< 六幕 あなたの旅路に花を捧ぐ >

はっと。

目を見開いたアスカは、蛍光灯の眩しさに目を瞑ってしまう。

窓の無い病室で、アスカはゆっくりと起き上がる。ぴんと点滴の管が張り、左腕が一瞬止まる。アスカは慎重に点滴の針を外すと、滲んだ血を指で拭き取る。

目をぱちぱちとさせると、アスカはベッドに腰をかけたまま、床に片足をつける。——片足。左足の外骨格は取り外され、膝より少し上のラインで入院着のズボンが垂れ、もうそこに何もないことを示唆している。

ベッドの脇には、付箋が貼ってあるアスカの生足があった。黄色でそっけない文面の付箋には、『起きたら自分で取り付けておくこと。咲凜』と。

アスカはどうしようもない不安に駆られる。あれから何日、私は寝ていた。きらりは無事なのか。まどかは。

よろよろと外骨格に手を伸ばし、左足の接合部につける。キュウウンと滑らかな音がなり、『System All Green』とどこかで合成音声が呟く。起きあがろうとした時。チャリ、と金属音が鳴る。アスカが自分の胸元に目を落とすと、そこでは蛍光灯に反射して光る、ペンダントがあった。アスカは思わずそれを握りしめる。

カシュウ、と空気が抜ける音がして病室のドアが開く。そこに立っていたのは、咲凜だった。

「——目ェ、覚めたか。」

咲凜は右手に握った「それ」を机の上に置く。黒光りし、ただ単調に、人間の命を刈り取るために作られたそのグロックは、銃口から得体の知れない闇を放っている。ビク、とアスカがそれに対して反応する。

「あぁ、これな。……護身用、だよ」

それはどういうことなのだろう。安全が保たれているはずの揺籠の中で護身用。アスカはその真意を図りかねる。

「……14。」

じゅう、よん。少し区切って話す咲凜の顔に、どこか影が差す。

「あんたが寝とった時間や。」

「14時間……」

そのとても短く、しかしこの状況では永遠とも取れる時間に、アスカは目を見開く。

「あんたには、体の異常はあらへん。——運がよかったな」

咲凜は医者用の椅子に腰をかけ、キィと乾いた音を鳴らす。

そのまま机の引き出しに手をかけ、乱暴に開ける。中からマルボロとライターを取り出すと、咲凜は一本取り出してそれを口に咥える。ぱちぱち、と何度かライターの点火スイッチが押下され、しゅぼ、という音とともに白煙が口から吐き出される。

ふぅ、というため息と共に、咲凜は話し始めた。

「——何人。死んだかわからん。同時多発的に様々な場所で弩級人形が発生し、前線を護る造花隊の面々が散っていった。」

ヒュ、とアスカは息を呑む。

「前線基地はほとんどが壊滅状態や。辛うじて生き残った数名の隊員は、大怪我……なんてもんやないな。半身不随、四肢欠損、昏睡状態。あんたがこうしてしゃべっていられるだけで、奇跡みたいなもの」

「そん、な」

呼吸が荒くなる。ピィイ、と耳鳴りが頭を貫き、アスカはうずくまってしまう。

「落ち着け。……これ、合図で吸い込んで」

何かが口にあてがわれる。

「1、2、3」

シュウウ、と噴霧された薬品が喉を通り、アスカは軽く咳き込む。

「特9班の……みんなは」

先ほど使った吸引器を机に置くと、咲凜は煙草を灰皿に押し付け、火種を消す。

「……まどか、は」

「死んだ」

その3文字が発されることは予測できていた。人の死なんて身近なもので、これまで何も感じずに生きてきたのに。

咲凜はポーカーフェイスを貫いているように見える。でも。その口の端は歪められ、歯にはヒビが入っている。握りしめられた右の拳。その指先は、手のひらを突き破りそうなほどに固く握りしめられている。赤い赤い血が、彼女の口の端から溢れる。唇の先を噛み切ってしまった彼女は我にかえり、「痛っつ……」とガーゼを探し手を彷徨わせる。

「死ん、だ……」

「遺体は、私が確認した。……満ちたりた表情で死にやがって、あいつ……」

「でも、だって……ほんの昨日には、一緒に笑ってたんですよ!お肉美味しいねって、ケーキ作ったんだよって……」

「それが造花隊だ。その蕾は、簡単に切り落とされてしまう。でも……あいつが満足できたのなら、私は気にしない」

冷たい言葉を吐いたようでいても、咲凜は一言一言を区切って、まるで噛み締めるように話した。

「だって……」

「私だって悔しい。なんであいつがこうまでして殺されなければいけない?」

指をパキパキと鳴らしながら咲凜は呟く。

「——私が預かってたんだよ。あいつの親が死んでから」

アスカは顔を上げる。

「あぁ、あんたは知らないのか。……まどかの家のこと」

咲凜はぎし、と椅子を傾ける。

「まどかの家……浅倉院、はな。元々『揺籠』の中で相当な発言力を持っていたんだ。民の信仰統制から各財閥のパイプに至るまで。浅倉院がなければ今の『揺籠』は無かっただろう。」

