# 03

※ 本日4話更新のうちの3話目です。

「深層生物 # 01、# 02」をまだお読み出ない方は、そちらを先にお読みください。


===


 クラウディオが作った薬茶を受け取ったレイ・アグレーンは、震える手でそれを口に運ぶ。


 手だけでなく体全体が小刻みに震えている。


 寒さのせいもあるだろうが、レイ・アグレーンが着ているのはパーレルの最新式だ。

 二枚のアラクネの防水布の間にアラクネ繊維の綿を挟み込んだ、厳冬期にも使えるこのモデルは、ちょっとやそっとの寒さではびくともしない。

 かなりいい値段がする商品だが、どうやらレイ・アグレーンはそれなりに裕福なようだ。


 地上の探検稼業はよほど儲かるらしい。

 

 ▽

 

 レイ・アグレーンの心はすっかり折れていた。

 

 地下迷宮での探検デビューにはちょうどいいか、と軽い気持ちで潜ったが、その余裕は早々に打ち砕かれた。


 地上で長年かけて培った知恵や知識、経験値がまるで役に立たない。

 目の前の優男風の先行者――名前をクラウディオと言ったか――彼が言うには、先ほどの巨大な、自重を支えるのも難しく見える化け物は、草食で、人を攻撃するようなことはないという。


 だというのに、さまざまな猛獣を相手取ってきたはず自分は、ただ震えて固まっていることしかできなかった。

 

 潜行前に軽く調べたところによれば、Lレイヤー34 は先行者たちにとってはかなり楽な階層だという。

 

 ならば――8000Dデプスを超える14座は一体どれほどの難易度だと言うのだ。

 

 甘かった。

 自分より実力が上の冒険者など、ほとんどいないはずだと思っていたが、迷宮ではまるで幼子扱いだ。

 

 幼子といえば、先ほどの――ハジ、と言ったか……随分と変わった名前だ――あの少年は一体なんなのだろう。

 色が褐色なのは、話に聞くシェルパ族か。

 左半身の広範囲にひどい火傷の跡があったし、左目の瞳も色がなかった。おそらく失明している。

 

 だというのに、あの巨大な化け物を前に、少しも怯んでいなかった。

 むしろ、鼻先に口づけする余裕まで――。

 

(自分は、少しも強くなどなかった――)


 レイ・アグレーンは泣き出したいような気持ちを押し殺し、冷静さを取り戻すべくクラウディオの淹れた薬茶を啜り続ける。

 

 ▽

 

 ――こんにちは。

 

 と、ツェルとの外から声がした。

 レイ・アグレーンは「やっとあの少年が帰ってきた」と喜び、ホッとして外に目をやった。

 

 そしてビクリとする。


 少年などではなかった。

 明らかに地上用に見える装備に身を包んだ冒険者が、薄く笑ってツェルトを覗き込んでいた。

 

 ――すみません、ちょっと休ませていただきたいんですが、入ってもいいですか?

 

「うわぁあああああああっ!!!」


 レイ・アグレーンは悲鳴を上げた。

 その顔に見覚えがあったからだ。

 

(この顔は、サム・ジェンキンスッ! なぜここに……ッ!?)


 ――それが、道に迷ってしまって。長居はしませんから、ほんの少し奥に詰めていただいても構わないでしょうか。


 レイ・アグレーンは一気に貧血気味となり、パクパクと酸素を求めて口を動かした。

 

 サム・ジェンキンス。

 すでに死んだ男。

 10年ほど前、レイ・アグレーンが一時的にバディを組み、そして死なせてしまった冒険者だ。

 

 あれは酷い体験だった――森を探検中に猛獣の群れに襲われ、大怪我を負いながらもなんとか逃げおおせた。

 

 そして、レイ・アグレーンは今でもはっきり覚えている――サム・ジェンキンスが大量のハイエナに群がられて、喰われながら死んでいく様を――。


「お前は……死んだはずだ……ッ!」


 そして、明らかにおかしいことに、ツェルトの一歩向こうは崖だ。

 目の前のは、一体どうやってこちらを覗き込んでいるのか――。

 

 死んだ男サム・ジェンキンスはそこで初めてレイ・アグレーンの存在に気づいたようだ。


 ――おや? そこにいるのはもしかしてレイ・アグレーンさんでは?

