一六

 子路がに来ている間に、えいでは政界のだいこくばしらこうしゆくぎよが死んだ。その未亡人で、亡命たいかいがいの姉に当たるはくという女策士が政治の表面に出てくる。一子かいが父ぎよの後をいだことにはなっているが、名目だけにすぎぬ。伯姫からいえば、現衛侯ちようおい、位をうかがう前太子は弟で、親しさに変わりはないはずだが、愛憎とよくとの複雑な経緯いきさつがあって、妙に弟のためばかりを計ろうとする。夫の死後しきりにちようあいしているしよう上がりのこんりようなる美青年を使いとして、弟蒯聵との間を往復させ、ひそかに現衛侯追い出しを企んでいる。


 子路がふたたび衛に戻ってみると、衛侯父子の争いはさらに激化し、政変の機運の濃く漂っているのがどことなく感じられた。


 しゆうの昭王の四十年うるう十二月某日。夕方近くなって子路の家にあわただしくび込んで来た使いがあった。孔家の老・らんねいのところからである。「本日、前太子かいがい都に潜入。ただ今孔氏の宅に入り、はくこんりようとともに当主こうかいおどしておのれえいこういただかしめた。大勢はすでに動かしがたい。自分(欒寧)は今から現衛侯を奉じてはしるところだ。あとよろしく頼む。」という口上である。

 いよいよ来たな、と子路は思った。とにかく、自分の直接の主人に当たるこうかいが捕えられ脅かされたと聞いては、黙っているわけにいかない。おっ取り刀で、彼はこうきゆうけつける。

 外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るな男にぶっつかった。こうだ。孔門の後輩で、子路の推薦によってこの国のたいとなった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもうまってしまいましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行ってみよう。子羔。しかし、もうむだですよ。かえって難にうこともないとは限らぬし。子路が声を荒らげて言う。こう家のろくむ身ではないか。なんのために難を避ける?

 子羔を振りきって内門の所まで来ると、はたして中からまっている。ドンドンとはげしくたたく。はいってはいけない! と、中から叫ぶ。その声を聞きとがめて子路がった。こうそんかんだな、その声は。難を逃れんがために節を変ずるような、おれは、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、その患を救わねばならぬのだ。けろ! 開けろ!

 ちょうど中から使いの者が出て来たので、それと入れ違いに子路は跳び込んだ。

 見ると、広庭一面の群集だ。こうかいの名において新衛侯ようりつの宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれにきようがくと困惑との表情を浮かべ、こうはいに迷うもののごとく見える。庭に面した露台の上には、若いこうかいが母のはくと叔父のかいがいとにおさえられ、一同に向かって政変の宣言とその説明とをするよう、いられているかたちだ。

 子路は群集の背後うしろから露台に向かって大声に叫んだ。こうかいを捕えて何になるか! 孔悝を離せ。孔悝一人を殺したとて正義派は亡びはせぬぞ!

 子路としてはまずおのれの主人を救い出したかったのだ。さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同がおのれの方を振り向いたと知ると、今度は群集に向かってせんどうを始めた。太子は音に聞こえたおくびようものだぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れてこうしゆくかい)をゆるすに決まっている。火をつけようではないか。火を!

 すでにはくのこととて庭のすみずみにかがりが燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(ぎよ)の恩義に感ずる者どもは火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」

 台の上のさんだつしやは大いにおそれ、せききつえんの二剣士に命じて、子路をたしめた。

 子路は二人を相手に激しくり結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。しだいに疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやくを明らかにした。せいが子路に向かって飛び、無数の石や棒が子路の身体に当たった。敵のほこほおをかすめた。えいかんむりひも)がれて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとしたとたんに、もう一人の敵の剣が肩先にくい込む。血がほとばしり、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けてすばやく纓を結んだ。敵の刃の下で、まつに血をあびたが、さいの力を絞って絶叫する。

 「見よ! くんは、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」


 全身なますのごとくに切り刻まれて、は死んだ。


 にあってはるかにえいの政変を聞いたこうは即座に、「さいこう)や、それ帰らん。ゆうや死なん。」と言った。はたしてその言のごとくなったことを知ったとき、老聖人はちよりつめいもくすることしばし、やがてさんぜんとして涙くだった。子路のしかばねししびしおにされたと聞くや、家中のしおづけ類をことごとく捨てさせ、、醢はいっさいしよくぜんにのぼさなかったということである。

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弟子 中島敦/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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