淡々と話を続ける咲凜。アスカはそれを耳に入れ、鼓膜を震わせて脳で処理する。

——現状が、理解できない。

「でも、当代の浅倉院……鞠音さんが、心臓発作で逝っちまってな。まどかも相当心にきただろうよ。いくら愛情を注がれない、血の繋がりのない子供だったとしても。」

アスカには、咲凜が自分ではなく、他の誰かに説明をしているように感じて少しばかり奇妙な感覚に陥る。


まるでこれまでの全てを見てきた、所謂……神、或いは……読者。のような存在に向かって現状を説明している、と感じるのだ。


気のせいだろう、とアスカは首を振る。

「そこからは転落だよ。まどかの年齢では発言権もクソもない。通っていたお嬢様学校ではゴミ溜め扱いされ、事情を知っている奴らからは冷酷な目、蔑む目を向けられた。どれだけの強メンタルでも、あいつには堪えたろう。……リストカット、自殺未遂、オーバードーズ。」

ギ、と椅子から咲凜は立ち上がる。アスカの脳裏に、風呂場で見たまどかの手首が蘇る。

「それを見かねて、私はあいつを引き取り、地位などカケラも存在しない前線基地の訓練兵に志願させた。そうでもしなければあいつは、自分が生きる意味を見失っていただろう」

生きる意味を見失う。それがどんな結末を用意しているのか、アスカは思い至って戦慄する。

「だから——。あいつが最期に、誰かに愛されたのなら。……それは、まどかにとって幸せなことだったんだろうな。」

用もなく薬品棚を漁り、指先が空を切るのを眺める。

「さて。」

ふと動きを止め、咲凜は振り向く。

「聞きたいことは、他にもあるだろう?」

いつの間にか咲凜の関西弁が抜けていることに気がつくものの、さらに大きな物事をアスカは思い出す。

「きらり……きらり、さんはっ」

無事なはずがない。彼女は自分の眼のまえで自爆したのだ。

「……生き、てる。」

咲凜は答えた。まるで、そう答えて良いものかどうか迷うような口調で。

「状態はっ……!」

「非常に悪い」

即答する咲凜に、信じられない、といった顔とやはりか、と落胆したような表情を混ぜこぜにしてアスカは顔を向ける。

「四肢欠損、首より下が不随。数個の内臓が欠損、右目、右耳消失、意識の混濁。……生きている人間、と言っていいものなのかね」

絶望の表情。平たく言って仕舞えばそれきりの表情を、アスカは浮かべる。

「心臓と脳は止まっていない。……しかし。再び戦線に復帰できるかは半々と言ったところだな。——彼女の脳が、生きることを拒絶しなければ、の話だが。」

打ち砕かれる。これまでの記憶が。きらりのあの笑顔が。

アスカはそれを必死に拾い集めようとする。しかし敵わない。ボロボロと水の染み込んだクッキーのようにその記憶は消えていく。

「……あと話しておくべきことがあるとすれば、侵略状況だな。現在、シュヴァルツの手は揺籠西を全て制圧した。本部や東地区が彼らに渡るのも時間の問題だろう」

咲凜は、ただ淡々と話す。しかしアスカは、それを聴き終える前に外骨格を装着し、走り出していた。生体認証でドアを開き、通りかかった怪我人を突き飛ばして走り出す。

きらりの病室へと向かって。

にゃーん、と猫の鳴き声が、咲凜だけ残った病室に/取り残された。

「あぁ……いたんか、——」

我に返ったように呟くと、咲凜はしゃがみ込む。まるでそこに猫がいるかのように。


時折通り過ぎる窓から、破壊された供霊塔たちが見える。その中に蠢くシュヴァルツを見て、アスカは身を震わせた。

あそこにさなの死体が無くてよかった。——と、思ってしまうのは、あまりにエゴがすぎるだろうか。アスカは走った。裸足が冷たくなるのも構わず。着けたばかりの外骨格で転びそうになりながらも。

