第6話 十二歳⑥

 十二歳、夏。ファイアン公爵邸での殺害未遂事件から、約一ヶ月後。ライシャ様が乗っている車が到着すると、坊ちゃまは淑やかに、けれど満面の笑顔で出迎えた。


「おはよう、ライシャ」

「おはよう、オルバート。今日からお世話になります」

「ああ、よろしく」


 ライシャ様はぺこりとお辞儀した。しっとりと染まった黒髪は腰まで真っ直ぐに下ろされ、明るい赤紫色の虹彩は陽光を照り返しきらきらと輝いている。深緑色のワンピースも、ともすれば重い印象になるところ、上品な大人の魅力に昇華させて着こなしていた。不躾なことを言わせてもらえば、将来は間違いなく美人になるだろう。まとう雰囲気も声のトーンも、異母兄姉であるアンジアやアイリーとは似ても似つかない。


 坊ちゃまとライシャ様は、今日からひとつ屋根の下、だ。事の発端は、ライシャ様の誕生日に起こされた火事にまで遡る。


 驚くべきことに、犯人はライシャ様の異母姉であるアイリーだった。さすがに殺す気はなかったらしい。ライシャ様をロープで縛り上げ、離れに火を放ったのは事実だが、もっと容易く鎮火できるものだと思っていたそうだ。あくまでライシャ様を怖がらせるだけのつもりだったと、いつもの「遊び」の延長線上の行為だったと。ただ、想像力が致命的に欠けていた。坊ちゃまに選ばれたことを妬み、両親の仲違いの象徴であるがゆえに憎しみを向けていたとしても、絶対に越えてはいけない一線だった。

 ファイアン公爵は、事態の責任を問われて爵位を嫡男に譲り渡すこととなった。火種は息子の不倫だったというのに、無念な結果だ。無論、新しいファイアン公爵が何の憂いもなく後継に収まったわけではないが。現ファイアン公爵は仕事上の信頼も失っており、ファイアン公爵家の事業は急激に傾いたらしい。なお、アイリーは邸宅で謹慎処分を受けている。実際は軟禁と変わらないそうだが、旦那様が示談で片づけたから犯罪者とならずに済んだ。正直、旦那様は甘いと俺は思う。どこまでも突き詰めて、死刑までは叶わずとも牢獄に突っ込んでやれば良かった。ついでに、アンジアも連座で制裁を受けてほしかった。坊ちゃまから幸福を奪う存在を、俺は決して許せない。父さんのことも俺自身のことも、俺は未来永劫受け入れられないと心底思う。


 しかし、坊ちゃまにとってはいいこともあった。と言うのも、ファイアン公爵家にいるとライシャ様の命が危ないという見解で、ライシャ様は今日からギアシュヴィール公爵邸に住むことになったからだ。いずれ嫁入りするので、随分と早いが花嫁修業に取りかかるという名目だ。これには奥様も大賛成だったのか、姉ができるのだとウィスティア様に微笑ましく教えていた。


「父上はお忙しいから、会えるのは夕食のときだ。義母上はウィスティアと一緒にいるんだが、今から会うか?」

「うん、迷惑じゃないなら。ウィスティア君は今……二歳?」

「いや、先日誕生日を迎えて三歳になった。意外とよく喋る」


 坊ちゃま、ライシャ様、俺の順で廊下を進む。俺とは違いライシャ様には人徳があるので、すれ違う使用人は皆にこやかに頭を下げている。中には同情の目もあり、ライシャ様がこれから暮らしていくにつけて不自由はしないだろうと言えた。なお、ファイアン公爵家からの引き抜きはしていない。ライシャ様曰く、乳母さえも信用ができないと言う。あの火事のとき、ライシャ様を残して全ての人が離れから逃げていたのだから当たり前だ。それを考えると、ライシャ様が早くからギアシュヴィール公爵邸に居を移したのは最善な選択かもしれない。


