88・攻防戦

 またね、と紗良に手を振って彼女の家を出た私は、エレベーターへと向かった。足早に、しっかり笑顔を貼り付けたまま。

 降りのボタンを連打し、チーンという音とともに到着したエレベーターに飛び乗ったところで、ようやく笑顔の仮面を投げ捨てた私はプハッと息を吐き、その場にうずくまった。


「……死にそう」


 何あれ。何が起こった。いやもう本当に、頭がついていけないっていうか、完全に思考が停止してる。

 事故とはいえ、紗良とキ……キスしちゃったっていうだけで、もはや脳死寸前案件なのに、私が好きだからファーストキスが私で嬉しいだなんて、確実にとどめを刺しにきてる。おかげさまで、無事に死亡しましたありがとうございます!

 あまりにも良い雰囲気だったから、思わず「私も好き!」と告白しかけたけど、そんな天然のエサに飛び付いてはいけない。あれはあくまでも友達として! 人としての好きだから!!

 好かれてる自覚はあったし、泣きじゃくってる私を慰めるためもあったんだろうけど、まさかあそこまで言ってもらえるとは。おかげで、涙も一瞬で引っ込んだわ。

 チーンというエレベーターの到着音でスッと立ち上がり、やはり足早にマンションから出た。歩いて歩いて、もうすぐ駅に着くというあたりでようやく少し頭も冷えてきたらしく、歩調を緩めた。


『私は詩織さんのこと好きだからっ、その……ファーストキスの相手が詩織さんなら嬉しいよ!』


 本当に紗良は隙が多すぎる。あの雰囲気であんなこと言われたら、勘違いしそうになるじゃないか。

 そう、勘違いだ。だって、私は紗良をときめかせるようなことを何ひとつ出来ていない。恋愛対象として見てくれているわけがない。サブヒロインの──主人公じゃない私が、そんな簡単に両想いになれるはずがない。勘違いして浮かれたら、後で泣きを見るだけだ。


「でも本当に……勘違い、なのかしら」


 期待しちゃダメだ。世の中そんなに甘くないし、大好きな百合作品のようには都合よくいかない。わかってる。

 でも、あの言葉が友愛からのものじゃなかったらって、期待してしまうんだ。思い出すだけでドキドキして、こんな調子で今夜眠れるのだろうか。いや、無理!

 戻って確認してみようか。でも、もう結構歩いちゃったしなぁ。わざわざオートロックのドアを開けてもらってまで確認して、友達としての好きだったら恥ずかしくて死にそうだ。


「……帰ろう」


 どうせ勘違いだ。次に会ったら、タイミングを見て軽く聞いてみよう。それまでには、きっと紗良とも落ち着いて話せるようになっているだろう。

 次に会う時、──花火大会の夜には。



※ ※ ※ ※



 夏休みもいよいよ後半戦。

 さすがに美術部の絵も描き上げないといけない。新学期に入ったら文化祭の準備も加速するだろうし、生徒会の手伝いで部活に来れる日は限られる。

 そういえば、ゲームの文化祭イベントで『詩織』とのエピソードがあまりないのは、ゲームの『詩織』も陽子に頼まれて生徒会を手伝っていたから? 葵たちのクラスに遊びに来るエピソードと後夜祭での告白イベントはあるけど、こはると比べて出番は少ない。もちろん、今となってはわからないけれど。

 そんなわけで、紗良とキスした翌日にも真面目に部活に出てきているわけだが、相変わらず葵は他の部員たちに囲まれているし、こはるは少し離れた場所で黙々と絵を描いている。隣の席の陽子は、もうすぐ描き上がりそうだ。

 そんないつもの光景の中、昨日のことが夢だったみたいだなんて考えてキャンバスに向かっていたら、手元に画材が不足していることに気がついた。


「ねえ、陽子。マスキングテープ持ってる?」

「持ってないよ。忘れた?」

「ええ、うっかり」


 忘れたというか、使う予定がなかったから用意していなかったのだ。

 最近では小物のデコレーションなどによく使われるマスキングテープだが、美術部では塗料を塗りたくない部分を保護するために使われる。私は滅多に使わないので、前に使い切ってそのままになっていた。