途中でアスカは足を止める。その目に映るドアには「死体安置所」の簡易的な札がかけてあった。

ガチャ、とちょうどそのドアから出てきた人物がいた。

「桜木、さん……」

「——アスカちゃん」

互いの名前を呼び合うと、桜木は崩れ落ちた。

「ご、ごめんね……。なんか足に力、入らないや」

「大丈夫ですか……」

「だいじょぶじゃ、ないよ」

桜木はアスカに縋り付く。

「なんで、なんでこんな世界になっちゃったの?ずっと我慢してきた。1個2個下の子たちが、どんどん死んでいくのを」

堰が切れたように一気に喋り出す桜木。その目にうっすら涙が浮かぶ。

「100年前から、この世界は狂ってるんだ。じゃなきゃ、榛名も牧も、美梨だって死ぬはずが……!」

げほ、げほと咳き込みながら立ち上がる桜木。その背中を撫でながら、アスカは妙に冷静でいられた。

「この扉の先に、みんなの遺体が。」

「………うん」

桜木は頷いた。その目からまた、涙が溢れてくる。

「あれ、なんでだろ……。さっき見て、お別れは済ませたと思ったのに……な」

はは、と自嘲しながら涙をごしごしと拭き取る桜木。

「桜木さん。」

「……?」

「——もう一度、お別れ言いに行きましょう。私も。——まどかに、さよならを言わなきゃだから」

桜木は一瞬躊躇し、不安そうな表情を浮かべ、涙を拭き取った後。

微かに頷いた。


窓のない空き部屋にビニールシートが敷かれ、そこに等間隔で布がかぶさった「何か」が配置されている。真冬かと勘違いするほどに下げられた部屋の気温にアスカは自分を抱きしめる。

配置された遺体は、布が被せられた状態でも悲惨な状態になっていることが容易に解った。

ある物は腰から下がすっぱりと切れている。

ある物は丁度首から上が消え去っている。

ある物は。

数人を見た後、アスカは遺体を眺めるのを辞めた。なぜだかとても、失礼な気がしたから。

「……こっち」

桜木が指を差した区画には、4人の遺体が並べられていた。

一番手前の遺体は、……美梨、だろうか。上半身が瓦礫か何かに潰されたようにぐしゃぐしゃになっている。——子供が触った後の折り紙みたいだ、と漠然とした感想しかアスカは持てなかった。

その一つ奥は、牧だろう。比較的綺麗な状態を保った遺体だったが、よく見れば足首や手のひらがあり得ない方向へ曲がっていることがわかる。無理やりつぎ合わせた人形のような印象だった。

三つ目の遺体は、榛名だ。彼女は美梨を守り、そして死んだ。顔の右半分が吹き飛ばされ、左目は虚になって空中を見つめている。彼女はストライカーズの中で最も粗雑だったが、それと同時に最も仲間思いであったのだろう。

そんな彼女がこんな結末になるだなんて。


軽い吐き気を覚え、アスカは目を背ける。仲間や知り合いの死には慣れたつもりでいた。

つもりでいただけだ。

結局のところ、指揮官学校時代のアスカの前で死んでいった「仲間」たちは形式上のつながりに過ぎず、プライベートに干渉することは全くなかった。

さなの死で、親友を失う気持ちも知ったはずだった。


だから。だから、こんな関係を築くのは嫌だったのだ。

任務上の間柄であれば、こんな感情を抱くことだって無かった。


最後の遺体に目を移し、アスカはそこから目を離せなくなる。

やけに綺麗なまどかの遺体は、顔だけ見ればまるで眠っているようだった。ビニールシートを外し、アスカは息を呑む。腹と、腕が無くなっていた。真っ白なシャツは赤黒い染みに覆われ、肩口には濡れた跡がある。自分が倒れたあと、まどかときらりに何があったのか。自分には知る由もないが、まどかの顔を見ていれば何があったのかは大体の予想がついた。

『あいつが最期に、誰かに愛されたのなら。……それは、まどかにとって幸せなことだったんだろうな。』

幸せ。幸せ。しあわせ。

そんなはずない。

これからだって、生きていればいろんなことがあったはずだ。きらりや、まどかと一緒にクレープを食べて、それをさなと一緒に写真に撮って。死ねば、そんな簡単なことすらもできないではないか。

アスカは、足元がぐらりと傾くのを感じる。思わず膝をついた。まどかの顔が近づく。

「目、開けてよ」

アスカはつぶやいた。まるで、目の前にいるのが白雪姫だというかのように。


遺体安置所を出たアスカは、自分が涙を流していたことに気がつく。それをシャツで拭き取り、顔をぐいっと上げる。少し砂利が混じった臭いが鼻を掠めた。

アスカは走り出した。

アスカには幸せがわからない。

人それぞれ、幸せに違いがある。そんなことを、この終末世界で思い知るなんて。

途中、足がもつれる。転がる。鼻血が出る。

しかし拭き取り、立ち上がり、また駆け出す。

転びながら走るアスカの前に。陽が差し込む病室が、目の前に広がっていた。


アスカは入って良いのか否か迷う。部屋のネームプレートには、油性マジックで乱雑に『綾小路 きらり』と記されていた。その下に、『面会謝絶』とも。ズズ、と揺籠全体が揺れた。きらりのベッドを覆い隠しているカーテンも揺れる。