 奥様とウィスティア様は、中庭でボール遊びに興じていた。今日は晴天だ。ぽかぽかと暖かい陽気の中、ウィスティア様は芝生を元気に駆け回っている。時折両手と両膝を突いてでんぐり返しをするなど、脈絡の無い行動は見ていて癒やされる。しかし、近づくことはできない。二人の視界に入らない場所で、俺は足を止めた。


「……?リュードは行かないの?」

「はい。こちらでお待ちしています」


 ライシャ様は、俺の身の上をまだ知らない。きっと、坊ちゃまは近いうちに打ち明けるだろう。それを聞いた後、ライシャ様はどうするだろうか。俺を怖がったり、疎んだりするだろうか。となれば、俺は坊ちゃまの側にはいられないだろう。俺はどうなるだろうか。旦那様は、俺をどう始末するか決めているのだろうか。

 一応述べておくと、俺の行動基準にあるのは坊ちゃまへの恩返しだ。したがって、坊ちゃまが望まないなら俺は潔くこの身を退くつもりがある。坊ちゃまの魔王化をほぼ完全に阻止できた今、個人的な未練で付きまといはしない。


 物語の坊ちゃまはヒロインに恋をするが、その理由はヒロインの性格がライシャ様と似ていたからだ。坊ちゃまはヒロインにライシャ様を重ね、二度と失いたくないという執着心と、二度といなくなってほしくないという依存症を患う。ところが、ヒロインが王子と恋愛関係になったことで裏切られたと感じ、魔王として世界の破壊を目論む。


 この世界で坊ちゃまの母君は亡くなってしまったものの、ライシャ様は健在だ。坊ちゃまは誠実な人なので、ライシャ様を放ってヒロインに浮気する展開は絶対にありえない。万が一ヒロインを選んだとしても、喪失感を埋めるための恋ではないので素直に失恋を受け入れるだろう。やはり、坊ちゃまが魔王化する危険性は極限まで低い。となれば、俺は俺の役割をほとんど終えていると言える。


「──おねーたま!」


 ウィスティア様の声にはっとした。続いて、ライシャ様と奥様の笑い声が俺の耳にも届いた。どうやら、ウィスティア様は問題無くライシャ様に懐いているようだ。親の心はいまいち想像できないが、奥様もライシャ様を疎外はしないだろう。ライシャ様を生んだ女性は、ライシャ様が物心付く前からすでにいなかったらしい。奥様とウィスティア様は、ライシャ様の初めての「家族」になってくれるかもしれない。

 しばらくすると、坊ちゃまとライシャ様は俺のところに戻ってきた。二人共はしゃぎ疲れた様子である一方、特にライシャ様は嬉しそうに頬を染めている。


 次に、坊ちゃまはライシャ様を私室へと案内した。坊ちゃまの向かい側に位置するそこは、最低限だがライシャ様の好みに合うよう模様替えをしてある。壁紙はダークオレンジの花模様で、カーテンはミントグリーンの布地に緻密な刺繍が施されている。十歳の女の子にしては、随分と落ち着いた内装だ。もし坊ちゃまの提言が無ければ、ピンク色やフリルで甘い印象の部屋に仕上がっていたところだろう。足を踏み入れた途端、ライシャ様は驚きと喜びが混じった歓声を上げた。軽やかな足取りでベッドや衣装部屋も覗き、ありがとう、と潤んだ瞳で笑った。離れに追いやられていたライシャ様にとって、誰にも否定されない居場所は、手が届かないのだと諦めた夢だったのかもしれない。


