【番外編】幸せな口づけ(後編)【紗良視点】
一体誰が言い始めたのか知らないけど、『恋は下心、愛は真心』とは、なかなかうまいことを言うものだ。フカフカの座布団を三枚くらいあげたい。
多分、私の恋愛は『恋』の成分が多いんだろう。六割は余裕であるかな。七割はいかないと思うんだけど、六割八分といったとこだろうか。詩織さんがそばにいると、大事にしたいという真心と、触れたいという下心がせめぎ合っていて、ずっと心が落ち着かない。
だからこそ、納得がいかないのだ。私が今、こんなにもドキドキしているのに、なんで詩織さんは平然としているのか!
「じゃあ、両手で袖持ってピンと引っ張って」
「えっと、こう?」
「そうそう」
現在、浴衣の着付けをしてもらってる真っ最中。布越しとはいえずっと詩織さんに触れられているこの状況下で、私はずーっとドキドキさせられている。後ろから抱きしめるように腕を回してきたり、首筋に指が触れたりと、私には少しばかり刺激が強い。詩織さんに心臓の音が聞こえないか、わりと本気で心配だ。
っていうか、詩織さんも少しは意識してよ! こんなにも淡々とされてしまうと、自信がなくなっちゃうじゃないか、もう!
「はい、完成」
ポンと肩を叩かれて、我に返った。
「ほら、見て見て、すっごく可愛い!」
手を引かれて姿見の前に立つと、人生初の浴衣をきっちりと着付けられた自分の姿があった。自分で言うのもなんだが、確かに可愛い。白地に青い撫子の柄は涼やかで上品だ。それでいてレトロな可愛さもあって、これを着て初デートをするのだと思うと胸が躍る。
「締め付けがきつかったり、苦しかったりしない?」
「ううん、全然。ありがとう、詩織さん。すごいね!」
「ふふっ、どういたしまして」
不器用なはずなのに、着付けは上手って謎だ。詩織さんは、何度も練習したからだと言っていたけど。そういえば、ハーフアップの髪をセットするのも自分でやってるはずだし、包丁の扱いも上手だから、あれも反復練習の賜物なのだろう。
ちなみに、今日の私たちのヘアセットは私がすることになっている。髪をアップにしてお揃いのヘアアクセをつける予定だ。
「じゃあ、私も急いで着替えちゃうわね」
ひと仕事終えた満足顔で、今度は詩織さんが紙袋から自分の浴衣を取り出す。
こちらは白地に青紫の桔梗が描かれていて、色目は私が着ているものと少し似ている。でも、緑がかった青から青紫へのグラデーションの具合と、描かれている桔梗がやや小さいせいか、可愛いというより大人っぽい。
前に去年の写真を見せてもらったけど、きっと今の詩織さんの方が似合うだろうな。早く見たいな。
「……あの、紗良」
「え?」
ワクワクしながら着替えを待っていたら、シャツのボタンを途中まで外した状態の詩織さんに、困り顔で呼ばれた。
「えっと、あんまり見られると、その、着替えにくいから、……ね?」
「…………あっ、ご、ごめんっ!」
慌てて後ろを向き、そのまま隣の寝室に駆け込んだ。
うわー! うわー! 私、バカだー!!
やましい気持ちはなかったけど、着替えをガン見するなんて!
恥ずかしさでベッドの上を転げ回りたいくらいだけど、浴衣が着崩れそうでそれも出来ない。その場で小さくパタパタ足踏みするのが精一杯だ。
うぅ~、でも、さっきの詩織さんはちょっと、いや、かなり反則だと思う。途中までボタンを外したシャツを前で寄せて、肌を見せるのを恥じらう姿が私の下心を刺激する。隠れてたのに! 何も見えてないのに!
「ううぅ、でも、あれって一応意識してくれてるってことなのかな?」
だって、女の子同士なんだから目の前で着替えたっておかしくはないはずだ。
そういえば、私が浴衣用の下着に着替えてる時も、詩織さんはちゃんと後ろを向いてたし、さっきだってあんなに恥ずかしそうにして、──それってそういう対象に見てるってことだよね、多分。
「へへ、やったぁ」
この恋はゆっくり大事に育てていく。でも、育てる過程で同じことを望んでいてくれるなら、それはとても嬉しいことだ。
さっきまでの焦ったい気持ちもちょっとスッキリしたことだし、待ってる間に自分の髪をやってしまおうと、寝室に置いてある鏡の前に移動する。
さすがに自分で凝った髪型は無理だから、簡単なやつを調べておいた。捻って捻ってくるりんぱ、あとは毛束を押し込んでピンで留めて完成! ふふーん、ちょっと大人っぽくなったかな? 詩織さん、惚れ直してくれるかな?
ピョコピョコと飛び出してる髪を微調整していると、向こうの部屋から「終わったわよー」と声がした。
すかさず「はーい」と返事をして、綺麗にまとめた髪を見てもらおうとワクワクしながら部屋から出て、私は言葉を失った。
「あら、髪結ったの? 綺麗ね」
「あ、ありがとう、えへへっ」
綺麗なのはそっちでしょう! と、心の中で大声でツッコミを入れる。
そうだよ、詩織さんに浴衣が似合わないわけなかったんだ! っていうか、想像以上だ。浴衣効果でただでさえあり余ってる色気が倍増して、もはや大洪水になってる。
これで髪を上げたりしたら、うなじから色気が滝のように放出されてしまいそうだ。やめてよもう、ダムの決壊じゃないんだから。そんな詩織さん、心配で花火どころじゃなくなっちゃうよ。
決めた、詩織さんの髪型は編み下ろしにする。うなじは隠す! 絶対、誰にも見せない!
