76・【番外編】紗良視点⑤

 朝、目が覚めてすぐに「おはよう」と言える相手がいるのは幸せなことだ。一人暮らしをするようになって初めて知ったそのことを、詩織さんの家に泊まりに来て改めて実感した。

 目覚ましのアラームで目を覚ました時、すぐそばでモゾモゾと芋虫みたいに動き、全身でまだ起きたくないと主張している詩織さんは面白かったけど、ようやく薄く目を開けて寝起きのかすれた声で「おはよう」と言われた時、まだ帰りたくないと思ってしまった。

 お泊まりは今日で最後なのに。


 急遽午後から友田先輩に会うことになり帰り支度を済ませた私は、詩織さんと並んで待ち合わせの公園へと向かった。その道中、陽子さんについて聞いてみたら、詩織さんは難しい顔で少し考えてから「教育上よろしくない人、かしら」と言った。

 私としては恩人の一人だと思っていたのに、この反応は予想外だ。思わず聞き返した私に、言葉を選ぶようにして詩織さんが説明を続ける。


「基本的にはいい人と言ってもいいんだけど、口を開けば下ネタばかりだし、隙あらば私の胸を触らせてって言ってくるし、歩く18禁って感じ」

「へ、へぇ……」


 言葉を選んでくれても、あまり改善はされなかった。むしろ、詩織さんの胸を狙っているという時点で悪化したし、文句なしの有罪だ。

 詩織さんと友田先輩の友達なら、きっと悪い人ではないだろうけど。


「私の顔が好みだーって入学式の日に声かけてきて、それからなんだかんだで一緒にいるわね。友達っていうより、悪友って言った方がしっくりくるかも」

「そ、そうなんだ。あっ、詩織さんの顔、私も好きだよ」

「ありがとう、私も紗良の顔好きよ」


 顔だけ? と聞きたかったけど、その勇気はなかった。いっそ冗談めかして聞けたら良かったけど、一昨日の夜の件で変に意識してしまって口にすることが出来ない。

 詩織さんは私のことをどう思ってるの? あれ以来、そればかりを考えている。もし好きだって言われても、それに対する答えを持ち合わせていないのに。


 友田先輩と陽子さんと合流し、はじめまして同士の挨拶の後、ゆっくり話せそうな場所に行こうと詩織さんと友田先輩と三人並んで歩いていたけど、よく考えたらこの組み合わせってどうなんだろう。

 私に告白した友田先輩と、私を好きかもしれない詩織さん。そして私。

 なんで陽子さんは後ろを歩いてるんだろうと振り向いたら、しっかり目が合った彼女にニカッと眩しい笑顔を向けられた。うーん、悪い人ではなさそうだけど、何を考えているのかよくわからない。嫌いってわけじゃないけど、ちょっと苦手なタイプかも。


「私たちはあっちのベンチにいるから、終わったら声かけてね」


 人気の少ない松林のエリアに来て、私と友田先輩、詩織さんと陽子さんの二組に別れた。適度に離れた木陰のベンチに並んで座ったけど、いざ話すとなると緊張する。

 それは友田先輩も同じだったようで、相手の出方を伺うような変な沈黙が流れた。


「あはは、話したいことはいっぱいあるんだけど、どう話し始めていいか迷うね」

「……はい」


 私も同じだ。伝えたいことはいっぱいあるのに、どう言えばいいのかがわからない。今までのことも、これからのことも。

 困り顔で笑う友田先輩を見て、やっぱり好きだと思った。もちろん、恋じゃなくて人として。

 恋愛対象として、この人を好きになれたら良かったのに。そうすればきっと、こんな形で顔を曇らせることもなく、良好な関係のままでいられた。半分が優しさで出来ていそうなこの人なら、きっと私のことを大事にしてくれただろう。


 ──でも、違う。

 恋がどんなものなのかはわからなくても、この気持ちが恋じゃないことだけは、何故だかわかった。


「この間はごめんね。紗良ちゃんが困るのわかってたのに、告白なんかして」

「いえ、私の方こそ……!」

「紗良ちゃんは何も悪くないよ。今日はちゃんと話す機会をくれてありがとう」

「……はい」


 それからは、あの日の話をしてくれた。いや、それ以前から今日までの話だ。

 出会ってすぐ、私を好きになったこと。言わないつもりだったけど、日に日に大きくなる気持ちを抑えきれなくなったこと。告白の後、ものすごく後悔したこと。


「ごめん、告白したこと自体はあんまり後悔してないんだ。でも、もう少し言い方とかタイミングとか、アフターフォローは考えた方が良かったなって」

「友田先輩の方が辛いんだから、そんなの気にしないで下さい。今日、こうして来てもらえただけで十分です」

「そう言ってもらえると救われるよ」


 肩の荷が降りたとばかりに、ふぅと息を吐いて友田先輩がベンチにもたれる。「これでも緊張してたんだから」と苦笑いを浮かべる彼女には、告白の前と同じようなゆるい空気が戻っていた。