引扉のレール。その線を踏み越えて良いものか、とアスカは逡巡する。迷っている場合ではないことも解っている。しかし、今ここに立ってみると。

まどかを亡くしたきらりに、なんの声をかければ良いのかわからなくなる。



「入ってええよ」



ふわりと。カーテンが揺れた。

錯覚だろう。アスカは頭を振る。

「何が錯覚や。はよ入り」

心の中を読まれたようで、アスカは戸惑う。しかし。

その言葉に導かれるように、アスカは。


レールを、踏み越えた。


カーテンを開くと、目を閉じたきらりがベッドの上に座っていた。壁際に寄りかかり、両腕のみ換装された彼女は柔らかく呼吸を繰り返す。心電図には微かに鼓動が浮かび、未だその命を保っていることを報せている。

ぴ、ぴ、ぴ。

無機質な電子音と、陽の光が差し込んだ病室に硝煙臭い風が吹き込んでくる。しかし陽の反射と、木漏れ日の中で彼女はとても綺麗に見えた。窓際の隅に設置されたベッドの上で、きらりはゆっくりと目を開く。睫毛が反射し、淡い紺碧の瞳にハイライトが灯る。

きらりは右手を上げ、ゆっくりと開き、はは、と笑いながら手を振る。

「や、アスカ。……どうしたんよ、そんなに息を切らして」

すぅ、とアスカは息を吸い込む。

「きらり、さんっ……」

目尻に滴が溜まる。

「生きてた……」

きらりは苦笑し、こっちに寄って、と手を招く。

「そう簡単に死なれへんわ。——まどかと、約束したしなぁ」

ベッドの隣に椅子を引っ張り、アスカは座る。きらりのショートヘアが揺れる。

「咲凜さんから、生死半々だって聞いて……。よかった。」

ちゅん、ちゅんと現状にそぐわない鳥の鳴き声が流れ込む。葉を通して陽がハシゴのように落ち、ほんのり緑に反射するシーツには皺が形作られ、影がその皺に沿って流れるように描かれている。

「あいつはいつも適当なんよ。この前アスカが倒れた時も大袈裟に言って」

ふふ、と笑いながらきらりは呟く。アスカは胸を撫で下ろした。心臓に悪い。


「——心臓に悪い、って今思ったやろ」


きらりが何気なく呟く。アスカは顔を上げた。

二回。この感覚を、味わうのが二回目だ。

違和感が体を襲う。


「それって」


アスカは呟く。ざあ、と葉が揺れる。風向きが変わる。


「——なんてな。今のは、気にせんといて」

きらりはまるで冗談だ、と言うかのように笑う。しかし、アスカはその顔からどうしても異質な感覚が拭えない。

「……まどかに、会ってきたんやろ?」

沈黙が包んだ病室の空気を、きらりの声が裂いていく。

「は、はい」

「……どうだった」


「どうだった……って」


「うち、見せてもらってないんよ。ショックで容体が急変したらあかんらしくて」

「咲凜さんが?」

「うん」

「——残酷、でした」


ヒュ、とアスカは息を呑む。

一瞬の間にきらりが見せた表情は、とてつもなく冷酷で、底が見えぬほどに……彼女の心の、底深い凄味。冷たい憤怒、愛の成れ果て。そうも形容できる表情を一瞬だけ見せると、きらりはまた元のように笑った。

