第6話 聖女就任の儀(1)

 今日はいつもと違い、アーマンディの地下にある閉ざされた暗い部屋にも声が届いた。


「アーマンディ様、上が騒がしいですね。アジタート様はおでかけでしょうか?」

「そうだね。そうかもしれないね」

 いつもの薄暗い部屋の中で、アーマンディはネリーを膝の上に乗せ、まだ来ない朝食を待っている。


 アジタート様がお出かけになるということは、今朝の食事は忘れられているのかもしれない。アーマンディはそう思い、いつものようにネリーのために水を作りだす。

 食事がないのは辛いけれど、アジタートが出かける時には、ガーネットやお付きのものが全て付き添うことになる。そうなると今日は鞭打ちの刑罰はない。それだけでもアーマンディの心は穏やかになる。いくら打たれても慣れることはない痛み。終わりが来る日は来ないのだろう、永遠に。


「ネリー、今朝は食事はないかもしれないから、お水を飲んで」

「はい!アーマンディ様のお水、大好きです。お腹の中がぽかぽかして、体が元気になります」

「……ありがとう。そんなことを言ってくれるのはネリーだけだよ」


 ネリーの小さな手にコップを持たせ、水を飲むのを補助する。この水は幼い頃から食事を抜かれることが多かったアーマンディを救ってくれた水だ。人は水も飲まなければ死ねると聞いた。では飲まなければ良いと思っていた時もあった。でも空腹に耐えきれず、結局、作って飲んでしまっていた。これはそんな辛い思い出と共にある水だ。

 でも今はネリーが喜んで飲んでくれる水。それだけで水を作れる魔法を知っていて良かったと思えてしまう。


 そういえば、この魔法の使い方はアジタート様が教えてくれたものと全く違う。誰に教えてもらったのだろう。僕が持っている絵本と同じで思い出さない。アーマンディは疑問に思いながらも、水を飲み終えたネリーからコップを受け取りながら、自身のための水も作りだす。


 この魔法はアジタートから教えてもらった聖女の魔法とは違い易々と施行できる。やはり自分は聖女としては出来損ないなのだろう……アーマンディの思考はいつも自分を貶める方向へと動く。アジタートが作り出した洗脳は完璧だ。アーマンディは自分の考えに疑問すら持たない。


 その時、ノックもなしに重い扉が開く。いつもの状況に驚くことなく、アーマンディとネリーが扉を見るとそこには美しく着飾ったアジタートと信女の正装をしたガーネットがいた。

 アジタートの衣装は光沢を放つ白地のロングドレスに繊細な金糸の刺繍がされている。胸元と腕には同じ意匠の金細工にエメラルドが輝く豪華なアクセサリー。年齢の割には鮮やかな金糸のような髪には、エメラルドのティアラが煌めく。


「早くこれに着替えなさい!」

 アジタートによって放り投げられたドレスは床に落ちた。

 まさかアジタートが来るとは思っていなく、呆けていたアーマンディは、慌ててネリーを膝から下ろし、ネリーと共に床に両手をついて膝まづく。まるで主人にかしずく奴隷のように。


「お……おはようございます」

 また殴られるかもしれない……そう思うと微かに震える体と声を誤魔化すために必死に声を張り上げる。ネリーに自分が受けている数々の暴力のことを知られるわけにはいかない。アーマンディにもそのくらいの矜持はある。


「早く着替えろ……そう言ってるでしょ?これだから……

「き――着替えます!ですから――」

 必死でアジタートの声を遮るのは、その言葉の続きをネリーに聞かれたくないからだ。出来損ないの聖女だと、ネリーにだけは知られたくない。アーマンディのその心内をアジタートは知っているから、利用する。


 嫌な笑みを見せながらアジタートは扉を閉める。慌ててドレスを拾いよせ、震える手でアーマンディは衣装を持ち上げた。あまりにも美しいドレスだ。アジタートとお揃いのドレス。触っただけでも高級品であることが分かる。ずっと同じ物を着続ける自分にはすぎたもの……、何かがおかしい。そう思いつつもやはり恐怖に抗えず、慌ててくたびれたドレスを脱いで、肌触りの良いドレスに着替える。


