96・駆け出す心

 濡らしたハンドタオルで目を冷やしてから、葵は先に美術室に戻った。一緒に戻ったりしたらどんな噂になるかわからないので、私はしばらく時間を開けてから出るつもりだ。

 話す前ならともかく、今は彼女も騒がれたくないだろう。

 ペコリと頭を下げて出ていく葵を見送り、前世で卒論を提出した時のようなやりきった気分で、思いっきり腕を伸ばして大きな伸びをする。午前で葵とデートの約束をしてしまった時はどうなることかと思ったが、なんとかなって良かった。こはると陽子には、今度ちゃんとお礼をしよう。

 心配してるだろうから先にLAINだけ送っておこうか、なんて考えていると、さっき閉じたばかりの扉がガラガラと横に開かれ「おつかれ~」と、陽子が入ってきた。


「えっ、先に戻ったんじゃなかったの?」


 驚く私を見てケラケラ笑い、「サプライズ成功」なんて言いながら、いつもの定位置に座った。


「そのつもりだったけど、二人だけ戻って来なかったら変に勘繰られそうだなって思ってさ。そこの階段の踊り場で時間潰してた。いやー、暑かったわ」

「ああ、ありがとう。私も噂になったら困るから、帰る時間ズラしてたの」

「やっぱりね。島本ちゃんだけ出てきたから、そうだと思った」

「あ、島本さんにも会ったのね」


 考えてみれば当然だ。

 踊り場で待っていたのなら、葵にも会うだろうし、話が終わったのがわかったから来たんだろう。


「島本ちゃんは、こはるっちと話してるよ。振られたばっかりのこはるっちが、振った相手の島本ちゃんを慰めてるのも、ちょっとおかしいけどね」


そうか。それなら、葵のことはこはるに任せてもいいのかな。私が葵に出来ることは、何もないし。


「幼馴染って、不思議な関係だよね」

「そうよね……」


 家族のような近さがあるけどやっぱり家族じゃなくて、好きな人にもなりえる存在。振った振られたなんてことがあれば、普通はもう少し距離ができそうなものだけど、そこが幼馴染特有の絆なのだろうか。それとも、あの二人が特別なのか。

 前世も今世も幼馴染なんていなかった私には、よくわからない関係だ。


「で、ケリはついたの?」

「おかげさまで。陽子たちの言う通り、逃げ回ってたのが悪かったみたいね。ちゃんと正面から話したら、案外あっさりわかってくれたわ」

「そっか。まー、失恋の傷が早く癒えるといいね」

「……ええ」


 のんびりとそんな話をしていると足音が聞こえてきて、がらりと横に開いたドアから予想通りの顔が現れた。


「お待たせしました」

「あ、こはる。こっちこそお待たせ。色々とありがとう」

「いいえ、葵ちゃんと話をしてほしいってお願いしたのは私ですから」


 ありがとうございましたと、真面目な顔でお礼まで言ってくれてるけど、こはる的にはどういう気持ちなんだろう。

 自分を振った相手を更に振った相手だぞ、私は。


「こはるは、その……大丈夫?」

「あ、はい、大丈夫ですよ。まあ、少し複雑な気持ちではありますけど、落ち着くところに落ち着いたなっていうか」

「それなら良いけど……」


 大人だなぁ、もう!

 理屈ではそうでも、普通は気持ちがついていかないものでしょうに。まだ十代でそれが言えちゃうって、こはるこそ人生二周目なんじゃないの?

 おかしいな、本当に二周目の私の方がジタバタしてる気がする。


「葵ちゃんも、振られたけどスッキリした顔してました」

「そう。……あ、そういえば、こはるは島本さんからどこまで聞いてたの?」

「どこまで、っていうと?」

「えーっと、そうね。一目惚れだった、とか」

「ああ、それは知ってました」


 聞いてたのか!


「一目惚れっていうか、最初は無自覚に惹かれてるくらいだったと思うんですよね。私と葵ちゃんが部活勧誘の日に遅れてきたの、覚えてますか? あれ、杉村先輩を探してて遅くなったんです。お礼を言うんだーって」

「ええっ!?」


 そうだったのか。ゲームのシナリオでは部活勧誘に遅刻するなんて書いてなかったのになー、とは思ってた。けど、まさかそんな理由だったなんて。


「先輩、見た目は大人っぽいから、三年生だと思ったんですよ。で、三年の教室に探しに行ったけど見つからなくて、諦めて美術部を見学しにきたら見つけたものだから、葵ちゃん、運命だって大興奮してたんですよ」

「し、知らなかった……」


 そういうことは早く教えてほしい。

 っていうか、お礼言うつもりだったなら、さっさと言ってくれれば良かったのに。葵もなんで黙ってたんだろう。私に話しかけたいなら、絶好のネタだったはずなのに。


「でも、やっぱり本気で堕ちたのは、電車での先輩を見かけてからでしょうね」

「ええ、聞いたわ」

「先輩、絶対に無自覚だと思うんですけど、紗良さんと一緒にいる時の表情、すっごく甘いんですよ」

「あ、わかるー。私も思ってた。激甘だよね!」


 こはるの言葉に、陽子が賛同する。

 やめて! こはるの言うように、完全に無自覚だったから! さっき葵に指摘されて悶えてたばかりなのに、更に追い打ちをかけないで!


