているとはどういうことだろうか。

 駅から数分歩いたところに、黒猫の看板が見えてきた。

 どっしりとしたドアが、見た目どおりに重みを感じる。

「こんばんは~」

 伊織が慣れた様子で店の扉を開けた。

 中は、ピアノのジャズが静かに流れる薄暗い空間。

 樹は初めての場所に息を呑んだ。

「いらっしゃいませ」

 ひげを生やしたスラッとした体型の男性が迎え入れてくれた。

 黒い蝶ネクタイに黒いベスト、そしてパンツ。

 いかにも、絵に描いたようなバーテンダーである。

 その存在を目の前に見ただけで、樹のテンションは爆上がりになってしまった。

 樹は、伊織に続いて恐る恐る店内に足を踏み入れ、キョロキョロと見渡している。

 中はこじんまりとしており、アメリカを思わせる看板やインテリアが所狭しと飾られている。

 明らかに大人な雰囲気の店に入ってきてしまった。

「長谷川さん、こんばんは。今日は友達を連れてきました」

 長谷川と呼ばれた男性は、三十代半ばだろうか。

 彼は樹に視線を移すと、優しく微笑んだ。

 樹は心の中で「友達じゃないです」と言ったものの、口をパクパクさせただけで何も言えずに頭をぺこりとさせただけになってしまった。

「樹クン、今日が誕生日なんです。お祝いしてあげたくて」

「これはこれは、おめでとうございます。樹さん、初めまして。長谷川と申します」

「あ、初めまして、青島樹と言います。ありがとうございます」

 伊織は、樹が長谷川に素直に挨拶したのを見て嬉しそうにしていた。

「樹クン、何飲みたい?」

 唐突に伊織が尋ねてきたが、何を飲むどころか、何の知識も無い。

 メニューがあるよと渡されたが、見ても何のことやらさっぱりだ。

「伊織さんが先に注文してください」

「えっ?伊織さんって名前呼んでくれた?うわ~感激だなぁ!」

 やたらと喜びを表す伊織を見ながら、樹は半分呆れていた。

 しかし、そんなことを思いながらも心の奥ではワクワクした気持ちがどんどん大きくなってくるのが分かる。

「はは、何なんですか」

 くすくす樹が笑っている。

「えっ!キミ、笑った?今、笑ったのかい!?」

 身を乗り出して伊織が樹を揺さぶってくるので、樹は咳き込んだ。

「ちょっと、やめてくださいってば」

「樹クンは、絶対笑ってる方がいいよ!その方がイケメン!」

 目をキラキラさせている伊織は、自分がイケメン王子であることに気が付いていないのだろうか。

「え?ちょっと、そんな恥ずかしいっす」

「僕が知ってる中で一番イケメン!」

「……鏡見たことないんっすか」

 伊織といると、苦笑いが通常モードになってしまう。

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