第51話 暗闇の中の道標よ

 魔法で治療はせずにシスターの身体には包帯などの処置だけで済ませておいた。傷が長く残る、なんていってこいつは喜んでいた。


「彼女、動けない人なのね」


 ベッドで抱き合っていると、シスターがふと切り出してきた。


「ああ。救うべき相手だ」


 俺が答えると彼女は視線を他所よそに動かして嘆息を吐いた。


「困ったものだわ。私にとっても救うべき相手なのだけれど、それ以上に許せない相手でもある」

「なんで?」


 俺はぼーっとしたまま何も考えず反射的に聞き返した。睨むような目線が返ってくる。


「鈍感にもほどがあるわ。愛した男を追い詰めた原因よ。許せるはずがないでしょう」


 シスターは眉根を寄せていた。言われてみればこいつにとっては確かにそうかもしれないが、反論する必要があった。


「俺が勝手に追い詰められただけで、彼女に責任はない。俺の側の問題だ」


 かんざしの一件やら怜司への評価やら、どれを取っても俺の勝手な思い込み、主観的な間違いが招いたことだった。百歩譲って怜司に責任がある、というのはあり得ても、桜に責任がある理由は存在しない。


「責任がないというのは、あくまであなたの認識であって、私の認識ではないわ。どっちにしろ恋敵よ」


 不機嫌な表情はそのままに、俺の主張はばっさりと切り捨てられた。いつだってこいつの切り返しは鋭い。


「別に桜になびいたりする予定はないんだが」


 苦笑する俺に冷たい目が向けられる。


「いいえ、なびいてました。はっきりと確実になびいてました」


 またも睨みつけられる。そんなつもりはなかった……と言いたいところだったが、俺の視線が勝手に彷徨い始める。目が勝手に自白を始めていた。やめてほしい。


「頬に手を当てただけだろ」


 口と舌はまだ俺の味方らしく言い訳らしい言い訳をしてくれた。目線をシスターに戻すと、そこには不機嫌さを通り越した表情。額に怒りマークが見えていた。


「あれだけ見つめあって何もしなかったのは、ふたり揃って臆病者だからです。あなたたちにとってはそれで十分だから何もしなかっただけで、愛情を伝え合っていたのは事実でしょう?」

「ぐ」


 口も陥落して勝手に敗北宣言同然の声を出す。こいつの言い分はまさに、ぐうの音も出ない、というやつだった。一言一句、何もかもが正しい。


「なのであれは完全に浮気ですし彼女は恋敵です。私は寛容な心を持つ天使なので一度は許しますが二度目はありません。覚えておくように」


 思ってたよりこいつは嫉妬しているし怒ってもいるようだった。ちょっと可愛いとさえ思ってしまう。

 どう考えても完全に俺が悪いので「はい」と素直に頷いておく。「よろしい」と赦しが出された。


「彼女、救われるのかしら」


 シスターが俺を見上げながら言う。聖職者としての一面が、桜を案ずる言葉を言わせていた。


「救ってみせるさ。そのための俺たちだ」


 返事は決まっていた。立ち止まるしかない者ならば救う。それこそが俺たちの存在意義だった。

 そして何よりも──


「──人はいつか、あの海に還るんだから。救いはあるんだ。誰に対しても」

「海、ですか?」


 俺の言葉の意味が分からず、シスターは小首を傾げた。


「そうだ。魂の還るべき場所がある。全ての人間を受け入れてくれる、暖かな海があるんだよ」


 寄せては返す波の音が、今でも聞こえる。ここではない場所。水平線が見える灰色の砂浜を俺は見ていた。

 胸に感じる熱が俺の意識を現実に引き戻す。シスターが俺の胸に頭を預けていた。


「あなたがそう言うのなら、あるのでしょうね。そんな、素敵な場所が」


 俺の言うことを何ひとつ疑わずに、女は受け入れてくれた。髪を撫でてやると、安堵するような息づかいが聞こえる。


「私も、あなたと一緒にそこへ行けますか?」

「ああ。最後には迎えに来る」


「よかった」──そう言ってシスターは俺を翼で包んだまま眠りについた。

 俺も目を閉じる。穏やかな気分のまま、意識が落ちていった。



§§§§



「答えは見つかったようですね」


 翌朝。出立しようとする俺たちにシスターが声をかけてきた。「ああ」とだけ俺たちは答える。


「では、神のご加護を」

「神ってのは人を苦しめる悪神だけだと思うんだが」


 祈りの姿勢を取るシスターに俺たちは苦笑する。世界を終わらせようとする者を祝福する神などいないし、この世界を作った神なんてのは俺たちにとっては悪神そのものだ。

 だがシスターはそんなことを思う俺たちに向かって、穏やかに微笑んでみせた。


「私が祈っているのはあなたたちを助ける、あなたたちだけの神です。そういうのがいてもいいと思います」


 その答えに、俺たちはつい小さく笑ってしまった。あまりにも都合のいい存在を急に作り出すなんて本当に、こいつらしい。


「なら、いい」


 短く返事をして教会の扉の前に立つ。俺たちはどちらも黙ったままだった。

 これ以上、話すべきことはない。話してしまえば、きっと未練になる。ここに留まるわけには、もういかない。

 それに最期の別れってわけじゃない。為すべきことを為した後は、もう一度会えるときがくるだろう。


 だから、俺たちは余計なことは何も言わない。言うべきことはたったひとつだ。


「じゃあ行ってくるよ、エヴァ」


 手を掲げて、愛する女に挨拶をする。必要なのはこれだけだ。


「はい。行ってらっしゃい、悠司」


 彼女もまた、必要なだけの言葉を返してくれた。


 ──目を細めて微笑む彼女のこの顔を、きっと俺は生涯忘れないだろう。

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