ニジンスキーはなぜ狂ったのか。

作者 九月ソナタ

伝説のバレエダンサー

  • ★★★ Excellent!!!

 ニジンスキーときいて、すぐにあの人だと分かる人も。
 アンナ・パヴロワすらも知らないという人にも。
 ぜひ読んでいただきたい、素晴らしい作品、素晴らしい文章です。
 著者の知識の泉は透きとおるかのように明瞭であり、絵画の中に入っていくかのように、そこに森の陰りや、ばら色の美しい花が映っています。

 知性と愛情にみちた芸術への保護者的視点と、ニジンスキーに憧れてやまない若々しい情熱を、著者は第一章において二人の登場人物に託しています。
 一人は、芸術のパトロンであるマダム・セール。
 もう一人は、ニジンスキーと同郷で、ニジンスキーを尊敬してやまない若手のダンサー、セルジュ・リファ―ル。
 本編はこのセルジュ・リファールを主役とし、ニジンスキーの生涯を探る旅に出てゆきます。

 物語の冒頭からニジンスキーはすでに精神を犯されて舞台から消えて久しく、「天才がいた」ということだけが伝わっている、生きる伝説でした。
 誰よりもニジンスキーを理解し、保護し、その芸術を愛することができたであろう人々は彼から遠ざけられてしまっています。
 ニジンスキーの妻の手配によってニジンスキーは建物の一室に長年閉じ込められて、人形のように息をしているだけなのです。

 妻は「よかれと想って」、まったく見当違いの対処や薬品をどんどん夫に投与しては、夫を懸命に治療していると主張します。
 ふしぎなことに、この妻は夫の再起を疑っておりません。間違えた方法を重ねながらも、いつかまた踊れるようになると頑なに信じているのです。
 どうか彼を刺激しないで下さい。誰も彼に逢わせないで下さい。
 ところが万難を排してニジンスキーの許に駈けつけたセルジュ・リファールの、裏心のない愛と崇敬に満ちた呼びかけ、母国のロシア語、バレエの話に触れると、ニジンスキーの心は束の間甦り、昏い井戸の底からもう一人のニジンスキーが顔を出すようにして正気をちらつかせはじめます。
 しかしそれ以上のことは、まだ駈けだしであるセルジュには何も出来ないのでした。

 ニジンスキーへの想いは、戦争を挟んでもセルジュの胸に灯り続けています。
 不世出のダンサーとして一度は世に出ながらも、夫への独占欲と支配欲から彼の道を「よかれと想って」捻じ曲げ、その後に薬漬けにし、舞台からもぎ取るようにして長年軟禁していった奇妙な妻。
 渡世の才能は微塵も持ちえず、しかしだからこそ、舞台という理想郷の中では大きな翼を広げて夢のように跳んでいたニジンスキー。
 舞台の端から端まで落ちずに跳ぶことなど人間には不可能なはずであるのに、観劇していた人たちは口を揃えて「それを見た」という。そのうちに読者までそれを観たような気になってくる。
 彼は空中に浮くこと、飛ぶことが本当に出来たのではないか。

 こなれた文章の随所に宝石のように縫い留められた繊細な表現や観察眼に、作家の眼」をもつ著者のこまやかな感性がみてとれます。理性の糸でしっかりと繋がれた上品なソナチネのような文体は、心地よい読書の時間と、バレエという芸術の世界の裏表をわたしたちに垣間見せてくれます。それはニジンスキーと彼を巡る人々をきらきらと輝かせて、歴史という夜のローブから滑り落ちていくかのようです。

 小柄で、おとなしい仔牛のような眼をした内気なロシア人、ニジンスキー。
 空中で静止した怪奇現象のような晩年のジャンプの写真。
 精神を病む以前、凝った衣裳をつけ、ふわりと宙に浮いている舞台での一瞬。
 シャガールの絵にある空を飛ぶ人々のように、彼はわたしたちが歩いているこの地上から浮遊していた稀有なる天才にして、彼に魅了された人々を現代でもこの世ならざる園に誘う、神秘の牧神なのかもしれません。

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