「——そうか。」

アスカは動悸を抑えようと胸に手を当てる。チャリ、とペンダントが金属音を立てる。

「……………なぁ」

裂く。割く。咲く。

言の葉がアスカの頬を裂いていくような奇妙な感覚に囚われる。未だきらりは、一言しか呟いていないのに。

「右手、出せ」

命令形。

きらりの押しに当てられ、アスカは右腕を出してしまう。

「綺麗やな」

「何を………」

「何で、綺麗や」

右手を触り、きらりは問う。

ガチャ、と不吉な金属音が鳴り響く。

——給付されている、拳銃だった。

「何で、うちはここまでボロボロに闘っているのに。まどかも、腹を貫かれて、腕を取られて。…………何で、アスカは傷ほとんど無しで生きていられる」

「そんな……わかり、ませんよ」

結局、あの血はアスカのものでは無かった。全身が痛いのもただの打撲だった。

真っ黒な銃口はアスカの額を捉えている。セーフティーはとうに外れている。

きらりが指を少し動かせば、アスカの脳味噌は吹き飛ばされ、この世界から綺麗に退場できる。

「……答えろ。…………お前。」

きらりの顔は冷酷だった。声のナイフが喉を切っていく。


「————シュヴァルツと、繋がってるんと違うか」


目を逸らせない。逸らしてはいけない。

「答えろ。…………………答えろよっっっっっっ!!!!!!!お前!!!!!!!」

空気が震える。鼓膜が響く。

じゃか、と額に冷たい感触が抜ける。

アスカは動けない。一ミリも、その場に釘付けになったように動けない。

何とか違う、それは勘違いだと口にしようとするが口が動くのを拒否する。


自分の傷ひとつ負っていない身体が、証明してしまっている。

でも、違う。

私は、断じてシュヴァルツと内通などしていない。

しかし証明する術がない。


汗が一筋、額からつつ、と落ちる。黒い銃身を伝い、水滴がぽたりとシーツに落ちる。

涙がこぼれ落ちる。2人は凝視し続けたまま、動かない。







ちゃき。





セーフティが、かけられていた。






「………すまん」






ぽつり、ときらりが呟く。

「アスカ、じゃない……よな」

アスカは息を整える。心臓が飛び出るかのように跳ねている。

「ごめんな。こんなのまで持ち出して。……でも、もし本当に内通者だったら躊躇なく引き金を引く準備はできてた。」

きらりはぽつりと呟く。

なぜ自分が内通者でないと確信を持てたのか、その理由は聞けない。きっと、さっきの違和感も関係しているのだろう。聞きたくない。

きらりは拳銃を側の棚に置き、アスカを抱き寄せる。しっかりと、そこにある実感を確かめるように。

「……ごめんな」


がたり。


後ろで物音がした。

「あっら〜〜〜……お邪魔やったかな?」

そう能天気に現れたのは、咲凜だった。

「咲凜……さん」

彼女は白衣を揺らし、よ、と手を上げる。

「少し不安だったから追いかけてみたら眼福だわぁ。きらり、アスカちゃんが可愛いからって手ェ出すなよ?」

きらりは緊張を解く。

「アホなこと言わんとってや。」

「え、え」

やいのやいのと言い合う関西弁コンビに挟まれ、アスカは戸惑う。

「——にしても、意識戻ったんやな。アスカちゃんにつきっきりやったから気づかへんかったわ」

「数時間前にな。……あ、咲凜。あんたまた誇張してアスカに伝えたやろ」

「え、誇張してへんよ〜。実際あの時は危ない容体だったしなぁ」

アスカの隣に座り、持ってきた煙草に火をつける咲凜。

「病人の隣で吸うなや……」

きらりは軽く呆れる。

「失敬失敬。」

咲凜は一息大きく吸うと、指先で火種を揉み潰す。

「あちっ」

「アホやな……」

「ですね」

火傷をして暑がる咲凜に、きらりとアスカは冷たい反応を返した。


「いやぁ、すまへんなぁ。……しっかし、本当に」


違和感。咲凜の病室で起き上がった時から、感じていた。




「アスカちゃんに手ェ出さへんくてよかったわ」



空気が変わる。

「それって」

咲凜は拳銃を右手に握る。



ぱん。



きらりの額から。



彼岸花が咲いた。



ばっと病室の壁面に血がぶちまけられる。血飛沫が不思議な飛沫模様を描く。

一瞬後に、壁に銃弾がめり込んだ。

かしゅんとブローバックした銃身が戻る。薬莢がキン、と床に響く。


ぱん。



きらりの上体は一瞬固まった後、右目から大量の血が噴き出す。

右腕が一瞬何処かを彷徨った後、下に落ちる。

きらりの身体が、倒れ込んだ。


「……は」

何を。

何をした、この女。

「いや〜、おいたはダメやでぇきらり。『あの人』が黙っとらんわ」

