本編
第7話 十六歳①
十六歳、秋。分厚く積もった落ち葉の上で、俺は容赦なく寝技を掛けた。同い年だが俺の足より小さなそれを払い、細い首に太ももを回し、苦しくはないが抜け出せもしない力加減で締める。パシ、パシ、とグローブ越しの手の平が俺のすねを軽く叩いた。
「ギブです」
「はい。お疲れ様」
その頭をそっと地面に下ろすと、ユーリルは腹筋だけでそつなく立ち上がった。ぎっちりと夜会巻きにした茶髪はやや乱れ、息も上がっている。今は体に隙間無く寄り添う長袖長ズボンを着用しているので、すらりと伸びた手足と腰回りから、その冷涼な面差しに似合わず厳しい鍛錬を積んできたことが窺える。今は俺のほうが強いが、うかうかしている間に追い抜かされるだろう。
ユーリルは、ちょうど四年前にギアシュヴィール公爵家に雇用された侍女だ。ライシャ様の専属であり、役目は俺と同じで身の回りの世話と護衛。特筆すべきはその生まれだろう。ユーリルの身元は、暗殺を家業とする一家の末娘だ。なんでも、兄弟間での日常的な殺し合いが嫌になって家出したらしい。俺が暗殺業から足を洗って公爵家に飼われているのはこの界隈では常識だったようで、ライシャ様の侍女の募集に我こそはと名乗り出てきた。旦那様は清濁併せ呑む人だから、坊ちゃまの侍従である俺との相性も鑑みて採用したそうだ。もちろん、ユーリルの生まれは侍女長などを除いて秘匿されている。表向きは、ギアシュヴィール公爵の遠縁の娘という体だ。
毎日の早朝、俺とユーリルは裏庭で稽古を行っている。元来俺が一人でしていたところにユーリルが通りかかり、どうせなら組み手でも、の考えを経て、いつの間にか模擬戦もメニューに加わったという経緯だ。俺もユーリルも良く言えば効率主義、悪く言えば熱意を持たないので、負けたからと言って稽古時間を延長させはしない。
「先輩、オルバート様の部屋に行く前に、旦那様のところに寄ってください。話があるらしいです」
「え……。そういうことは先に言ってよ」
「間に合わないですか?」
「いや、間に合うけど……心の準備と言うか」
「はぁ」
理解できない、という風体でユーリルは首をかしげた。そのラベンダー色の双眸は相変わらず凪いでいる。その達観した価値観は俺も好むところだが、たまにこうして突き抜けるのは困りものだ。実家でそういう教育を受けてきたのかもしれないが、何事をもビジネスとして捉えている。感情は理性で制御できると考えているタイプだろう。今は優秀な侍女であるものの、いつかたがが外れたときが怖い。越えられたくない一線がどこにあるのか、ユーリル自身も把握できていないように見える。
廊下で他の使用人とすれ違っても、以前ほどは批判的な視線を向けられなくなった。四年前にライシャ様を救出して以来、オルバート様の母君の死を知る人々の固定観念が解消されている。これはユーリルから聞いた話だが、ライシャ様は侍女の選定に俺を差別しないという基準を設けてくれたそうだ。オルバート様から俺の過去を聞いても、ライシャ様は俺を忌み嫌わなかった。むしろ、父親を殺してまでオルバート様を助けたのだと買いかぶった。なんだか、ライシャ様にとっての俺は必要以上に美化されている気がする。死に際を救ったという事実があるので不可抗力かもしれないが、できれば最低限の危機感は持っていてほしい。元暗殺者であるユーリルを専属にしたのも、思いきったな、と俺は頬が引きつるのを隠せなかった。
ユーリルと別れ、自室で汗を拭い制服を手に取る。シャワーを浴びたいところだが、使用人は余程汚れている場合でなければ日中の使用が禁止されているので仕方無い。二年前より大きいサイズの、オルバート様の虹彩と同じ色のお仕着せを身にまとった。一年ほど前には声変わりが終わり、いくらか大人に近づいた気分だ。大きくなりましたね、と侍従長から言われたときは、まるで久し振りに親の愛情を感じた錯覚に陥り泣きそうになった。どうにも、最近の俺は周囲に愛着を感じてしまっている。オルバート様の側を離れる日は刻一刻と近づいているのだから、未練は抱かないようにしなくてはいけない。
旦那様の私室の前で一つ息を吐き、強ばる拳でドアをノックした。
「リュードです。旦那様に呼ばれて参りました」
「入ってくれ」
室内には、旦那様、侍従長、側付きの合計三人がいた。旦那様はソファーにどっしりと腰を据えている。俺が緊張を隠せない動作でその眼前に歩み出ると、オルバート様とよく似た顔は優雅に微笑んだ。
「ユーリルとはどうだ?」
「問題ございません。……落ち着いていて、接しやすいです」
「そうか」
一言ではいけないだろうと分かりつつ、どう言えばいいのか迷った結果、俺が絞り出したのは十歳児の感想だった。侍従長の目つきが鋭くなったので、恐らくこの後叱られるだろう。しかし考えてみてほしい、俺はこれまで他人とまともな日常会話をしたことがない。オルバート様を称える美辞麗句はいくらでも出てくるが、日常の問題無いことを詳細に表現しろと言われても、問題無いものは問題無いのだ、それ以上の言葉の必要性が理解できない。
「ユーリルからは何か聞いたか?」
「……?いえ、特には」
何の話かピンと来ず、俺は曖昧な返答をした。すると、旦那様はテーブルに伏せられていた一枚の紙を俺に手渡した。読めということだろう。恭しく受け取り、表を上に向ける。重要書類なのだろう、厚紙くらいの硬さを持つそれには、受験許可証、と記されていた。はて、と思考が一瞬白ける。印刷されている氏名は、リュード・トークル。リュードは俺のファーストネームで、トークルは侍従長のファミリーネームだ。事態を飲み込めず、許可証の文言を何周も読み返す。間違いない。これはオルバート様とライシャ様が来年から通う、ヴァルド学院の入学試験の受験を認める書類だ。俺に見せたということは、正真正銘俺への許可だろう。だが、やはり訳が分からない。
「……質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「なぜ、私の名前の後ろに侍従長の名前があるんでしょうか?」
「養子縁組したからに決まっているだろう」
「えっと……その書類を書いた覚えが無いんですが……」
「え?」
ちら、と旦那様は侍従長を見上げた。ふるふる、と侍従長は頭を左右に振った。心外な、とでも言いたげな表情だ。俺が待っていると、侍従長は呆れた様子で視線を寄越した。
「あなたがここで働くと決まったときに、サインしたでしょう?二度と元の仕事には戻らないと約束もしたはずですが」
「えっ」
「まさか、副業を?」
「いえっ!誰も殺してません!」
「……後で聞かせてもらいます」
あ、と後悔してももう遅い。今の俺の言い方は、殺してはいませんが手を出してはいます、と白状しているようなものだった。それに、わざわざ伏せ字で会話してくれていたのも台無しにしてしまった。叱責の種が次から次へと増えていく。
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