9・お宅訪問

 日曜日、案内されたのは最寄駅から徒歩7分ほどに建つ築浅なマンション。その六階の1LDKで紗良は暮らしていた。

 お邪魔します、と中に入れば、まず目に入ってきたのは小さめのダイニングテーブルと白いソファ。淡い水色のカーテンがかけられた大きめの窓から入ってくる日の光が、よく磨かれたフローリングの床に反射していた。

 ゲームで何度も見た背景が、現実のものとして目の前にある。奥に見える扉は、ゲームの設定通りなら寝室だろう。ベッドのほかに、本棚やノートパソコンが置かれているはずだ。


「いい部屋ね」

「ありがとう。まだ物は少ないんだけどね。あ、荷物は適当に置いて座ってて」


 お茶を入れるから、と紗良がキッチンに向かう。お言葉に甘えてソファの横に荷物を置き、持ってきた勉強道具や参考書を取り出した。

 基本的には紗良の学校の教科書で進めるつもりだが、内容や使い勝手によっては必要になるかもしれないと、わかりやすい参考書も自宅から持ってきたのだ。本当は、使い慣れた予備校の教材があれば一番良かったのだけど。


「おまたせ。紅茶でよかった?」


 コーヒーは苦手だから置いてないの、と紗良が小さく笑う。私も紅茶の方が好きだから、その方が嬉しいと伝えると、「良かった」と白いマグカップをテーブルに置いた。

 もしかしたら、私が先週パンケーキのお店でアイスティーを頼んだのを覚えていたのかもしれないとも思ったが、考えすぎだろうか。


「ありがとう、おかまいなく」

「砂糖とミルクいる?」

「ううん、ストレートで」


 紗良は砂糖だけを入れ、スプーンでくるくると混ぜた。底に溜まった砂糖がちゃんと溶けているのか確認しているのだろう。真剣な顔でマグカップを覗き込んでいる様子が、なんだか微笑ましい。


「一人暮らし、大変じゃない? 家事とか料理とか」


 ゲームで知る限り、料理はしっかりしていたようだが手間がかからないわけではない。慣れない学校生活に慣れない家事の負担まで加われば、結構なストレスだろう。それは一人暮らし経験者としてよく知っている。


「うん、大変。洗濯もトイレやお風呂の掃除も全部自分でやるようになって、お母さんに頼りきってたんだなーって反省したもん。料理も……そろそろコンビニは飽きてきた」

「えっ、自炊は?」

「一人暮らしに慣れたら勉強しようかなって……」


 ゲームでのイメージが強かったせいで、今はまだ一度も自炊をしていないとため息をつく彼女があまりにも予想外だった。

 なるほど、ゲームで料理を披露していたのは後半―― 時期的に秋か初冬くらいにはなっていたはずだから、料理を頑張った後の姿だったわけだ。

 放っておいても、自力で料理できるようになることはわかった。が、飽きるほどコンビニ弁当を食べていると聞いてしまうと、それはダメだろうという老婆心も湧く。


「紗良が良かったらだけど、簡単な料理なら教えようか?」


 私だって、決して料理上手というわけではない。ただ、百合活のために節約自炊生活をしていたため、安くて簡単に手早く出来る料理ばかりを追求していたので、一人暮らし初心者には向いていると思う。ちなみに、SNS映えしそうな凝った料理は一切作れない。


「詩織さん、すごい。料理も出来るんだ」

「待って、あんまり期待しないで。本当に簡単なものしか作れないから」

「むしろ簡単なものの方が助かるし!」


 紗良から向けられるキラキラした尊敬の眼差しに、言ったことを少し後悔した。いいのだろうか、こんな可愛い子に私のズボラ飯を伝授してしまって。もっと女子力高いレシピを教えてあげた方がいいのでは。アクアパッツァとかバーニャカウダとか、いい感じに横文字でオシャレなやつ! ピーマンよりパプリカを使う方の映え料理を!

 いや、多分私でもそれくらいは作れるけど、少なくとも一人暮らし時代の私の食卓にアボガドや芽キャベツが上がったことはない。

 やっぱりやめた方が……という言葉は、可愛い推しの期待の眼差しの前に儚く散った。


「……勉強終わったら、一緒に買い物行こうか」

「うん!」


 心の底から喜んでくれている紗良の笑顔に覚悟を決める。

 オシャレな料理は無理だけど、せめて美味しいものを食べてもらおう。



※ ※ ※ ※



 紗良の学力は、やはりかなり高めだった。自分では文系タイプだと言っているが、高校数学も自己申告よりはきちんと理解できているようだ。

 しかし、さすがは椿ヶ丘と言うべきか。一番最初の『数と式』の項目は、事前に配られていたプリントを予習していること前提で授業が進み、あっという間に終わったらしい。確かにあまり時間をかける必要のない項目ではあるが、出来ないままにすると即座につまずく部分でもあるので、紗良のように数学に苦手意識のある生徒はついていけるか不安になるだろう。


