第9話

「しかし、それはお互い様というものだ」

「ん? お互い、さま?」

「そう、お互い様だ。お前がそうであったように、私も初めてだったのだ。いろいろと、な」

「――んなっ!?」

 炎を宿したように赤らんでいた涼太の顔が、一瞬にして青ざめて固まった。

 まさか、という感情を顔面に張り付かせ、女を凝視する。

 明らかに狼狽える涼太に、女は自分の腕を抱き締めてしなを作る。

 両腕に挟み込まれて強調されるそれを見て、涼太の顔が再び赤くなる。

 頬に留まらず、耳まで真っ赤に染まった。

「あのような経験は初めてだった。昨夜の寝床で起きた事を、私は生涯忘れる事はないだろうな」

「いいい、いや待て! 嘘だっ、そんなわけない!」

「まさかとは思うが、覚えておらぬのか? 私と共に一線を越えたではないか」

「一線!? 超えた!?」

「あぁ、二人でなければ超えらない一線を、お前が越えさせてくれたのだぞ。実に情熱的であったな」

「なっ、ななっ……ううっ、嘘だ!」

「本当に覚えておらぬのか? その手で触れた、この身の温もりを」

「あっ、うっ……」

 再び身を乗り出してきた女に、涼太は呻きながら後ずさった。

 シャツ越しにでもはっきりとわかってしまう輪郭に、心臓が暴れる。

「そ、そんな……いや、ありえない……俺がそんな……嘘だ」

 両手で顔を覆い、涼太は床を見つめて思い出そうとする。

 だが、昨夜の事はなにも思い出せない。

 頭に浮かぶのは、目覚めた直後からだ。

「――っ、ち、違うっ、あれは、そんなんじゃ……」

 目覚めた直後に覚えた気怠さ。

 身体全体に広がるそれは、激しい運動をした翌日のものと、果たして違うのだろうか?