 いつもなら適当に誰かから借りるのだけど、借りれそうな人たちは葵の周りにいるので、ちょっと近づきにくい。というか、近寄りたくない。


「準備室に転がってないかしら」

「あー、そういえばあった気がする。一緒に探そうか?」

「ううん、一人で大丈夫。ありがとう」


 席を立ち、美術室の隣にある準備室に向かう。

 準備室の扉を開けると、むわっとした湿気と暑さとカビ臭さに、思わず息を止めて後ずさった。美術室はクーラー完備だが、準備室にそんなものはない。唯一、古い換気扇がカラカラと音を立てて回っているだけだ。本当に換気されているのかすら、ちょっと怪しい。

 こんな場所に長居は無用。さっさと探して、涼しい部屋に戻りたい……のに。


「見つからないわね」


 イーゼルやらキャンバスやら石膏像やら。他にも本や段ボールなど、とにかく雑多に物が置かれているこの部屋。整理整頓の文字は投げ捨てられ、探すために物を動かせば埃が舞う。今この瞬間に地震が来たら、埋もれて死にそうだ。本当にこんなところでマスキングテープを見たのか、陽子よ。

 もう諦めようかと思い始めた頃、ガタガタと重い音を立て、背後の扉が開いた。


「せーんぱい♪」


 百点満点の笑顔と甘い声を引っ提げて、誰よりも避けたい相手である葵が準備室に入ってきた。

 とっさに逃げようと身構えたけど、残念ながらこの部屋の出口はひとつ。やばい、逃げられない!


「……何の用?」

「やだなぁ、せっかく二人きりになれそうだったから、追いかけてきただけですよ」


 でしょうね!

 こんなことなら、陽子に一緒に来てもらうんだった。それか、最初から誰かに借りるべきだった。くそぅ、完全に油断していた!


「私はもう美術室に戻るから、そこ通して」

「いやです」


 物がごった返すこの部屋の通路は、人ひとり分だ。その唯一の逃げ道を塞ぐように立ち、葵が笑顔のまま拒否する。この子、いい根性してるじゃない。

 あっ、葵の隣の棚にマステ発見。これがもっと早く見つかっていれば、こんな状況にはならなかったのに!


「出て行く前に、話くらい聞いてくださいよ」

「……何?」

「先輩、私とデートしてください!」

「いやよ」


 間髪入れずに断ると、そうでしょうねーとガックリ肩を落とされた。

 そりゃ、するわけないでしょうよ。何が悲しくて紗良以外の──よりにもよって、振った相手とデートせにゃならんのか。


「そう言わずに、お願いします!」

「絶対しない」

「デート代は私が出しますから!」

「そういう問題じゃないの」

「1時間だけでも」

「1秒たりともしません」


 涙目で食い下がる葵に可哀想だという気持ちはあるが、期待させるのも酷だ。可能性がないんだから、とことん突き放した方が良い。

 この応酬の間、私も精神的に削られてるんだから、そろそろ退いてくれないだろうか。そして、そのまま大人しく諦めてほしい。


「私、そんなに嫌われるようなことしましたか?」

「振った相手には優しくしない主義なの。それより、そこ通してくれる?」


 これ以上話すつもりはないと、通せんぼしている彼女を押しのけようと手を伸ばすと、その手を掴まれ、そのまま抱きしめられた。いや、体格的には抱きついてきたと言う方が正確か。

 やめて、と不愉快な体温を引き剥がそうとするも、なかなか離れない。離して、嫌です、の押し問答を何度か繰り返した後、いよいよ切羽詰まった葵は掴んでいた腕も離して、両手を腰に回してしがみついてきた。こうなったら、もう簡単には逃げられない。

 観念して抵抗を止めると、少し息を荒げた葵がひとつ息を吐いた。


「あっつぅ……」

「誰のせいよ」

「先輩が逃げようとするからです」

「あなたがしつこいからでしょ! 逃げないからとりあえず離して、暑い!」


 ああ、もう。怒ったら余計に暑い!

