第三章 第55話 そうではない

 四者会談からさかのぼること、一日。


 場所は、ピケの市場いちばにある食堂けん宿屋「風見鶏亭プル・コキドヴェテロア

 その宿屋の主人であるドルガリス・ローザントの執務室ロマ・ビューラスの前で、セラピアーラ・モレノアはヴラットを叩こうかどうか、かれこれもう五分ゴウナディスほど迷っていた。


 とは言っても呼び出されている身であり、中に入らないわけにはいかないのだが、セラの足はどうしても一歩踏み出すことが出来ずにいるのだ。


(きっとお兄ちゃんブラットリィのことなんだろうけど……)


 セラの兄――アーチークレール・モレノア。

 二歳年上で、今は十八歳ビシス・イェービー

 この風見鶏亭の入り口サレッラで、「これがお前のブラトルードレだ」とドルガリスに紹介されたのが、アーチーとの最初の思い出イザペナだった。

 確か……当時は六歳ライ・イェービーだったとセラは記憶している。


 それまでどうして兄と会っていなかったのか――いや、そもそもアーチーと初めて会うまで、自分がどうしていたのかセラは全く覚えていない。

 父親ダードレだと思っていたドルガリスが実は叔父フロンダで、本当の父とマードレが既に死んでいることすら、その時に初めて知ったのだ。


 それから数年の間は、兄妹きょうだいにとってとても穏やかな時間が流れていた。

 二人の住む家となった風見鶏亭は食堂と宿屋を兼ねているので、毎日いろいろな人が訪れ、クリエは時にいろいろな話を聞かせてくれる。

 食事時にはくるくると目が回りそうな店内も、兄妹にとっては楽しい遊び場フーラハッド

 見よう見まねで店員クロフィスタごっこをすれば、馴染みの客たちは目を細めて頭を撫でてくれるし、頼みこんで実際に料理を運ばせてもらえば、それだけでもう拍手喝采かっさいだった。


 おまけに店の外は、市場メルコスである。

 カルネ野菜レゴーモ果物メーヴェ香辛料エスペック、店頭で調理されるさまざまな食べ物を始め、衣料品ブレーゼス雑貨アスコタリコ調理器具キナヴィスル玩具ルディオや何やら使途不明な謎のものなど、種々雑多な商品ヴァロメルを売るプローデ屋台マトラが所狭しとのきを連ねているのだ。

 ただ見て回るだけでも楽しいのに、店員と一緒に仕入れについて行ったり、時には兄妹だけで買い食いをしたりと、アーチーとセラは手を繋ぎなら市場中を駆け回って楽しい時を過ごしていた。


 そして、いつからか兄のアーチーが店の仕事に本格的に関わるようになった。

 この辺りで子どもが家業を手伝う姿は、特段珍しいものではない。

 仕事と並行して算術マカリスの修行も始まり、最初の頃はセラもよく分からないながらも、兄の真似をして一緒に指を折って数えたりしていた。


 しかし……どうにもその頃から兄の態度が少しずつ変わっていったように、セラには感じられていた。

 最初の頃には気にならなかった違和感が少しずつ大きくなり始め、だんだん口数は少なく、ぶっきらぼうな物言いが増えていった。

 それと、何となくしゃに構えるような感じも。


(あれは……ディアになるかならないかくらい、だったかなあ)


 セラのことを煙たがるようなことこそなかったし、元々感情が表に出やすい性格だと分かってもいたから、多少の寂しさを感じていてもセラはそのことでアーチーに何か言うようなことはしなかった。

 きっと慣れない仕事で疲れているのだろう、と気遣ってもいた。


 そんな兄妹きょうだいの関係は、結局今に至るまで変わっていない。

 慣れ切ってしまった、と言う方がより正確かも知れない……とセラは小さくため息をいた。

 それでも彼女の心の中には、あの溌溂はつらつとした笑顔で市場を駆け回る兄の姿が変わらずあるのだ。


 ――その兄が、昨日から風見鶏亭うちに帰って来ていない。


 セラが最後に見たのはこの、目の前にあるヴラットから出てきたひどい姿だった。

 兄は何も言わなかったが、叔父に殴られたのだと即座に思った。

 そういうことは決して初めてのことじゃなかったからだ。


 抗議してくると言うと「大丈夫だ」「余計なことすんな」と兄には言われ、こっそり直談判じかだんぱんしに行っても、叔父からは「ああ」と言う分かったのか分かってないのか分からない返事しか戻ってこなかった。


 その後も、二人は普段と変わらない様子だったこともあって、セラは何となくもやもやしつつもあまり気にしないようにしていたのだ。


(でも……今回は何か違う、絶対に違う!)


 とくに気になるのが、あの時の兄の目と口にした不穏な台詞だ。


 ――あの、野郎ギズと……小せえアルマガキカカーラは……どこだ?

 ――あの二人を見つけるようなことがあったら……すぐ俺に教えろ

 ――……まあ、その前にぶっ殺されてるだろうが、万が一……だ


 あんな恐ろしい目の兄を、セラは初めて見た。

 思わず後退あとずさってしまったほどに――怖かった。


(それに、部屋にいると思ってたりょーすけとるぅなは、いなくなってた……)


 その二人が「ぶっ殺されてる」って、一体……。


(やっぱり、ちゃんと話を聞かなきゃだめだ――――怖いけど)


 優しかった兄の姿と、何となくえんを感じる二人の旅人のことを思い出して、セラは少し勇気が湧いてきたような気がした。

 その気持ちがしぼんでしまわないうちに……と、セラは一歩踏み出して、目の前の扉を少し強めに叩いた。


「――――セラか?」

「……うん」

「……入れ」


 少し間を置いて扉しに届いた叔父の返事は、拍子抜けしてしまうほど普段と変わりがないように聞こえた。


 扉を開けると、そこに広がっているのはいつもの執務室ロマ・ビューラスの風景だった。

 とは言っても、こうして呼び出されたり特別の用事がない限り、セラはこの部屋に近付くことはなかったが。


 ドルガリスは、入ってきたセラに対して斜めになる感じで椅子に座っていた。

 部屋の中には十分な照明がともされているはずなのだが、妙にドルガリスの周辺だけが薄暗いようにセラには感じられる。


「お前にはザハドへ行ってもらうことになった」


 ドルガリスは突然口をひらくと、何の前置きもなく言い放った。

 お蔭でセラには、文章的には至極単純な内容の叔父の言葉を、真の意味で理解することが出来ない。


「……ザハド?」

「そうだ」

「……何か、特別に仕入れなきゃいけないものでもあるの?」


 ドルガリスの言ったことを、セラが辛うじて自分が納得できるようにかみ砕いて頭に浮かべたのが、かつて食堂で新しい料理を試すことになり、それに必要な食材を調達しなければならなくなった時の事だった。

 その時、セラは興味本位でとある店員について行って、仕入れを手伝ったのだ。


「そうではない」


 ドルガリスは小さく首を横に振った。

 その表情には、何の感情も込められていない。


「お前は……レアリウスに行くのだ、セラピアーラ」

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