 女の言葉を信じるのなら、あの気怠さは覚えのない行為によるものという可能性もある。

 なにより、涼太が目覚めたベッドには、目の前の女もいた。

 それも、全裸で。

 目覚めた瞬間はどうだったかはわからないが、寄り添って眠っていたとしてもおかしくはない距離感だった、それは確かだ。

 状況証拠だけで言えば、否定するほうが難しいかもしれないと、涼太は青ざめる。

 もし、もし本当に彼女と一線を越えていたのだとしたら、どうするべきか。

 たとえ覚えていなくても、それが事実ならば……。

「…………お、俺は、本当に覚えてなくて……でも、もしそうなら」

 両手で顔を覆ったまま、涼太は顔を上げる。

 ドッと噴き出す汗に身体を震わせながら、必死に向き合おうとしていた。

 その様子を見ていた女は、包み込むような優しい笑みを浮かべる。

 慈悲深さを感じさせる笑みに、涼太はなんと声を掛ければいいかを考える。

 が、女の笑みは徐々にほぐれていく。

 口角がグッと上がり、白い歯が覗く。

 柔らかかった目尻は更に下がり、まるで饅頭のような半月型の目になった。

「くっ、ははっ! はははっ!」

 そしてついには、声を上げて笑い始める。

 そこには慈悲などなく、あるのは愉悦に染まった邪悪な笑みだけ。

「…………ふざ、けるなよ」

 どういう事なのかを悟った涼太は、声を荒げる気力すらなく、小刻みに震えながらぼやく。

「いやまさか、信じるとは思わなかったぞ。軽い冗談のつもりだったというのに」

「言っていい冗談と悪い冗談があるだろ……」

「そうは言うがな、くくっ……普通は信じぬだろう、あのような話」

「なにも覚えてないんだから仕方ないだろ、クソっ」

「だからと言って、ふふっ……それにだ。仮に一夜の過ちがあったとしても、ああも真剣に悩むような事ではあるまい」

「うるさい! 俺にとっては重要な事だったんだよ!」

「そのようだな、はははっ!」

「出ていけ、今すぐ!」

「そう言うな。謝罪はしよう。この通りだ」

 またしても顔を真っ赤にして憤る涼太に、女は形ばかりの頭を下げる。

 堪え切れない笑いが漏れていて、とても謝罪とは呼べないものだ。

「たちが悪すぎる……」

「かもしれぬな。だが、あの程度の悪意は見逃せ。なにせこの身は、悪魔であるからな」

「こ、こいつ……」

 この瞬間、涼太は初めて目の前の女を本当の悪魔なのではないかと思った。

 少なくとも、言動や倫理観は悪魔と呼んでも差し支えがないだろうと。

「相当なお人好しか、それとも生真面目か……お前という人間は実に面白いな」

 ひとしきり笑った女は、仕切り直すように言って足を崩す。

「不思議なものだ。昨日、あの場所で私が目覚めた瞬間、そこにお前がいた」

「……目覚めた? あそこで?」

「あぁ、封印が解けた、まさにその直後だった。わかるか? 数百年の呪縛から逃れて、最初に目にしたのが、お前だった」

 噛み締めるように言いながら、悪魔は楽しげに笑う。

「私は思ったぞ。これこそ運命と、そう言っても過言ではないとな」

「いや、過言だと思う、たぶん……そういうのはさ、偶然って言うんだよ」

 否定する涼太の声は弱く、か細いものだった。

「その偶然こそ、運命と呼ぶに相応しい」

 対する女の返答は、力強く自信に満ち溢れていた。

 己の言葉と直感に、一切の疑いを抱いていない。

「ずっと、などと厚かましい事は言わぬ。力が……いや、せめて自分が何者であるか、その記憶が戻るまででいい」

 それまでのからかうような気配を一切感じさせず、女は真っ直ぐに涼太を見て話す。

「今のままでは、どこに帰ればいいのかもわからぬのでな。それがわかるまで、ここにおいてはくれぬか?」

「……悪魔だとか名乗るようなお前を、か?」

 拭いきれない疑念を含ませた涼太の言葉に、女は微笑を浮かべて頷く。

 悪魔である事を否定などしない。

 そんな女の態度に、涼太は考えてしまう。

 もし、彼女の話が本当なのだとしたら。

 自分が何者かも、帰る場所さえもわからない存在。

 彼女は言わば、現代に蘇ってしまった迷子の悪魔だ。

 なんの因果か、そんな相手と出くわし、追いかけられ、家にまで上がり込まれた。

 彼女に対して負うべき責任も義理も、在原涼太という人間には一切ない。

 なにより涼太は厄介事には関わらないようにするという、絶対の誓い、約束がある。

 だから、断る以外の選択肢は存在しない。

 ……しない、はずだった。

「思い出すまで、でいいんだな?」

 それはある意味、契約の確認だった。

 決して口にする事はないはずの言葉。

「……言っておいてなんだが、良いのか?」

「どうせなに言っても、大人しく出て行くつもりなんてないだろ」

「うむ、それはそうだが……しかし、驚いた」

 俺もだよ、と驚きを隠せない女の言葉に涼太は鼻を鳴らす。

 涼太自身も、そう決断した自分に驚いていたのだ。

 どう考えてもやめておいた方がいいのは間違いない。

 相手は悪魔を名乗る、正体不明の存在。

 共感したり同情したりするような相手ではない。

 だが、たった一つだけ。

 ――帰る場所がわからない。

 その一点でのみ、涼太は共感を覚えた。

 たった一つの引っかかりが、彼を惑わせたのだ。

「でもな、これだけは言っておくぞ。俺の生活は乱さない。これが絶対条件だ。いいな?」

「心得ておる。恩人に迷惑はかけぬさ」

 胸を張って得意げに頷く女を、涼太は半信半疑なジト目で見る。

 これほどまでに信じられない言葉を自信満々に言う存在は、初めてだった。

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