87・【番外編】紗良視点⑯

 夏休みに入ってからずっと、詩織さんの唇を意識していた。

 艶やかなそれに触れてみたくて。こっそりつついてみたら想像以上の触り心地で。口づけたらどんな感じだろう、詩織さんはどんな顔をするだろう、と。気がつけば、そんなことばかりを考えるようになっていた。

 そして今、事故とはいえキスしてしまった。

 すごい、あんな一瞬だったのにプルンってしてた。プリンみたいとかマシュマロみたいとか、そんなものに例えることも出来ない。指でつつくのと、唇が触れる感覚も全然違う。

 出来ることなら今すぐもう一度口づけて、もっとしっかりと確認したいくらいだ。


 しかし、残念ながらそういうわけにもいかない。

 私の腕の中で呆然としていた詩織さんは、震える手でそっと私を押し退けてよろよろと後退し、青ざめた顔で扉にもたれかかった。

 多分、何が起こったのかを頭の中で整理しているのだろう。目を見開いたまま口元に手を当て、じっと動かなくなってしまった。


「あの……詩織さん?」


 その反応、結構傷つくんですけど。

 私の呼びかけにピクリと肩を震わせた詩織さんが、ゆっくりと顔を上げる。やっと目が合ったとほっとしたのも束の間、次の瞬間、くしゃりと顔が歪んだと思ったら、瞳から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。


「えっ、ちょっと!?」


 そんなに泣くほど嫌だった!? 申し訳なさ半分、悲しさ半分でオロオロする私の前で、詩織さんが泣きながらしゃがみ込む。

 両手で押さえた口元からこぼれる嗚咽に、自分は取り返しのつかないことをしたのだと、ようやく理解した。


「詩織さん……」


 ちゃんと謝ろうと詩織さんの前にしゃがんだら、潤んだ瞳が私を見つめた。


「……ごめん、紗良」


 謝罪の言葉と一緒に、また涙がこぼれた。


「ごめんなさ……っ、ファーストキスっ……のに、ごめっ……」


 ああ、そうだよね。詩織さんってこういう人だった。

 自分だってファーストキスだっただろうに、私に申し訳ないとか、私がショックを受けてるんじゃないかとか、そういう気持ちが先に出てきちゃうんだね。うん、そうだった。

 バカだなぁ。傷つくどころか、喜んじゃってたのに、私。


「大丈夫だよ。大丈夫だから泣かないで、詩織さん」

「っでも、私がふざけたから……」

「ううん、先に始めたのは私だよ」


 ぶんぶんと顔を横に振って、詩織さんは自分が悪いと言うけれど、どうすれば納得してくれるだろう。

 そうしてる間にも、先程よりは少しマシになったとはいえ、詩織さんの目尻からはポロポロと涙が零れては頬を濡らしている。それを親指の腹でそっと拭うと、「くぅ……」と生まれたての子犬みたいなか弱さで唸って、また降水量が増した。あああ、せっかく落ち着いてきてたのに!


「ごめ……わたし、が……泣くの、おかしいわね」

「ううん、おかしくないよ。でも、泣く必要なんてないよ」


 詩織さんが、しゃくり上げながら再度謝る。

 どうすれば泣き止んでくれるのかな。昨日読んだ少女漫画で、号泣する女の子を泣き止ませるためにキスするシーンがあったが、さすがにあれを真似するわけにはいかない。私に出来ることなんて、せいぜい涙を拭うくらいだ。


 それから数分間、涙を拭ったり頭を撫でたりして慰めていると、ようやく詩織さんも落ち着いてきたらしく、もう大丈夫だと恥ずかしそうに笑い、こう言った。


「紗良、さっきのは事故だから。当たっただけだから。ノーカンだから、ね?」

「……あ」

「だから……気にせず、忘れてね」

「いやだよ!」


 咄嗟に出た大声に、詩織さんの肩が大きく跳ねた。自分でもびっくりしたけど、嘘偽りない本音だ。さっきのキスを忘れるなんて出来ないし、詩織さんにも忘れてほしくない。絶対にいやだ。

 散々迷ったけど、もう覚悟を決めるしかない。私は意を決して詩織さんの手を取り、ぎゅっと握った。


「私は……っ」


 声がかすれた。

 ごくりと唾を飲み込んで、もう一度。


「私は詩織さんのこと好きだからっ、その……ファーストキスの相手が詩織さんなら嬉しいよ!」


 ──言った!!

 やっと言えた。好きだって、ちゃんと。

 言い終わった今になって、心臓が早すぎて今にも破裂しそうだし、握った手の汗が気になってきたけど、そんなのは些細なことだ。私は告白したんだ!

