04

 涙を流していたことに気付いた。

 開いた目が、微かな熱を帯びていたから。


 コトノハはベッドの上で上体を起こす。起き上がろうとして、またぼろぼろと、透明な雫が零れていった。その意味がわからなくて、でもどうしようもなく悲しくて、コトノハは泣き続ける。口から漏れる嗚咽は、水面を揺らがせる湖畔のように頼りない。


「どうしたんだ」


 言葉を掛けられたから、両手に顔を埋めるのをやめて、コトノハは声がした方を見る。歪んだ視界の先に、心配そうな面持ちをしているソウヨウの姿があった。彼の姿に安堵している自分がいることに気付いて、コトノハは少しだけ可笑しくなる。わたしは神様なのに。神様が人間に助けられてどうするのですか――そうやって、思う。


「心の奥底では、」


 震えてしまう声で、コトノハは言葉を紡ぐ。


「みんな……誰かを、殺したがっているのですね」


 ソウヨウの赤い瞳が見開かれた。彼はそれを強く否定するかのように、丁寧に首を横に振った。


「嘘……ソウヨウは、いつだって優しかったです」


 コトノハは、哀切の滲んだ微笑みを浮かべる。


「いつだって……」


 彼女の脳裏に、彼と出会ったときの記憶が、確かに花咲いた。




 それはまだ、人間が言葉を持たなかった頃の話。


 氷に閉ざされた地球を、コトノハは歩いていた。幼い少女の形をしていた彼女は、腰まで伸びた白い髪を二つに分けて結びながら、楽しそうに鼻歌をうたっていた。


 視界に、赤色が映った。


 コトノハは目を見張って、その色彩に向かって駆け出した。白い息が零れて、でもそれもすぐに空気と混ざり合って、わからなくなる。この真っ白な場所が溶け出したような、穢れのない肌の手を、伸ばした。


 黒い髪の青年。お腹からだくだくと、鮮血が溢れている。


 ――ああ、


 コトノハは、思う。


 ――人間、だ。


 駆け寄って屈んだコトノハを、青年は虚ろな目で見つめた。


「大丈夫ですか?」


 返事はない。そうだった、動物は言葉を持たないのだ。だからコトノハは、心の中へと直接、語り掛ける。


〈大丈夫ですか?〉


 青年は驚いたように、ゆっくりと瞬きを繰り返した。


〈……いたい〉


 彼の思考が、コトノハの中へさらさらと、流れ込んできた。


〈その傷、どうしたのですか?〉

〈てきに、やられた〉

〈敵に……?〉

〈うん。よくわからないけど、きっと、てきなんだ〉


 青年は微かに笑った。そんな彼の表情に、コトノハの胸はどくんと、柔らかく跳ねた。


〈おれは、よわいね〉

〈そんなことはありません……! いつだって、暴力が間違っているのです。それに殺されることが間違っているはずなんて、ありません……〉

〈きみは、〉


 真っ黒な瞳が、悲しそうなコトノハを映し出していた。


〈やさしいな〉


 その目も段々と、閉じられようとしている。

 救いたいと、そう思った。でもどうすれば救えるのかがわからない。神様が、か弱い人間のためにしてあげられることは、一体何なのだろう……?


 ――そうだ……


 コトノハは混然とした思考で、一つの解決策を、導いた。


 ――わたしが人間に、「言葉」を与えれば、いいのです。


 彼女はそっと、青年の骨張った手を握った。青年は不思議そうに、コトノハのことを見ていた。桜色の唇で、彼の固い手にくちづけを、した。


 柔らかな風が、二人を……そして世界を、揺らした。


「ねえ、」


 コトノハは哀情に満ちた声で、問う。


「話せますか……?」


 青年の口がゆっくりと、でも確かな動きで、開いた。


「……ああ、」


 彼の口元が、ほのかに上がった。


「ありがとう……」


 最後にそう告げて、青年はまぶたの奥に、瞳を隠した。

 コトノハは立ち上がった。


 彼の姿が二つ、あった。死んでしまって動かなくなった彼と、どこか呆然とした様子で立ち尽くしている、彼。

 後者の瞳は、疑いようもないほどの赤さに、変貌していた。


 コトノハは、赤い目をした彼の手を取る。


「わたしと、お友達になってほしいのです」


 微かに緊張しながらそう言うと、彼は驚いたような顔をしてから、微笑んだ。


「……いいよ」


 二人は手を繋いだ。

 それから、どこまでも広がる空へと向かった。

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