「なんだか気合い入ってる?」
「うん、すっごく入ってる。大丈夫だよ、世界一可愛くするから!」
「えー、世界一可愛いのは紗良でしょ。でも、よろしく」
クスクス笑う詩織さんを椅子に座らせ、バレッタを外す。ハーフアップにしていた髪がふわりと落ちて、なんだかこれはこれで……いや、もう今の私は詩織さんなら何でもいいってくらいにすぐ下心が疼くだけで、これは絶対に大したことないやつだ。
前にお出かけしたショッピングモールで髪を触らせてもらった時は、全然何ともなかったし。本当になんで平気だったんだろう。今なんて、こうして無防備な後ろ姿を見ているだけで抱きしめたくなってるのに。
ふわふわの髪をとかしながら、我慢できずつむじに口づけを落としたら、ひゃっと小さな悲鳴が上がって、みるみるうちに耳とかうなじが赤く染まっていった。
「ああ~、もう詩織さん、ほんっとそういうとこ!」
「それ、こっちのセリフだけど!?」
「ぶっぶー、私のセリフで合ってまーす。ほら、じっとしててね」
「納得いかないわ……」
口だけじゃなくて、つむじでも照れちゃうのか。可愛いなぁ。花火大会行くのやめて、このまま浴衣姿の詩織さんをうちで堪能したらだめかな。
今度は耳やうなじにキスしたらどうなるだろうという邪な心をどうにか抑え、柔らかな黒髪を結い、お揃いで買った花のヘアアクセサリーをつけると、なんとなくラプンツェルっぽい髪型になったが、これはこれで浴衣とは合ってるから良し。
ただ、うなじは隠しても匂いたつ色気は全然隠せていなくて、こればかりはもうどうしようもなかった。
「ありがとう、似合う?」
「うん、最高に似合ってる。世界一可愛い!」
可愛すぎて心配なこの気持ちを、貴女にどう伝えたらいいのか困ってしまうくらいに。
好きすぎて、彼女の心も体も時間も全部独り占めしたい。こんな可愛い姿を誰にも見せたくないだなんて、我ながら重すぎる。片思いの頃から重い重いと思っていたけど、付き合い始めてからは更に拍車がかかってしまって、いつか抑え込めなくなりそうだ。
「紗良も宇宙一可愛い。可愛過ぎて、ドキドキしちゃう」
「本当に? ドキドキする? 惚れ直しちゃう?」
「ええ、もう惚れ直しちゃった」
「やったぁ!」
無邪気に褒めてくれる詩織さんをぎゅっと抱きしめると、ぎゅっと抱きしめ返してくれるのが嬉しい。
ドキドキするとか、惚れ直すとか、素直に口にしてくれる詩織さんはすごい。下心や重い気持ちがバレそうでなかなか言えなかったけど、好きって気持ちは伝えても大丈夫なんだって安心する。
「好きだよ、詩織さん。私ね、詩織さんにもっと好きになってもらいたいし、もっとドキドキしてほしいんだ」
「ふふっ、もう十分ドキドキしてるわよ。いつもキスするたびに心臓が飛び出しそうだし、さっきだって…………えーっと、あー……」
「さっきだって?」
モニョモニョと言い淀む詩織さんに問いかけると、うんうん唸って言い訳を考えていたみたいだけど、観念したのか「浴衣の着替え手伝う時、ほんとはすっごくドキドキしてた」と小さな声で打ち明けてくれた。
「何それ、可愛い」
「可愛くないわよ、もう」
こんな女神みたいな見た目なのに、天使みたいに純粋で可愛い、私の年上の恋人。
可愛くて、愛おしくて、一体どれだけ好きにさせるつもりなのやら。
ねえ、平気そうな顔してたくせに、実は同じ気持ちだったの? 私ばかりが下心を感じてるなんて、思わなくていいの?
「私もね、ずっとドキドキしてたよ。着替えの時も、浴衣姿の詩織さんにも。だから──」
浴衣の襟を少しだけずらし、鎖骨のあたりの白い肌に唇で触れて、チュウっと吸い上げる。ピクリと跳ねた体を抱き寄せたまま、最後に少しだけ歯を立てると、「んっ……」と艶めいた声が頭上から漏れ聞こえた。
ああ、まったくこの人は。あんまり私を刺激しないで欲しいなぁ、これでも結構我慢してるんだから。
「これ、予約の印ね」
ちゃんと赤く残ったそれに満足して指でなぞると、湯気が立ちそうなほど赤くなった詩織さんが両頬を押さえて頷く。
「あははっ、その顔のままじゃ外に出れないね」
「誰のせいよ。言っておくけど、紗良も似たような顔してるんだから」
「誰のせいって、詩織さんが可愛いせいだと思う」
「もう、すぐまたそういうこと言って。これじゃ、いつまで経っても出れないじゃない」
別に出れなくてもいいんだけどな、なんて。トドメに唇にもキスをしたら、さすがに怒られた。
予定よりも随分遅くなり、二人して大慌てで飛び出したのも、初デートの大事な思い出。
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