「あまりの甘さに、友田も一目で気づいてたし」

「友田さんって誰ですか?」

「椿ヶ丘の私の友達で、紗良ちゃんの先輩」


 そして、紗良を好きだった仲間でもある。

 そういえば、振られたら失恋同盟作ろうって言われたなぁ。夏休みが濃密すぎて、あれからまだ1ヶ月経ってないなんて嘘みたいだ。


「まあ、好意の大洪水ですもんね」

「ヤメテクダサイ……」

「でも、そんなデレデレな先輩を見て好きになったのって、葵ちゃんだけじゃないんですよね」

「……え?」


 誰のこと? そんなの初めて聞きましたけど。

 私の気持ちを代弁するように「誰?」と陽子が聞いた。


「前に電車で先輩に告白した人がいたじゃないですか。あれ、私のお姉ちゃんの元カレなんです」

「えぇっ!!?」


 こはる姉の元カレっていうと、あれか。こはるが紗良を刺す引き金になった理由の一人だ。え、あの人がそうだったの? 夢には顔までは出てこなかったから、わからなかったよ。

 こはる姉と別れて紗良に告白するのってもう少し先のはずだし、なんでそんな人がなんで私に告白してきてるんだ。紗良に告白されても困るけどさ!


「最初は紗良さんを見てたらしいんですけど、一緒にいる先輩の方を好きになったらしくて」

「それは何というか……ごめんなさい」

「別に先輩が謝ることじゃないですよ。でも、多分あの人も紗良さんと一緒にいる時の先輩が魅力的に見えたんだろうなって」

「う、うぅ~ん?」


 そうなの? 自分じゃわからない上に、公共交通機関で紗良への好意を全開に漏らしてたと聞かされて、私としては素直に頷けない。

 私が返答に困っていると、陽子が口を開いた。


「なーんだ、さっきの言い方だと、デレデレの詩織を好きになったのって、こはるっちのことだと思っちゃった」


 告白タイムが始まるのかと思ってドキドキしたと、陽子が胸に手を当てた。

 いやいや、さっきの言い方は確かにそれっぽかったけど、こはるに限ってそれはないでしょう。むしろ、葵の隣でギリギリ歯軋りしながら殺気飛ばしてた側だよ。


「そうですね、憧れはしました」


 ──って、おい! そうなの!?

 驚いて目を丸くしている私に、こはるが呆れたように笑う。


「前にも言いましたよ、羨ましいって」

「えっと、それは顔も頭も良くて、大事にしてくれる友達がいる紗良が羨ましいってことじゃ……?」

「少し違います。多分『大事に思い合える』って言ったはずです」

「ああー、そうだった、かも?」


 あの時は少し緊張していたせいか、細かいところまでは覚えていないが、おそらくそう言ってくれたのだろう。


「自分の状況と比べてみじめな気持ちにもなったし、何でも持ってる先輩が恨めしいやら憎らしいやらで、腹立ちましたけど」

「デスヨネ」

「でも、それってやっぱり羨ましかったからなんですよね。私、先輩と紗良さんが幸せそうに喋ってるの好きです。…………憧れてるんです」


 最後は小さめの声だったけど、はっきりと。

 憧れだなんて、まさかこはるからこんな言葉が聞けるとは。相当恥ずかしかったのか、怒ったみたいな顔で目を逸らしているけど、そんな真っ赤になってたら可愛いだけだ。


「こはるがデレた……っ!」

「デレたとか言わないでください!」


 そんなに睨んでも、怖くありませんよ。子犬が吠えても可愛いだけだからね! と、目尻を下げていたら、「怒られて嬉しそうな顔しないで下さい、M先輩」と、わりと本気のトーンで言われた。真顔で。

 すみません、調子に乗りました。


「もう、茶々を入れないで最後まで聞いて下さいよ。あー、その、何が言いたいかっていうと……私、先輩の恋が実ってほしいです」

「──っ!」

「私だけじゃなくて、多分葵ちゃんや姉の元カレも、憧れたんです。先輩の紗良ちゃんへの気持ちも、あの幸せそうな空気も、二人の笑顔も全部キラキラ輝いて見えました。好きな人をあんな笑顔にするって、凄いことなんです。だから、えっと……先輩はもっと自分の恋を誇っていいし、自信持ってください!」


 ガツンと後頭部を殴られたような気分だ。

 自分でも無意識のうちに、紗良を好きになったことへの罪悪感や、どこか裏切っているような後ろ暗い気持ちがあった。恋心を抱いたことを申し訳なく感じていたし、自信もなかった。

 それなのに、こんな臆病で後ろ向きな恋でも、この子は憧れとまで言ってくれるのか。

 こはるの言葉が、胸にじんわりと染みていって、ネガティブな気持ちをゆっくりと溶かしてくれる。そっか、私、誇っていいんだ。


「これはヘタれるわけにはいかないねぇ、憧れの先輩として」

「ええ、可愛い後輩を裏切るわけにはいかないわね」

「私、憧れの先輩とは……いえ、いいです」


 半分だけ空気を読んだこはるが可笑しくて、陽子と一緒に声をあげて笑う。

 笑いながら、少しずつ胸に広がっていく温もりに、『ああ、今だ』と思った。きっと、今なら大丈夫。


「よーし、じゃあ、行ってくるわね」


 おもむろに立ち上がった私を、二人が「え?」と驚いた顔で見上げた。私の意図にすぐに気づき、「もしかして」とニヤリとする陽子に大きく頷く。


「花火大会まで待ってられないわ!」


 いってきます! と駆け出す私の背中を、二人分のいってらっしゃいの大きな声が押した。



 紗良、紗良。

 ずっと勇気がなくて伝えられなかったけど、どうか聞いてほしい。


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