 不意に、ライシャ様の目ははっきりと俺を捉えた。俺がどきりと身構えるのと対極に、一歩近づかれる。


「リュードもありがとう。リュードが火の中に入ってくれなかったら、私は絶対に死んでた」

「あ、いえ……」

「怪我をさせてごめんなさい」

「いえ!お……私が、着地に失敗しただけなので」


 足首に包帯を巻いてギアシュヴィール公爵邸に戻った後、俺は侍従長にみっちりと叱られた。一つ目に、十分な数の護衛無しに坊ちゃまを歩かせたこと。二つ目に、婚約者の実家とは言え坊ちゃまを一人にしたこと。三つ目に、死んでもおかしくない無茶を坊ちゃま以外のためにしたこと。結果的にライシャ様を救出できたから良かったものの、坊ちゃまの側から離れた点については徹底的に反省させられた。侍従長は、この屋敷で俺を真っ当な使用人として扱う数少ない存在だ。暗殺者の生活しか知らなかった俺がこの世界の常識を学べたのは、この人の教育による部分が大きい。実の両親を恨んでいるわけではないが、侍従長のことも親のような存在だと勝手に感じている。


「リュードは、僕たちの前ではもっと楽にしていい」

「……?ありがとうございます」


 坊ちゃまの発言の意味が分からず、俺は曖昧に頷いた。すると、坊ちゃまは少しいじけた風に声を尖らせた。物語よりも、この世界の坊ちゃまは感情表現が豊かだ。


「もっと楽に喋っていいと言ってるんだ。自分のことを言うときは、俺、でいい」

「え……!」

「私も、リュードが話しやすいほうでいいと思う」


 じ、と子供二人は俺を見上げた。穏やかな灰色と、温かな赤紫色の瞳。今更ながら、坊ちゃまもライシャ様も非常に整った顔立ちをしている。それを真っ直ぐに向けられてしまうと、何と言うか、前世で平凡な人生を送っていただろう俺には刺激が強い。侍従長に言われているので、とか、私は使用人なので、とか、下手な断り文句しか思いつかない。


「……本当に、よろしいんですか?」

「ああ」

「侍従長に言いつけませんか?クビにしませんか?」

「しない」

「……分かりました。ありがとうございます」

「うむ、よろしい」


 坊ちゃまは大仰に微笑んだ。ライシャ様もふんわりと笑っている。なんだか、恥ずかしい。この世界で、俺は仕事上の付き合いでの人間関係に身を置き続けてきた。両親は息子ではなく後継を作るための養育を俺に施したし、侍従長とも結局は上司と部下の関係だ、このように他愛無い要求はされたことがない。もちろん、俺が周囲に心を開かなかったというのもあると思う。俺は生まれたときから前世の延長戦という感覚だったうえに、せっかく免れた死を再体験したくなくて気が立っていた。

 ちなみに、前世での死因は覚えていない。そもそも、前世で俺が何歳まで生きていたかも思い出せない。なまじ知識があるせいで、高校生の自分も大学生の自分も思い描けてしまい、それが実在する記憶なのかはっきりとしない。尤も、描く姿はこの世界での俺の体だが。前世で俺の瞳が何色だったのか、どのような家庭に生まれたのか、友人は一人でもいたのか、そういう情報が自我に全く残っていない。ただ、物語の内容だけは一通り覚えている。まるで、誰かがこの世界の修正のために俺を送り込んだかのような。


 ライシャ様の部屋を出ると、廊下でフラウムが待ち構えていた。他にもわらわらと魔獣たちがおり、坊ちゃまの未来の妻の様子を見に来たようだ。


「かわいい……!」

「全員、並んでくれ。一体ずつライシャに自己紹介だ」


 話せない魔獣は坊ちゃまが、話せる魔獣は自ら愛称を名乗っていく。ファルケの番が来ると、ライシャ様は俺に対してと同じく感謝の言葉を伝えた。ライシャ様は真っ直ぐな性根をしている。魔獣を先入観で差別したり、危険な生き物として怖がったりすることはなさそうだ。これなら俺も、と思わず期待してしまう。俺の過去を知っても、俺が坊ちゃまの側にいることを許してほしい。


 十二歳、夏。ライシャ様は助かり、坊ちゃまの心は壊れていない。次にある分岐点は、十五歳から所属する学園での三年間だ。物語の坊ちゃまは、ヒロインに恋をし失恋して人道を外れる。だが、この世界の坊ちゃまはきっと違う。八年後の今日も、坊ちゃまはきっとライシャ様と幸せに笑い合っている。

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