「数学って一見とっつきにくいけど、付き合ってみたら意外と普通の人だった、みたいな感じだと思うのよ」

「え、まさかの擬人化?」

「その方がイメージしやすいでしょう? 2次関数も、聞きなれない単語や公式がいきなり飛び出してきて身構えちゃう人が多いんだけど、書いてることを1つずつ確認していけば結構普通の内容なのよね」


 基本事項の一行目から『y=f(x)』なんて見慣れない公式を書かれたら、参考書をそっと閉じたくなっても仕方ない。私も当時は面食らったものだ。


「というわけで、まずは基本事項をきちんと理解してから進みましょう。これ、2次関数と仲良くなるために知っておいた方がいいプロフィールみたいなものだから」

「プロフィール……」

「誕生日、好きな食べ物、趣味って感じかしら。知ってたら仲良くなれそうでしょ?」

「2次関数の好きな食べ物……」


 もはや私の言葉を反復するだけになってる紗良に参考書を寄せて、最初のページをじっくりと読ませる。最初は眉間にしわを寄せて難しい顔をしていたが、教えていくうちにだんだんと「ほうほう」と言いたげな表情になっていくのがわかった。

 これが『思ったよりいい人ね』と思わせる第一歩だ。教える側がこうして先に苦手意識を取り除いてやらないと、生徒はずっと苦労することになる。


「……詩織さんの言ってたこと、ちょっとわかったかも」

「でしょう? 人間も数学も、まずは相互理解が大事なのよね」

「相互……?」


 やっぱりわからない、と微妙な顔をされてしまったが、いつかきっとわかってくれるだろう。そして、仲良くなれば数学は楽しいものだ。


「じゃ、次のページいきましょうか。45分頑張ったら休憩ね」

「はーい」


 生徒に教える感覚が久しぶりで懐かしくて、つい口元が緩む。素直な生徒は可愛いし、それが推しならもっと可愛い。

この日の授業は順調に進み、次週の授業の予習までしっかりと終えることができた。



※ ※ ※ ※



 散々何を作るか考えた結果、紗良のリクエストに任せようという結論に至った。謎の横文字料理じゃなければ作れるだろうし、作れなければ他のにすればいい。

 そうして紗良に何を作りたいかを聞いたところ、即答で「生姜焼き」と返ってきて、少し……いや、かなり意外だった。女子力の対極にあるリクエストが飛んできたものだ。助かるけど。


「唐揚げも好きなんだけど、唐揚げなら学食で食べれるから。生姜焼きは学食にないの、大好物なのに!」

「あー、なるほどね」

「炊きたての白いご飯とシャキシャキのキャベツと一緒に、甘辛いタレの生姜焼きが食べたくて食べたくて……!」


 あ、重症だ、これ。

 拒否する理由もないので、すぐ了承。一緒に近所のスーパーに買い出しに行き、材料を買ってきた。ちなみに、調味料だけは自炊するつもりのあった春休みに揃えていたものが冷蔵庫に揃っていた。未開封のままで。


「それじゃ、始めましょうか。まずはタレね。今回は醤油、酒、みりん、生姜チューブの四つ。みりん使わずに砂糖使ったり、玉ねぎのすり下ろしを入れたりすることもあるけど、私がみりんの甘みの方が好みだから今回はこれで」

「はい、先生!」


 気合の入った返事に、勉強している時にはなかった『先生』呼びが出てきた。どうやら、紗良にとっては勉強より料理を教える方が尊敬度が高いらしい。


「で、タレができたらしばらくお肉を漬けましょう。今回は細切れ肉にしたけど、ロースでもバラ肉でもお好みでどうぞ」

「はい!」

「で、漬けてる間に玉ねぎ切ったりキャベツを千切りにしたりするわね。……って、全然料理してなかったのに、なんで千切り用のスライサーがあるの?」


 まあ、便利だからいいけど。個人的には包丁できったザクザクの千切りより、スライサーを使った細い千切りの方が断然好きだ。紗良もシャキシャキのキャベツが食べたいと言っていたし、おそらくスライサー派だろう。


「よく見たら鍋やフライパンの種類も揃ってるし、実は紗良って形から入るタイプ?」

「……やる気が先走っただけだもん」

「ふふっ、そういうことにしておきましょうか。じゃあ千切りに出来たら氷水で5分くらい締めて、今度は玉ねぎ」

「はい!」


 私の返事にやや拗ねたような顔を見せたが、そんな表情すら可愛いから困る。先日の電車の中でも思ったけど、あまりにもいい反応をしてくれるものだから、ついからかいたくなってしまう。やりすぎて嫌われないようにしないと。


