第46話


「……なぁ、春花」


 放課後。みんなが帰り支度をする中、俺は少々躊躇いがちに春花に声をかけた。


「? どうしたの、たっくん?」


 あれからもう何度も呼んでいるが、未だにうれしいのか、名前を呼ばれただけで春花はほがらかに笑う。そんな眩しい笑顔を見せられれば、この後の言葉を続けにくい。


 迷った末に、俺は頬を掻きながら言った。


「すまんが、今日は夏海たちと帰ってくれないか? 少し用があってな、遅くなるかもしれん」


 春花は先程までの笑顔から一転して、しゅんと残念そうに目尻を下げる。お預けを食らった仔犬のように見えていじらしくもあるが、申し訳なさで胸が痛んだ。


 俺が春花を好きになるためにまず始めたのが、以前のように一緒に登下校することからだった。なので今朝は一緒に登校したのだが、放課後は少々やらなければならないことがある。


「そんな顔しないでくれ。明日の朝、また一緒に登校すればいいだろ?」


「う、うん。そうだよね。……けど、やっぱり待ってるよ。一緒に帰りたいもん」


「遅くなるかもしれないぞ?」


「大丈夫。平気だよ」


 頑なだな。これは折れそうにない。仕方がないなと、俺は苦笑しつつも頷いた。


「けど、遅くなるかもってことは、大事な用事なんだ」


「……あぁ、大事だな。やらなければならん」


 先日の黒士館高校との一件から数日。事件の収拾も一通りついたと連絡もあったし、相手側もちらりと見た感じでは、忙殺されてるといった様子ではなかった。そろそろ頃合いだろう。最後の始末は、俺がやるべきだ。


 もしかしたら、その結果によっては俺はしばらく学校を停学になるかもしれない。最悪退学になる可能性もある。だが、これはけじめなのだ。


 俺が真剣な表情でいると、春花はこてりと首をかしげた。


 そして場所は変わり、職員室……の、奥にある学園長室の扉の前で、俺は緊張した面持ちで佇んでいた。


「……ふぅぅ」


 目の前の扉を開け、中に足を踏み入れてしまえばもう後戻りはできない。さながら戦場だ。間違いは許されないだろう。


 俺は目を閉じ、息を吐いて心を落ち着かせ、意識を集中させる。


「なにやってるのかしら、あの子」


「またなにか問題を起こして、学園長に呼ばれたのでしょうか?」


 すると、扉の前に立ち、なにやら精神統一している俺を不思議そうに見つめる教師たちの視線を感じた。


「いかん、乱れた。集中せねば」


 もう1度深く深呼吸をする。


「すぅぅ……ふっ」

 

 最後に強く息を吐いて意気込むと、カッっと目を開き、俺はノックと同時に扉を開け放った。


「失礼しますっ‼」


「むぐっ!?」


 瞬間、なにやら驚いたような声が聞こえる。


 見るとそこには、大福を頬張っている橘学園長の姿があった。


「んむっ!? うっ、の、喉っ、詰まっ……」


 苦しそうに胸を押さえ、机に突っ伏す学園長。容態の急変に異常を感じた俺はすぐさま駆け寄った。


「大丈夫ですか、学園長っ? すぐに救急車を!」

 

 なんてことだ。学園長が、まさか心臓が弱かったなんて。

 

 こうしてはいられない。俺は救急車を呼ぼうと部屋を出ようとする。


「ち、違っ、そうじゃなくてっ、み、水をっ!」


 学園長は藁にも縋る表情で俺に向かって手を伸ばした。俺は足を止め振り返る。


「水? なぜそんな……いや、わかりました。けど、水なんてどこに……」


 おそらく、薬かなにかがあるのだろう。だが部屋の中を見回しても、水なんてどこにも。


 ……いや、あった。


 俺は壁際に飾られたに目を向ける。衛生上少し不安もあるが緊急時だ。やむを得ない。俺はがしりと花瓶を掴むと、添えられた花を引っこ抜いて学園長の元へと戻る。


「学園長、少々問題はありますが水です」


「え? こ、これ、花瓶……」


「いいからっ!」


「くっ……んぐっ、んぐっ」

 

 学園長は顔をしかめはしたが、なんとか水を飲んでくれた……ん? 薬はどうした?


「はぁ、はぁ……んっ、ふぅ、死ぬかと思った~」


 呼吸を落ち着かせた学園長はごくりと喉を鳴らすと、苦しみから解放されたような安堵の息を吐く。


「学園長、薬はいいんですか?」


「はい? 薬って、なんのことです?」


「いや、胸を押さえていたので、どこか悪いのでは?」


「え? ただ大福を喉に詰まらせてただけですけど……」


 会話が噛み合っていない俺と学園長は、お互いしばし無言で見つめ合う。


(……大福を、詰まらせてただけだと?)


 なるほど。状況を理解した俺は呆れたため息を吐くと、ひと言。


「焦って損した」


「んなっ!?」


 どこか悪いのではないかと心配したというのに、大福を喉に詰まらせてただけか。まだ若いのだから、そのくらい自分で対処してほしい。


「というか、よく噛めばそうはならんだろうに」


「あっ、あなたがノックもせずに入ってくるからっ!」


 学園長は憤慨といった様子で詰め寄る。


「いえ、ノックはしました」


「あれをノックとは言いませんっ!!」

 

 以前の凛々しさなど欠片ほども感じさせない剣幕で学園長は声を張り上げる。まぁ、大福を喉に詰まらせてる時点で凛々しさもなにもないのだが。


 やがて落ち着いた学園長は「はぁ……」とため息を吐くと、元の凛々しい顔つきに戻る。いや、もう遅いぞ。


「まったくあなたは……柊先生も怒っていましたよ。おいたは許すとは言いましたが限度というものがあります」 


 俺は普通にしているつもりなんだがな。口を挟めばまた言われそうなので黙っておく。


「それで、本日はどのようなご用件で?」


「そうですね、まずはそのことからでした」


 余計な騒動で時間を食ってしまった。春花を待たせているし、早めにやるべきことを済ませよう。


 俺は居住まいを正すと、学園長に向かって頭を下げる。


「今回は学園の生徒を危険にさらしてしまい、申し訳ありませんでした」


* * * * *


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