 これは、期待してもいいのだろうか。無理かもしれないと思ったけど、また元の関係みたいに笑い合えるようになれるのかな。


「友田先輩、今度は私の話も聞いてもらえますか?」


 何をどう伝えたらいいかなんてわからないから、とにかく思いつくままに自分の気持ちをこれでもかと口にした。

 辛かった日々、友田先輩に声をかけてもらえて嬉しかったこと。救われていたこと。心から感謝していること。

 告白されて戸惑ったけど、決して嫌じゃなかったこと。人として大好きなこと。でも、この『好き』は恋の『好き』ではないこと。

 可能であれば、また仲の良い先輩と後輩になりたいこと。


「こんなことを言うのは、もしかしたら先輩を傷つけてるかもしれないし、今も傷口を抉ってるかもしれませんけど……」


 ──失いたくない。

 恋人にはなれなくても、友田先輩は大事な人だ。簡単には諦められない。

 あの日、高校生活を諦めかけた私に、詩織さんは足掻けと言った。半信半疑で足掻いてみたら、欲しかったものが本当に手に入ってしまった。

 だから今度も精一杯足掻いて、ちゃんと手を伸ばして、繋ぎ止めたい。どうしてもダメだったなら、また詩織さんに慰めてもらおう。


「……前と同じってのは、すぐには難しいなぁ」

「そうですよね」

「まだ好きだよ、紗良ちゃんのこと」

「……はい」


 だめか、と俯いて目を伏せる。酷いことを言っている自覚はあったし、断られるのは覚悟はしていたけど、思っていた以上に辛い。

 二学期からは廊下で友田先輩と会っても、以前のように話しかけたりもできないのかと思うと、じわりと涙が浮かんだ。


「私は単純だから、好きな子のお願いは聞いてあげたくなっちゃうんだよね」

「……え?」


 顔を上げると、仕方ないなぁと微笑む先輩に、わしゃわしゃと頭を撫でられた。久しぶりだ、この感じ。最近は、ハグも頭を撫でるのもされていなかったから。


「私も気まずいのは嫌だしさ。完全に今まで通りとはいかないけど、いいよ。これからも仲良くやっていこう」

「っ……、ありがとうございます!」


 やった! やった!!

 友田先輩の優しさに甘える形にはなってるけど、気まずいままのお別れはせずに済んだ! 嬉しい!!

 やったよ! という気持ちを伝えたくて、詩織さん達が座っているベンチの方を見ると、気づいてくれた詩織さんがニコニコと手を振ってくれた。うん、多分何も伝わってないけど、まあいいや。

 私からも手を振りかえしていると、「こーらー」と隣から伸びてきた手が、こめかみにペシンとデコピンをしてきた。


「早速見せつけないで、ちょっとは気を遣ってよー。私、フラれたてだよ?」

「見せつけって、別にそんなんじゃ……あ、先輩。もしかして私が詩織さんに恋してると思ってますか?」

「うーん、もしかしたらとは思ってる」


 やっぱり。友田先輩から見ても、私ってそんなに詩織さんに恋してそうな感じなのか。

 確かに好きだけど。今も仲良さそうに話してる陽子さんに、ちょっとヤキモチ妬くくらいには好きだけど。自分でも、友達の『好き』としては重い自覚あるけど。


「今日、詩織さんと一緒にいる紗良ちゃんを見て、更に強まったよね」

「ええー、違うのに……」


 言いながらも、本当に違うのだろうかという気持ちが頭の片隅をよぎる。少し前までははっきり違うと思えたのに、この数日で少し自信がなくなってきていた。

 きっかけは多分、詩織さんが私を好きかもしれないって思ったせいだけど、問題は私がそれに対する答えを出せないことだ。もし好きだって言われても──恋じゃないなら、友田先輩の時みたいに断ればいい。