今。今こいつが。


きらりを殺した。


「っなん、で」

「何でって。簡単な話やん。——きらりは、あんたを殺そ」

それ以上、聞く気も理由も要らなかった。

アスカは拳を握りしめ、咲凜の鼻に叩き込んだ。血の片が舞う。

拳銃を奪い取り、右腕を極めてこめかみに当てる。

先ほど撃った熱がまだ残っていたのか、肉が焼ける音がする。

こいつだ。こいつが、殺した。

「答えろ!!!!!!何故、きらりさんをっっっっ!!!!!!!」

「いてて……この極めたの、外してくれへん?」

ぐい、とさらに強く銃口を押し付ける。

「はは、降参降参。」

至極軽い調子で咲凜は笑う。左腕を動かし、銃身を掴む。

するりと。

アスカの掌からグロックを取った咲凜は、それを自分の足に当てる。

ずが。

銃声が大腿を貫く。

「っつ〜……これで、話聞いてくれるかい?」

無理だ。何を言おうというのだ。

「私だって君らを無闇に殺してるわけとちゃう。対話してくれると嬉しいなぁ」

何だこの女は。のらりくらりと。激昂したアスカは拳銃を奪い取る。

そして正確に額に定め。


トリガーを引いた。


ギン、という金属音が響く。

弾かれた?何が。

あぁ、と戦闘の時を思い返す。


あの、シュヴァルツの能力だ。

顔の右半分を真っ黒な「何か」に覆われ、ニコニコと笑っている。

「駄目かぁ」

「化け、物……」

あぁそうかと合点がいく。こいつは、内通者なのだ。

シュヴァルツ側の分際で、人間に加担していた。

「内通者なんて人聞きが悪い。せめて協力者って言うてくれへんかなぁ」

肯定、した。

真っ赤に染まった病室の中で、心を読まれたアスカは動揺する。

「君も、私の話聞いたらきっと」

話は聞いていなかった。たっと駆け出すと、きらりの動かない肢体に手を添える。

「——ごめんね、貸して」

そして、呟く。


「レイズアウト。ナイフ」


きらりの右腕を、ナイフに。


「レイズアウト。——太刀、『八重桜』」


左腕を。


大太刀に。


「何や物騒なもん持ち出して。——力で対話するしか、ないって言うんか」

にぃ、と笑う。

「——殺してやる」

目から桜が溢れた。


ピィンとアスカはベッドを両断して太刀を鞘に収める。

右腕を切断された咲凜は、ジュル、と一瞬で再生する。

「動けるねぇ。——でも、私には敵わんよ?」

咲凜の体がブレる。咄嗟に飛び退いた、アスカのいた空間が割かれていく。窓ガラスが割れ、壁が崩れる。きらりの遺体に瓦礫がかからぬ様、アスカはシーツを彼女にかけた。

「舐めんな」

まどかも。きらりも。美梨も。牧も。榛名も。全員が、シュヴァルツに殺されたのだ。

内通者と聞いて、許せる——はずがないだろうこのエセ関西弁。

ナイフに持ち変える。

「お、やる気ぃ」


ギュル。アスカの方へ腕を伸ばした咲凜のその腕を手首から脇にかけて切り裂いていく。真紫な血が撒き散らされる。明らかに人間であれば失血死している量の出血をしても、咲凜は平然としていた。

それどこか、アスカの首を捕まえて容易く投げ飛ばしてしまった。宙に浮かびながら、負けるかと歯を食いしばる。

「よそ見厳禁やで」

一瞬の間にアスカの真上に移動していた咲凜は、地面へ向かって蹴り飛ばす。

真下にあったビニールハウスに突っ込んだアスカは、目の前に広がる花に一瞬心を奪われてしまった。

立浪草、クローバー、月桂樹。

「なぁ、実力行使なんてうちもしたくないんや。あんま傷つけると怒られちゃうからなぁ。」

「これ……教室に飾ってあった」

まどかの声が蘇る。確か、咲凜が送りつけてきたと。

「あ、気づいた?いい趣味してるやろ、私」

いい趣味なわけあるか。

それぞれの花言葉を思い浮かべて、アスカは吐き気を感じる。

これは悪意だ。いくら対話だ何だと後から付けたとしても、この女の奥底にはどす黒い悪意が蠢いている。

「なぁ、ほんまにそろそろ降参してくれへんかなぁ。実力差は歴然やろ」

アスカは太刀を支えにして立ち上がる。

「諦めて」


咲凜の頭を横一文字に切り裂く。花が舞い散る。



八重桜の壱片。『無明』



キンッとアスカは鞘に太刀を戻す。

どんな生物であれ、指揮系統を司る脳を壊せば死ぬ。

死ぬ。

死ぬのに。

「いやぁ、吃驚したわ。何やその技」

顔の上半分が無くなったまま、咲凜は喋っていた。

シュヴァルツの核がどこにあるのか、このままでは解らない。

——おそらく。恐らくだが、彼女の中にはシュヴァルツの核が、人体と混ざり合って共存している。出なければ腕を切り落として、そこからシュヴァルツの体で再生するなんてあり得ない。

