やめて

「ただいま」


 家に帰ると、中は薄暗かった。

 薄暗い、というのは大きな照明がついていなくて、壁で等間隔とうかんかくに設置された小さな明かりが光っているくらい。


 夜中などに、この明かりは点けっぱなしにしている。

 いちいち眩しい明かりを点けなくても歩けるようにするためだ。


 今の時刻は19時。

 外に出れば、斜陽しゃようが、かろうじて見える。


 山は、日が暮れるのが普通の町より早い。

 なので、明かりは早めに点けておくのが常である。


 ただ、小さな明かりを点けている状態は、いつも寝ている時間帯にしていた。


 まだ起きている時間帯は、大きな明かりを点けていたが、今日はいつもと違って薄暗いので、安城さんは不在なのか、と首を傾げた。


「お姉ちゃん。安城さん。誰もいないの?」


 靴を脱いで、棚にしまう。

 誰もいないなら、代わりに電気を点けてあげようと考えるが、スイッチの場所が分からないときた。


 いつも、安城さんが点けてくれているし、明かりはリモコンで点けるタイプ。


 壁には、手動のスイッチがあるはずだが、それがどこに付いてるのか、未だに分かっていないので辺りを見回す。


 カタン。


 薄暗い場所でくるくる回っていると、物音が聞こえた。


「安城さん?」


 音はリビングの方からだった。

 リビングの方に向かい、半開きになった扉を開けて、中を覗き込む。


 すると、暗い部屋の中で、テレビの明かりが見えた。

 手前には人影があり、後頭部のシルエットを見るに、お姉ちゃんだろうと分かった。


「お姉ちゃん。暗い所で観ると、目悪くするよ」


 何も言わずに、素通りするのは気が引けた。

 5万円もの大金を貰ったのだ。


 挨拶くらいはしないといけない。

 扉を開けて、ソファに近づく。


「……お姉ちゃん?」


 首を伸ばして、顔を覗き込む。

 お姉ちゃんはぐっすりと寝ていた。

 首を傾け、股は開きっぱなしで、小突いたら背もたれからずり落ちそうな体勢だ。


 無防備な寝姿だった。


 肩を叩いて、ベッドで寝るように呼び掛ける。


「すぅ……すぅ……」


 起きる気配がない。

 よっぽど、疲れているみたいだ。


「レン様」


 いきなり、声を掛けられ、心臓が飛び跳ねる。


「あ、安城さん。いつから、そこに」


 安城さんは、ボクの隣に立っていた。

 生気のない瞳でジッと見つめてきて、傍にいるのが怖く感じる。


 さらに、シャツとジーンズ姿ではなく、今日は一段とラフな格好だった。

 キャミソールに、シースルーの透けた上着を羽織り、下はスカート。

 普段とは全く違う印象で、まるで別人のような華やかさがあった。


「……あ」


 そして、気づいた。

 この格好、駅前のと同じだった。


 すぐに安城さんだと気づかなかったのは、普段と違う格好をしていたからだ。


 目が留まったのは、忘れるわけがない端正な顔立ち。

 安城さんの顔はいつも見ているからこそ、目に留まった。


 何より、得体の知れない念のこもった視線が、真っ直ぐボクへ向けられていたからだ。


「言いましたよね?」

「……な、にがですか?」


 一歩、前に出てきて、気圧されてしまい、後ろに下がる。


「不純異性交遊は、ダメだ……と」

「別に、変なことはしてな――」

「だったら、どうしてキスなんてしていたの!?」


 腹の底から発せられた怒鳴り声が、リビングに響いた。

 それでも、お姉ちゃんは起きる気配がなくて、ビックリしたボクは前に手を組んで、何も言えずにいた。


 全身から血の気が引いていく。

 さっきまで、温かった気持ちが、冷水を掛けられたみたいに冷えていくのが分かる。


「レン様は、まだ学生です。大人がしっかり管理しないとダメなんです」

「……ご、ごめんなさ……」

「反省していませんよね。ええ。気づいてますよ」


 怖い。

 端正な顔立ちをしているからこそ、目が大きく見開かれる様は、鬼のように、ハッキリと顔の部位が変化する。


「こっちへ来てください」


 なんで。

 どうして。

 安城さんがここまで怒っているのだろう。


 不純異性交遊なんてしていない。


「こっちへ、……って言ってるんです」


 手足が震えていた。

 そのため、上手く歩けず、半歩ずつ近づいていく。


 安城さんの前に立つと、頬を持たれた。


「レン様は、魔性ですね」

「……すいません……」


 言葉の意味は分からないが、とにかく謝った。

 今のところ、優しく唇を撫でられているけど、いつ豹変するか分からなくて、やはり怖いのだ。


「この、……口が……」

「安城、さん。ごめんなさい」

「……あの……メス豚……に……」


 唇に爪が立てられた。


「い、たいよっ!」

「女を弄ぶと、どうなるのか。知っておくのも、いい勉強になるのではないでしょうか」

「弄んでなんか、……い、痛い!」


 やっと離された。

 そう思ったのも束の間だった。


 安城さんの爪には、血が付いていた。

 舌で唇を舐めると、わずかに鉄の味がする。


「……ぇあ……チュぅ……」


 安城さんは長い舌で爪に付いた血を舐めとると、ボクを睨みながら、指を咥えた。


「……お仕置きです」

「安城さん。やめて」


 お姉ちゃんは起きなかった。

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