 渋々と離れた彼女から距離を取り、パタパタと手で扇ぐ私を、葵はもの言いたげな表情でじっと見つめていた。


「何か言いたいことがあるならどうぞ」

「……どうしたら好きになってくれますか?」

「どうしたって好きにはならないわよ。前にも言ったけど、他に好きな人がいるの」

「その人に振られたら、少しは私を見てくれますか?」


 はっはっは、主人公だからって何言っても許されると思うな! 縁起でもない!!

 こはるが、葵は空気を読むのがうまいって言ってたけど、一体どこが? この子、地雷ばっかり踏んできますけど!


「今の質問で更に嫌いになったわ。誰に何回振られようと、絶対にあなたのことは好きにならない」

「えぇーっ!」


 いや、なんで予想外みたいな顔してるの。当たり前でしょ。

 大体、なんで私を好きになってるのやら。紗良はきちんと出会ってないから当然として、もっとこはるを意識してよ。メインヒロインなんだから。

 ──あれ? そういえば本当になんでだろう。私、この子に好かれるようなこと、何ひとつしてないはずなのに。そんなに見た目が好みだった? それともゲーム世界の強制力? うーん、わからない。

 悔しそうに「なんでー!?」と言っている葵をぼんやり眺めて思案していたが、そんなものは次の言葉で吹っ飛んだ。


「あーあ、せっかく紗良ちゃんにもアドバイスしてもらったのに、全然ダメかぁ~」


…………え?


「今、紗良って……?」


 自然と体が震えた。

 聞き間違いであってくれ、もしくは同じ名前の別人であってくれという願いも虚しく、当然のような口調で「藤岡紗良ちゃんのことですよ」と葵が答えた。ご丁寧に「先輩、一緒に通学してますよね」とまで言い足して。


 なんで、葵が紗良にアドバイスを貰ってるの?

 なんで、二人が私の知らないところでそんな話をしてるの? いつから知り合いだったの? そんな話をするほど仲が良いの? どんなアドバイスだったの?


 様々な疑問が頭の中を駆け巡り、血の気が引いていく。

 聞きたいことは山ほどあるが、重要事項はひとつ。紗良と葵が繋がってしまったことだ。

 二人がこのまま仲良くなれば、『紗良ルート』の可能性が出てきてしまう。百億歩くらい譲って、ハッピーエンドのルートならまだいい。でも、もしバッドエンドなら、紗良は……!


「この間、画材を買いに行った帰りに偶然会ったんです。紗良ちゃん、すごく良い子ですね」

「そ、そうね……」


 どうやら仲良くなってから、そんなに日は経っていないらしい。

 それにしても、紗良はなんでそのことを私に黙っていたんだろう。葵からの告白については知っているわけだし、昨日もその話をしてニセの彼女になるとまで言っていたのに。言ってることとやってることが矛盾していて、紗良の考えが全然わからない。

 唯一わかるのは、葵にアドバイスしていたくらいだし、私のことは恋愛対象として見ていないということだ。……うん、知ってた。知ってたけど、こうして突きつけられるとショックは大きい。昨日、ちょっと期待してしまった分、尚更に。

 もしかして、本当にもしかしてだけど、紗良はすでに葵に惹かれてるのだろうか。

 だから、昨日も葵からの告白や私の返事を気にしていたのかも。好きな人が告白したと聞けば、詳しく知りたくもなるだろう。

 ニセの恋人についてはよくわからないけど、私と紗良が付き合うふりをすることで、葵の恋の成就を阻止したかった、とか?