「あんたも一緒に、『骸様』を信じればええのに。いい動きするから、きっと救ってもらえるで」

ムクロサマ。その言葉が何の意味なのか、アスカには理解ができない。しかし、彼女の妄言に耳を貸す気はさらさら無かった。

チャリ、と刀の柄に手を掛ける。

「やめてや。これ以上やると、腕の一本でも落とさなあかん」



八重桜の弍片。『逆


ヴン。


右腕が。


アスカの右腕が、落とされた。


「がっっっっああああああああ……!!!!」

アスカは呻く。状況確認などしている暇はない。ぼたぼたと血が落ちる。

「だからやめてや、って言ったのに。あんま傷つけるのはあかんねんな。」

咲凜は倒れ込んだアスカを抱き上げ、腕の切り跡を治療する。



————狂っている。



狂信者、という言い方では足りない。シュヴァルツの為であれば、自分の肉体を犠牲として、誰の命、どれだけの命を奪っても平然としていられる。

「はは、狂信者って言い方は酷いんとちゃう」

まただ。また、心を読まれた。どう言う絡繰なのだ。

アスカは咲凜の手を振り払い。離れる。

左手で太刀を取り上げる。かちゃ、と向きを返し、咲凜を睨め付ける。

ぎり、と歯を食いしばる。何を。

何故笑っていられるのだ。

この女の思考回路が理解できない。


ごぽ。


アスカの背後で何かが弾ける音がする。それは、数年前の中学校襲撃の時の音と良く似ていて。

突然、目の前の咲凜の上半身と下半身が切り離された。

「ありゃ」

血を口の端からこぼしながら倒れる咲凜。

真後ろから、キュルキュルと音の混じった声が吐き出される。



『良くないですよ、咲凜。折角のカメラに傷をつけるのは』



一体なんだ、この気配は。

気持ち悪い、圧がやんわりとかかっている。

「いや、ちょっと仕置きしただけやて。骸様も怒らんといて」

『眼と脳さえ壊れなければ良いですが。私が止めなければ、貴方はそこまで手を出そうとしたでしょう?』

「う」

ごぽ。ごぽ。

一歩一歩、背中の気配が近づいて。

今。

真横を通り過ぎた。

『——まぁ、しかし。綾小路きらりという不安要素を取り除いたのは正解でしたね。彼女はカメラを壊す存在になりかねなかった』

「そうかなぁ」

2mほどの体躯は真っ黒に染まり、その胸には骸骨が象られている。

異質な物だ。これまでのシュヴァルツとは、全てが違う。

『良くやりましたね、咲凜』

——再生しない。咲凜の傷が、再生していない。

「……えへへ。やったぁ」

パキン、と咲凜の顔面が割れる。

消滅。した。

まるで紙が燃えて灰になるように、その灰が風に吹かれるように。

『さて、邪魔者も消えたことですし、答え合わせと行きましょう』

何なんだ。この茶番劇は。

内通者を消した。なんでだ。

『彼女はもう用済みですよ。——だって、この拠点はもう終わりですからね』

がく、と膝が落ちる。

嘘だ。

しかし、心の中で納得してしまっているアスカもいる。

主要戦力のほとんどが戦死。——こうなることの、予想はついていたはずだ。

だが、心のどこかで願っていたのだろう。人類がシュヴァルツに打ち勝って、全員の笑顔で大団円を迎えることを。

『——それは、私が望むストーリーじゃぁない。』

さっきから何なんだ、心を読みやがって。

『そう。……それが、我々が地球を侵略する、理由ですよ』

骸様。

そう呼ばれたシュヴァルツは、アスカの額に手を伸ばす。

動けない。

触れる。

——冷たい鶏肉を、当てられたような感触がした。

その直後に情報が濁流となって脳に流し込まれる。

『オーバーヒート、しないでくださいね』



夢を、見る。

魚。

赤い大地を、ほとばしる濁流に揉まれる魚。

アジでもサケでもヒラメでもない。

真っ黒な魚が泳ぐ川。

その頭上。

空には、また真っ赤な空が聳えている。


『我々は、記憶を紡ぐ者』


にゃーん。

猫の声だ。

きらりが、ジジと呼んだ猫。

——戦闘の前には、必ずこいつがいた。


『自在に形を変え、様々な生物の記憶を喰物とする』


さなが映る。

「——さな」

アスカは呟き、手を伸ばす。



届かない。


『彼女の記憶は、大変美味しかった』


じゅるり。さなの頭部から、真っ黒な触手が突き出す。

何度か痙攣し、弛緩するさなの身体。その額から触手を引き抜き、ぽっかりと空いた穴をぺろりと舐めとる。


『大変甘く、苦い。』


さなの記憶の中の骸様、がアスカと目を合わせる。

その目に吸い込まれる。


『きらり、の記憶も大変良かった』


現実に引き戻されるアスカ。右手には大太刀を握りしめ、汗をびっしょりとかいている。

骸様の足元には、四肢が無くなったきらりの体がうち捨てられている。その額から腕を引き抜くと、ぶしゅ、と血が撒き散らされた。


『彼女自身の記憶は大変苦く、喰べられたものではありませんが。まどかの記憶が絡むと味が大きく変わる』


口を大きく広げ、内にある牙をにたりと覗かせる。


『彼女に大きな絶望を与えれば、それは刺激の強いスパイスになる』


「っきらりさん、に……触るなっっ!!!」

柄に左手をかけ、一気に引き抜く。



引き抜かれたのは、アスカの左足だった。

べしゃ、と花びらが大量に撒かれた地面にアスカの鮮血と肉片が飛び散る。