「さ、紗良、待って! 包丁の持ち方!!」


 玉ねぎを袋から取り出して包丁を構える紗良を眺めて愛でていたのだが、その構え方が問題だった。まるで剣道のような持ち方で包丁を構え、まな板の上の玉ねぎに正対していた。その佇まいは、まさに美人剣士。そして、敵は淡路島産の玉ねぎ。

 それで、紗良さん、そこからどうするつもりだったんですか? 聞くのも恐ろしいけど。


「包丁は、基本的に右手だけで……あ、ううん。一度見本を見せましょうか」

「……オネガイシマス」


 自分でも、何かがおかしいとは思っていたのだろう。素直に包丁を渡してくれて……というか手放してくれて、心の底から安堵した。

 中学の時の調理実習はどうしてたんだろうか。包丁を使わないお菓子作りだったのか、サラダ担当でレタスちぎってたか。後者だとしたら、誰かが気を回したんだろうな。

 ……玉ねぎ、本当は薄切りの方が美味しいけど、今回はくし切りにしておこう。安全のために。


「じゃあ、やってみて」

「はいっ!」


 見本を見せた後、緊張感みなぎる紗良が包丁を握る。先ほどのような武士感あふれる構えではなく、普通の持ち方でゆっくりと。左手はちゃんと猫の手だ。

 ――数分後、無事に玉ねぎもくし切りになったが、それはもうホラー映画よりも恐怖を感じる時間だった。これも慣れとはいえ、想像以上に不器用だ。包丁を持つ手が震えすぎて、いつ玉ねぎではなく手を切るかとハラハラさせられた。見守るだけなのがこんなに辛いなんて……無傷で切り終えたのはまさに奇跡!

 もう少しマシになるまで、絶対みじん切りはさせないでおこうと決めた。もしくは、フードプロセッサーを購入させようか。なくても問題はないが、あれば時短になるし料理の幅も広がるだろう。何より安全。安全って大事!

 どうにか切り終えた玉ねぎを先ほど漬けたお肉と一緒に炒めて、氷から引き上げておいたキャベツと一緒にお皿に盛り付ける。盛り付けだけは上手なものだから、こういうところが女の子だなぁと感心した。


「うわー、生姜焼き! 嬉しい!!」


 過程はアレだったが、生姜焼きの出来上がりはとても美味しそうだった。リクエスト通りの甘辛いタレがよく絡んだプリプリのお肉に、シャキシャキのキャベツ。何より、食欲をそそる香ばしい匂い。インスタントのお味噌汁とご飯も添えて完成だ。

 お皿の前で感激している紗良に、温かいうちに食べましょうと促す。

 念願の生姜焼きを一口食べ、うっとりと目を閉じた彼女が「美味しい……!」と一言。顔全体に喜色を浮かべてもぐもぐと咀嚼する姿は、最高に癒される。

 私も続いて食べたら、味もしっかり染みて上手に出来ていた。前世で何度も作ったレシピだが、推しの手料理だと思うとありがたさも増してずっと美味しく感じる。


「やっぱり自炊頑張ろう。詩織さん、また教えてくれる?」

「ええ、私で良ければいくらでも。数学と一緒に料理も勉強しましょう」

「ありがとう!」


 ああ、可愛い。守りたい、この笑顔。


「今日教えたことで、聞いておきたいことはある? 数学でも料理でも」


 尋ねると、首を小さく傾げて「うーん」と考えた後、「あ、あるある!」と箸を置き、言った。


「詩織さんの誕生日は? あと、好きな食べ物と趣味も!」


 まだ聞いてなかったよね、と紗良が笑う。

 誕生日、好きな食べ物、趣味。――知っていたら仲良くなれそうなプロフィール。

 まるでもっと仲良くなりたいと言われたみたいで、キュンと胸が鳴った。


「12月5日よ。好きな食べ物はおでん。趣味は……読書かな」


 百合作品の、と心の中で付け加える。嘘はついていない。記憶が戻る前だって、まったく本を読んでいなかったわけではないし。


「紗良は?」

「えっ、私?」

「ええ、――相互理解が大事だもの」


 好きな食べ物はもう教えてもらったけどね、と生姜焼きを指さすと、パァッと花が咲いたような満面の笑みが返ってきた。

 どちらかといえば人間関係は淡白なタイプの私だが、たまにはこういうのも悪くない。彼女のことをもっと知りたいのも、もっと仲良くなりたいのも、私の本当の気持ちなのだから。

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