 いやいや、まさか。紗良はそんなことを考える子じゃない。


「紗良ちゃん、ほんとに美人ですよね!」

「そうね」

「あ、先輩も綺麗です。私は先輩の顔の方が好きです!」

「ありがとう、どうでもいい」

「ひどっ!」


 いや、悪いけど本当に心底どうでもいいの。

 あまりのことにまだ考えがぐちゃぐちゃだけど、やれることは限られている。今はとにかく、どうにかして葵と紗良を引き離さないといけない。あと、葵の言ってることがどこまで本当なのか、紗良に直接確認しないと。

 あまり気は進まないけど、場合によっては二人の仲を邪魔する必要もある。


「紗良ちゃん、私の中学時代の友達と仲がいいみたいなんです。せっかくお近づきになれたんだし、今度遊びに誘いたいなって思ってて」

「やめて」

「えっ?」


 葵がキョトンとした顔で聞き返す。

 しまったな。声を荒げたりはしなかったけど、少しキツめの口調になってしまったのかもしれない。そもそも、ただの友達である私が紗良の交友関係に口を出すのがおかしい。

 しかし、放っておくわけにはいかないのだ。

 葵が私に矢印を向けているうちは『紗良ルート』に進まないと思うけど、それも時間の問題だろう。あんなに可愛い紗良と仲良くなれば、いつまでも靡かない私から進路変更したっておかしくない。むしろ、それが普通だ。


「どうしてダメなんですか?」

「それは……」


 『紗良ルート』になると、紗良の命の危険があるから──なんて言えるわけない。


「仲のいい子と振った相手が仲良くなるなんて、イヤに決まってるでしょ」

「それ、今考えましたよね」

「そんなことないわよ」


 こういうところで空気読まなくていいから!!

 不満げにじっと見つめてくる葵に、気持ちを見透かされているようで落ち着かないけど、ここで負けるわけにはいかない。なんとしてでも押し通す!


「もしかしてですけど、先輩の好きな人って紗良ちゃんですか?」

「違うわ」

「って言うに決まってますよね。まあ、どっちでもいいです。紗良ちゃんを誘うのに、先輩の許可はいらないですから」

「……っ」


 確かにその通りなんだけど、その強気な表情が理解できない。そんなことをしたところで、葵に何のメリットがあるというのか。


「先輩、私と紗良ちゃんが仲良くなってほしくないんですよね?」

「……ええ、そうね」

「わかりました」


 大きく頷いた葵が、満足げな笑みを浮かべる。

 そして、言った。


「先輩がデートしてくれたら、紗良ちゃんを誘うのはやめます」


 ……そうきたか。

 この子、こんな方法でデート出来たとして嬉しいのだろうか。

 あまりの強引さに腹が立つけれど、思い返せばゲームでの葵にもそんなところはあった。『こはるルート』や『詩織ルート』ではそうでもなかったが、『紗良ルート』の初期──まだ、紗良が心を開いていない時は、何かと強引に付き纏うシーンが多い。

 葵目線でポップに描かれていたからスルーしていが、校門前で待ち伏せたり、行かないと断られたデートで「来るまで待ってる」と言ったりと、現実的な目線で見るとなかなか迷惑だ。

 だからこそ、これを断ったら手段を選ばず紗良をデートに誘いそうな怖さがある。そこから発展して『紗良ルート』に入るなんてことになれば、もう私の手には負えない。

 もおおおおっ! 紗良を巻き込むんじゃなくて、私にも「来るまで待ってる」と言ってくれれば、お望み通り待ちぼうけにしてやったのに!!


「……あなた、最低ね」

「何とでも。どうしますか? シンキングタイムは30秒です」

「ほんっと、最低!」


 悪態をついて睨む私を、「はいはい、最低ですね。あと20秒です」と笑顔でかわすこの後輩が、心底憎らしい。今すぐバリカンで坊主頭にして、屋上から宙吊りにしてやりたいくらいには思ってる。

 でも、もう私だって気づいてはいるんだ。

 たとえ紗良が葵に好意を持っていたとしても、葵が紗良に近づいたとしても、私だけが出来る『紗良ルート』を防ぐ唯一確実な方法に。


 ──そう、『詩織ルート』だ。

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