 わかっているのに、昨日の夜からずっと、想像の中の私はそうすることを躊躇っている。

 詩織さんへの気持ちは恋じゃないはずだ。

 でも、じゃあ、何なんだろう。


「ま、紗良ちゃんが違うって言うなら違うんでしょ。……相手が私じゃないのは残念だけど、いつかいい恋が出来るのを祈ってるよ」

「ありがとうございます」


 先輩も良い出会いを、と心の中で付け加える。


「それにしても、紗良ちゃんや陽子から聞いてた通り、詩織さんって大人っぽい美人さんだねー」


 口調も話題もガラリと変えて、友田先輩が言った。その視線の先には、仲良さそうに話している詩織さんと陽子さん。

 なんだか、私といる時よりも楽しそうに見えて、ちょっとムッとしてしまう。いやいや、ダメだダメだ。こんなだから、みんなに恋なんじゃないかって言われるんだ。


「さっき少し話した感じ、見た目よりフランクでノリの良い性格みたいだし、私も仲良くなりたいなー」

「え?」

「紗良ちゃんにはフラれたし、次の恋を探すのもいいかもね。詩織さんって、付き合ってる人いないんだっけ?」

「いない、ですけど……」


 ちょっと待って。それってつまり……でも、私にそれを止める権利はないし、もしも詩織さんが友田先輩を好きになったら祝福するべきなんだけど。どうしよう、すごくイヤだ。

 さっき、先輩にも良い出会いがあればいいと思ったけど、相手が詩織さんの可能性は考えていなかった。まさか本気じゃないですよね? と友田先輩の顔を窺っても、「ん?」と黒目がちな大きな目をクリクリさせて微笑まれるだけで、何も読み取れない。


「……この間も言いましたけど、私、詩織さんに恋人できてほしくないみたいです」


 今日、もうひとつわかったこと。詩織さんの友達にまで嫉妬するくらい心が狭いんだ、私。

 今まで、詩織さんの口から陽子さんや他の人の名前が出ることはあっても直接見ることはなく、私と詩織さんの二人の間で完結していたから気づかずにいられた本音。

 私だけの詩織さんでいてほしい。

 自覚してしまった強すぎる独占欲に、自分で自分にドン引きする。でも、残念ながらそれが私の本心だ。恋人を作ってほしくないなんていう考えすら可愛く感じてしまうくらいの、あまりにも重すぎる気持ち。こんなの、誰にも知られるわけにはいかない。


「ほらぁ。そんな反応するから、好きなんじゃないかって思うんだよ」

「もう、また……自分でも上手く説明出来ないけど、友情以上恋愛以下って感じなんです。あ、でもこの言い方って恋愛の方が友情より上みたい。恋愛以上友情以下? それもなんか違う……」


 どうにか適切に伝えられないかと、頭の中の引き出しをひっくり返して言葉を探すけれど、いかんせん見つからない。私の語彙力、残念すぎる……。

 私がウンウン唸って考えている横で、おかしくて堪らないといった感じの友田先輩が、口元を押さえて吹き出し、堪えきれずに笑い声を上げた。


「あははっ、いいんじゃない? それ、適切だしすごく欲張りで」

「え?」

「友情以上恋愛以下。友情も恋愛も含んでるわけだ?」

「……あっ!?」


 なんという初歩的ミス。等号不等号なんて、中一で習う基礎中の基礎なのに。日常会話の中とはいえ、これを間違って使うようじゃ私の語彙力も学力もお察しだ。

 しかし、今問題なのはそこではなくて、友田先輩の誤解だ。実際は誤解じゃなくて、からかってるだけなんだろうけど。


「先輩、私が言いたいことわかってるくせに」

「もちろん。友情とか恋愛とか名前をつけなくても、紗良ちゃんの一番は詩織さんってことでしょ?」


 顔は笑っているくせに、目だけはひたりとこちらを見据え、嘘はごまかしは許してくれない。元々、そんなつもりもないけれど。

 はい、と頷く私に、よしよしとさっきよりも優しく頭を撫でられる。


「……恋愛はよくわかりません」

「そうみたいだね」

「あまり良い印象もありません」

「だよね」

「あと、怖いです」

「知ってる」


 簡潔な相槌が心地いい。

 他人の恋心に振り回されてきた私にとって、恋愛なんて碌なものじゃないし、不可解で面倒なトラブルの元だった。他人からの一方的な気持ちの押し付け。欲しくもないのに、丁寧に扱わなければ──丁寧に扱っても非難される理不尽の塊。貰うなら、ラブレターより不幸の手紙の方がマシだとすら思っていた。


「でも、友田先輩の気持ちは嬉しかったです。びっくりしたけど、告白されて初めてそう思いました。ありがとうございました」

「うん、こっちこそありがとう」


 きっといつか私も恋をする。自分が誰かに恋をするなんてまだ想像できないけど、この人が私に向けてくれたような優しい気持ちで、誰かを好きになってみたい。

 もう行こうかと、ベンチから立ち上がった先輩がデニムのお尻をパンパンと払う。振り向き、穏やかな眼差しで促す彼女に微笑み返し、私も立ち上がる。

 なんだか楽しそうに喋っている詩織さん達へと向かう足取りは、来る時よりもずっと軽くなっていた。

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