 どうだ! と、達成感とやけっぱちが混ざり合った気持ちで勢いよく顔を上げ、詩織さんの表情を確認すると、キョトンとした顔で固まっていた。

 え、ちょっと待って。予想してたのと違う!

 もっとこう、いつもみたいに赤くなって狼狽えるとか、喜ぶなり嫌がるなり、もう少し何かあってもいいんじゃない? これ、私もどうすればいいのかわかんないよ!


「あの~?」


 私、告白したんですけど、何かお返事のようなものはいただけないでしょうか? という気持ちを込めて呼びかけてみたら、「あ、はいっ」と我に返ったらしい詩織さんが返事をしてくれた。


「えっと、ごめんなさい。フリーズしてた」

「ううん、全然!」

「ちょっとビックリしちゃって……」

「あ、うん」


 そうだよね、ビックリするよね。

 詩織さんはまだなんとなくフワフワしてるけど、悪い反応ではなさそうだ。少なくとも、嫌悪感は感じなかった。

 出来れば良い返事が欲しい。実は私も好きでした的なやつ。両思いだった場合のシミュレーションは出来てるから、さあ来い!

 玄関にしゃがみ込んだまま拳を握りしめ、じっと返事を待っていると、「あのね」と詩織さんが私に呼びかけた。


「あの……ありがとう。ちょっと照れるけど、好きでいてもらえて嬉しい」


 頬を染め、はにかんだ彼女のモジモジとした様子に、期待と喜びが私の胸に広がる。

 嬉しいって! これはもう告白成功なのでは!? 両思いってことだよね!?


「詩織さん、じゃあ……」

「うん。紗良さえ良ければ、ファーストキスは私ってことにしといて」

「……うん?」


 いや、それも大事なんだけど、そうじゃなくてね? ……あれ?


「言葉にすると、なんだかすごく恥ずかしいわね。でも、そんなに好きでいてくれてたなんて、友達冥利に尽きるわ」

「えっ、ともっ!?」


 だめだ、この人。ちゃんと伝わってない! 友達冥利って何!? どこの誰が、友達をファーストキスの相手にしたがるっていうの!?

 もう一度、ちゃんと伝えないと。友達としても好きだけど、恋愛として好きだって。恋人になりたいって!


「じゃあ、そろそろ帰るわね」

「あ……」


 立ち上がる詩織さんにつられ、私も立ち上がる。

 だめ、帰らないで。だって、まだ……


「またね、紗良」


 そう言って笑顔で手を振り、扉から出て行く彼女に対して、何も言えないまま手を振り返すしか出来なかった。

 パタンとゆっくり閉じた扉を見つめ、呆然と立ち尽くしていたら、息せき切って戻ってきた詩織さんが扉から顔を覗かせる──なんてことはなく、玄関はしんと静まりかえっていた。


「なんで……?」


 ぽたりと、涙が床に落ちた。

 一度決壊してしまえば、もう堪えるのは難しい。流れるままに床を濡らしていくそれを眺めていると、喉から自然と嗚咽が漏れた。


「っふ……、なんで? 私、好きだって、言ったのに……告白、したのに!!」


 伝わらなかった? それとも、かわされた?

 あそこまではっきり言って、わからないわけがない。私、明確な返事を避けられたんだ。さっきだって、帰り際はまるで逃げるように出て行ってしまった。

 つまり、私の精一杯の気持ちは受け取ってもらえなかったってことだ。あんなに勇気を出してはっきりと伝えたのに、きちんと正面から受け止めてもらうこともなく、友愛として扱われてしまった。


「うぇっ……う、わあぁぁぁっ……!」


 告白なんかするんじゃなかった。

 こんな中途半端な状態にされるくらいなら、いっそ島本さんみたいにキッパリと振られた方が、まだ気持ちの整理はついたかもしれないのに。引導すら渡してくれないなんて、そんなのあんまりだ。

 それなのに、こんなことになったっていうのに、もしかしたらっていう想いが捨てられない。

 迷惑かもしれないし、諦めた方がきっと楽だろう。それでも──


「やっぱり、好きだよ……」


 小さな告白を、今度は誰も聞いていない。

 詩織さんはしつこく想われるのは怖いって言ったけど、そんな簡単に手放せるような気持ちじゃない。優しい笑顔も、落ち着いた口調も、涙もろいところも、その全部がどうしたって好きだ。すぐに忘れることなんて出来るわけない。

 だから、まだしばらくは好きなままでいさせてほしい。迷惑はかけないから。困らせないから。

 そう決めたら気持ちは軽くなったけれど、やっぱり胸は痛くて。

 私はその後も少しだけ泣いた。

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