「アーマンディ様?」

「ネリー、ご――ごめん」


 声をかけられたことで心配そうにアーマンディを見上げていたネリーに気づいた。その閉じられた目がピクピクと動いている。惹き結んだ口からは声にならない声が漏れそうだ。


「ごめんね、ネリー。僕はアジタート様とお出かけしなきゃいけないみたいだ。だから大人しく待っていてくれる?」


「あ……アーマンディ様は帰ってくる?」


 首を傾げて、体を震わせるネリーをぎゅっと抱きしめる。ネリーの閉ざされた目からは涙が出ない。だけどアーマンディには大粒の涙を流すネリーが見えている。


「帰ってくるよ。僕はネリーがいるところに必ず帰ってくるよ」

「やく――そく?」

「うん、約束」

 体を離し、そっと小指と小指をからませる。アーマンディがネリーに与えられるものは、安心感だけだ。それも薄氷を歩むが如き、危ういもの。


「……アーマンディ様のお洋服を貸してください」

「畳んでくれるの?」

「はい!お手伝いします!」


 最近のネリーは何かにつけてアーマンディの世話をしたがるようになった。自立心が出てきたことは良いことだと思い、アーマンディはネリーに服を渡す。するとくるくると洋服を丸めだす。


「じゃあ、行ってくるね」

 ネリーの頭をよしよしと撫でて、アーマンディは重い扉をあけた。するとそこにはアジタートとガーネットが睨むような目で自分を見下げていた。


 慌てて扉を閉めて、深く頭を下げる。

「遅くなり申し訳ございません」


「本当に、遅いわ……。まぁ良いでしょう」

 

 ことさら深いため息をつき、アジタートはアーマンディを舐めるように見る。


 自分と全く同じ衣装。なのにこの内から光り輝くような美しさはなんだろう。化粧もしていない。髪の手入れだってされてない。なんなら櫛すら渡していないのに、極上の香油を使ったかのようにサラサラしている艶のある髪。肌のハリは若さならではかもしれないが、その頬に咲く桜のような桃色、今日の唇は赤い薔薇のようだ。大きな瞳に影を落とすまつ毛も長く、その瞳は極上のサファイヤよりも深い青みを写している。これと並んで、これから大聖堂で諸外国の人間の前にでなければいけないとは!そう思うと更にアーマンディへの憎しみが湧いてくる。

 

 自分が年老いた自覚はある。若さは武器でもある。だが、自分が若い時であったとしても、このアーマンディの美しさには勝てる自信がない。これの横に並べるのは余程の自信家か、無頓着なものだ。誰しもがこの生きる彫刻のような美と見比べれられるのは嫌なはずだ。


 グッと手を握って、殴りたい衝動を抑える。いつもなら感情のまま、傍でアーマンディに見惚れるガーネットに鞭を打たせるところだが、今日はそれをするわけには行かない。今日はアーマンディの聖女就任の義が行われう日だ。


 この日までアーマンディに秘密にしてきたのには理由がある。自身の権力を保持するためだ。世間にはアーマンディは魔力も弱く精神に問題ありと言ってきた。だが実際は違う。

 一度教えたことを忘れることはない。なるたけ力を与えないように世間から隔離して知識も最低限しか与えていないにも関わらず、どうやってか読み書きはおろか、言葉使いも人並み以上となっている。それを知られてしまったら、大神官はアーマンディの後見人の座でアジタートがこの聖女の館に残るのを阻止するであろう。


 あのジジイは私のことを嫌っている……、アジタートは歯噛みする。アジタートを煙たがっているのは大神官だけではない。現在の公国王フェランもだ。このふたりに対抗し、今後も自分の権力を維持するためにもアーマンディには精神薄弱でいてもらわなければいけない。だからこそ、何の説明せずに聖女の儀を受けさせるのだ。


 例え賢くとも幼いころから虐げられていたアーマンディの心が弱いことは確かだ。説明もなしに大勢の前に連れて行けば、あからさまに動揺した姿を見せるだろう……だが、それで良い。その姿を見れば、誰しもがアーマンディを精神薄弱だと思うだろう。


 視線も合わせることができず、怯え、震えているアーマンディを見ながら、アジタートは微笑んだ。

 アーマンディの今の姿はまさに蛇に睨まれた蛙のようだ。すぐにでも食われてしまう。


 最大の問題は公国王でも大神官でもないヴルカン公爵家の長女シェリルだが、猛々しい性格だと聞いている。調査させたが才能のない聖女に仕えるのは嫌だと、不平不満を述べていると聞いた。

 そんな娘がこの気弱な聖女に仕えることは矜持が許さないだろう。そう思うとさらに自身の勝利を確信をする。


「行くわよ」

 声をかけるとおずおずと後ろをついてくる。その後ろには恐怖を与える存在であるガーネットを配置した。


 今日は祝杯をあげなければ……!そう思い喜ぶアジタートの心のうちを知らぬまま、アーマンディは新たな運命に向かって歩き始めた。

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