もう痛みは感じられなかった。右足も力が抜け、へたり込んでしまう。

完全に理解したアスカは、しかし信じられない、と頭を振る。

100年だぞ。

100年もの時間を、この壮大な物語のために消費したと言うのか。

その時間の中で。一体何人が死に、どれだけの人間が絶望したというのか。



『どこかの誰かが適正値を引き上げたおかげで、最後の戦いではギリギリの死闘を愉しめましたねぇ』


桜木の顔が頭をよぎる。


『桜木くん、なら咲凜がとっくに殺しました。最後まで抵抗したそうですがね』


本当、なのか。本当に、この世の人類は私しかいないのか。


『もちろん。八杉くんも協力してくれていたんですが、かなり早い段階で処分することになってしまいました』


八杉が、こちらを見透かすような言動をとっていたことを思い出す。

咲凜も、アスカの心の中を読むように話していた。


きらり、も。


『きらり、は協力者ではないんですよ。でも、外骨格を爆破してLEZATHと融合してしまった。だから読めるようになったんですかね』


今、何と発音した。


『我々の言語ですから、発音はできないと思いますよ。こう、舌を喉に絡めて発音するんです』


『まぁ、きらり、もカメラとしては中々良い役割を果たしてくれましたが——』


骸様の手が顎に触れる。異様に冷たい感触に、寒気が背中を走る。



『最も重要なのは、君でした』



ぐい、と骸様の顔がアスカの顔面に近づく。

『きらり、が先ほど聞いてましたね。なぜ、君が傷つけられないか。簡単な話です。』


アスカの左手が宙を泳ぐ。まるで、胸元にある何かを探すように。


『どんどん熟して、よく寝かせて。時折刺激を与え。そんな最上の味がするかもしれないワインを、わざわざ割ってしまう馬鹿はいないでしょう?』


桜木の顔が蘇る。——あの時、私は託されてしまったのだ。


人類の希望、ってやつを。



『上楠野を襲撃した時から、このシナリオは考えていたんですが。——最大級の絶望、ってものを是非見たい』


目が合う。ぐるぐると渦巻いた骸様の目は、やけにカラフルでまるで花園のようだった。


「それは。——私は、ここで殺されるってことですか」


『もちろん。自分の無力感、ってやつを噛み締めてください。それがどんな味になるか興味は尽きませんよ』


「——残念」


『は?』


左手で、ペンダントを握りしめる。

先ほど、桜木が託してくれたこの武器。

ピキ、とペンダントが光る。淡く、青く、華やかに。


『——なんですか、それ』


それに応えるようにアスカは叫ぶ。




「ナノ電磁ガジェット。——発動っっっっ!!!!!」




視界が青く染まる。脳に負担がかかる。

頭が焼き切れそうになる痛みを抑え。

アスカは立ち上がる。

託されたのだ。

この命を、消しはしない。

この蝋燭を、吹き消しはしない。

何度シュヴァルツが水をかけてきたって消えない。

継ぎ足され、繋がれ、紡がれていく。


それが。


それが。


人類の、




気合いってやつだからだ。




アスカの体の欠損した部分が、真っ青な何かで修復されていく。



『——あの時、回収しきれなかった脳の破片ですか。いやはや面白いことを考える』



骸様の気配が増大する。

彼の背後に光輪が何重にも展開される。

その一つ一つから、命を感じる。

いや。

命なんて温かいものじゃぁない。

どす黒い。

先ほど、咲凜が見せた闇よりも深く。

激昂したきらりよりもどす黒い。

一体どれだけの『悪意』が渦巻いているのだろうか。


『いいでしょう。————クライマックスにはやはり。』


骸様が頭上に指を差し。


アスカの方へクイっと向ける。


『ボス戦がないとっっっ!!!つまらないですからねぇっっ!!!!』


光輪が。

ヴワ、とアスカに襲い掛かる。

左腕が飛ぶ。再生する。

脇腹が抉り取られる。再生する。

口の端から上顎に向かって切り裂かれる。再生する。


アスカは構えをとる。



八重桜。



『唯我雨電』




大太刀が肥大していく。

どうっとアスカの姿が消え。



『何を、しました?』



一瞬の蒼い閃きがビニールハウスの壁面に反射する。

同時に、花びらが舞い散る。

骸様の上体がずず、とずれた。そのずれから、血が迸る。


アスカは向き直る。

そして驚愕する。


『何か、今しましたか?』


先刻と全く変わらない体で、骸様はそこに立っていた。


『まぁ所詮人間が作った技術です。この程度ですかね』


今明らかに斬ったのに。血が壁に、ありありと浮かび上がっているのに。

再生速度が尋常じゃない。


『気が変わりました。これじゃぁ死闘になりようがない』


腹が、貫かれる。

今どうやって動いたのか、感知できなかった。

胸が、貫かれる。

心臓が。


首が。


胴と切り離される。

真紫に光るこれは自分の血か、と一瞬の後に理解する。


アスカの最期、夢のような花が咲き誇るビニールハウスの中で。


目に映ったのは。





皮肉にも、ポインセチアの花弁だった。






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