第44話


「私の夢を見ているのか?」


 バッと目を見開き、イコは天井を見上げた。周囲には誰もおらず、その声は直ぐに脳内に漂う霧と化し、記憶の中で曖昧になっていった。イコは三日三晩苦痛にうなされ、眠ることができなかった。力尽きるように目を閉じれば、ハデスの記憶を瞼の裏に呼び起こしてしまい、安眠は直ぐに手元から失われてしまった。


――コンコンッ!


「…はい?」


 唐突な来客に、イコは視線を扉に向けた。


「バルだ」

「ど、どうぞ」


 立場の曖昧な相手に、イコは口調を濁した。

 直ぐに扉は開き、彼女は靴を脱いで部屋を見回していた。


「へぇ、整頓されてるな」


 と、感心したように呟いた。ワンルームともあって、小さな声でも十分にイコの耳に届いた。 


「俺じゃないけどな」

「ん?」


 イコは、音を口内に籠らせ、バルに聞こえない程度の声を発した。どうやら、アデルはイコのノートを拝借した際に、部屋を整理して行ったようだった。イコは、散らかった部屋を、ある種の整理後とみなす馬鹿であり、余り感謝はしていなかった。


「いえ、何でも」

「…ま、いいけどさ」


 バルは、些細な音に注意を払うのを止めた。彼女はベッドの側にある椅子に座り、買ってきたリンゴの皮を剝き始めた。マイクロスクロールから小さな魔導陣が浮かび上がり、指の腹に刃のような魔素を纏っている。指で皮をむく姿は、やや奇妙だった。


「他国の…ハムサン社員(仮)は、無事に捕まったそうだ」

「…そうですか」


 二人組の夢魔たちについては、イコも危惧していた。

 リンゴを剥いて切り分けると、バルはひとかけ指先で摘まみ、それをイコの口元に近づけた。妹弟子兼上司からの「あ~ん」に、イコは戸惑いながらも口を開いた。そうして、ゆっくりと咀嚼を始める。顎の上下すらも、重大な痛みを伴った。


「…気づいてたんじゃないですか?」

「…何のことだ?」


 バルは、彼女らしくなく、可愛く小首を傾げていた。割れた陶器を接着剤によりつなぎ合わせ、元の形に戻した時に感じる錯覚的な違和感に近い感覚だった。


「バルさん程の賢人なら、父さんの思惑に気付いていたはずですよね?」


 そこまで丁寧に言えば、バルはリンゴを一かけ咥えた。

「おそらく、父さんとは別の思惑があって招待状を渡した」

「…名探偵さん。それくらいで満足しておけ。真実がどうあれ、私の回答は何度問われても同じだ。もう、この件は終わったのさ」


 モグモグと口を動かしながら、バルは答えた。


「まぁ、父親があんなことになって、納得がいかない部分があるのも察する。…今日はこれでお暇するよ」


 寂しそうにバルは立ち上がった。しかし、扉に向かう彼女の背中には、式場を歩く新郎新婦のような晴れやかさがあった。


「…魔導は好きですか?」


 イコの中で定型文となった父の言葉を、意味もなくバルへ投げかけていた。


「嫌いだよ」


 何かを考えるように少しの間を空けてから、バルは振り返らず端的に回答した。それから扉をくぐるまでに、彼女は一度も立ち止らなかった。


 拭いきれない違和感を抱えつつ、イコは天井を見上げていた。アデル・チャリティーは牢獄の中にいる。イコは、アデルの投獄が持つ意味合いは、絵画でいう額縁に絵を収めたというような、とある枠を一つの世界に設けるといった事柄に近い事象に思えてならなかった。それは、一つの世界の始まりを、大衆へ共有するのに酷似している。


 ふと、一つ溜息を落として、イコはこれが始まりに過ぎないことを自覚した。


 ――ガチャリッ!


 突然、扉が開いた。ノックすらない粗暴な来客者たちに、イコは笑みを浮かべた。


「ほら、イコ。ごはん買ってきてあげたわよ」と、ラナが。

「イコさん、熱は下がりましたか?」と、ミームが。


 ガシャンッ!ドテッ!「いったぁい」と、松葉杖を玄関の段差にひっかけて転んだチェリアが言った。彼女も、イコに負けず劣らずの重傷である。


 イコが視線をやれば、ミームの頭上を陣取るスタークが、朗らかな感情を表情に出す代わりに、陽光を乱反射していた。部屋は、親を失った孤独を埋めるように、姦しさに支配されていく。小さな騒音は、小人たちの大宴会のようだった。その騒々しさは、荒々しい金たわしのように、イコの心の奥に憑りつく焦げつきを、容赦なく削ぎ落してしまう。


 もしも第三者的視点を用いて、窓の外から自室を眺めることが出来たなら、窓枠という額縁に収まった絵画を、「居場所」と名付けていただろう。少なくとも、自然に溢れる笑顔は、それを解り易く証明していた。

イコが再び目を瞑ると、騒音は心地の良い子守歌と化した。


――〈完〉――

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でばっくバッカ 木兎太郎 @mimizuku_tarou

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