 

 レイ・アグレーンは強硬状態のまま、震える声で応えた。


「サム・ジェンキンス! なぜここにいるッ! さては、地獄から舞い戻ってきたかッ!」


 ――ああ、確かにレイ・アグレーンさんだ。随分老けましたなぁ。お元気で?

 

 その口調は間違いなくレイ・アグレーンがよく知るサム・ジェンキンスのものだ。

 しかし、どこか対話がちぐはぐで成立しない。

 

 ――積もる話もありますし――では、ちょっと入らせていただきますよ。

 

 死んだ男サム・ジェンキンスがツェルトの入り口を潜ろうとした時、ピシャリとそれを拒絶する声がした。


「すみませんが、もうすぐ連れが帰ってくるので、ここへ入るのはご遠慮ください」


 クラウディオだ。

 クラウディオは笑顔のまま、しかし焦点をツェルトの布壁に合わせている。


 ――おや。それではお連れさまが帰って来れば、すぐに私も出て行きますよ


「地上の冒険者さんはご存知ないのかもしれないけど、迷宮ここじゃ他人のスペースを一瞬でも奪うのはマナー違反です。お引き取りを」


 ――そう冷たいことを言わずに……外は寒いんです。どうか



 明確に拒絶するクラウディオの冷たい言葉に、死んだ男サム・ジェンキンスは悲しそうな表情を浮かべ、スウッと遠ざかっていく。

 

 そして気配は消える。

 

 聞こえてくるのは、人間を地面地獄へと突き落とさんと、迷宮が吹き起こす嵐の音だけだ。

 

 強硬パニック状態のレイ・アグレーンは、尋常じゃなくガタガタと震えていた。


「ゴーストですよ」


 クラウディオは肩をすくめて言った。


「目を合わせたりすると、その人の記憶に入り込んで、取り憑こうとする」

「ゆ、幽霊か……?」

「いや、ただのガス状の生物」

「ガス状の生物?!」

「うん。目を合わせなければどうということはありません。……あなたには誰に見えたんですか?」


 クラウディオの言葉に、レイ・アグレーンは余計に混乱する。

 今、クラウディオは間違いなくあのゴーストと会話をしていたではないか――。


「全部幻覚なんです。その証拠に、おれにはゴーストとあなたの会話は聞こえていませんでした。あなたが独り言を言ってるようにしか聞こえなかった」

「だが、あなたもサム・ジェンキンスと会話をしていたではないか! それに『地上の冒険者さん』とも言っていたッ!」

「あなたにはサム・ジェンキンスさんという方に見えたんですね。でも、残念ながらそれはあなたの頭が作り出した幻影に過ぎません」

「幻影?! あれがか?!」

「おれはあなたの独り言から推理して、ツェルトに入り込まれないように釘を刺しただけですよ」


 そもそも、ゴーストは誰かが招き入れないと中に入ってきませんからね、とクラウディオは平然と言う。


「初めて見たならびっくりしたでしょう。でも、招き入れたりしなければ、決して害のある生物では……」

「あなたはそればっかりだッ!」


 レイ・アグレーンはクラウディオの言葉を遮って叫んだ。


「何が害がないだッ! 危険はないだッ! こんな……こんな出鱈目な世界があってたまるかっ!」

「しかし、あなたも迷宮産の物資の恩恵を受けているでしょう」 

「いいやッ! こんな非常識な場所がなくとも、世界は回るッ!」


 レイ・アグレーンは涙を流しながら訴えた。

 しかしクラウディオは落ち着いた様子で静かに答える。

 

「あなたの着ているパーレルの潜行服ウェア……迷宮産のアラクネ繊維だ。お持ちのロープも迷宮産。あと、瘴気避けのハーブを使いませんでしたか? あれも……」

「全て、迷宮がなければ不要なものだっ!!」

「冒険者が使うカイロやバーナー用の熱鉱石や、あらゆる医薬品も迷宮の恩恵を受けている。地上素材だけで、この星の人口の健康的な生活を賄えるとでも?」


 クラウディオは腹を立てたりしない。

 迷宮が、当たり前の人々――潜行者などという頭のおかしい連中を除く――にとって、受け入れ難い存在であることくらい理解している。


 それも、数時間ものあいだあんな訳のわからない生物に取りつかれ、スカイフィッシュに懐かれ――全て男の発する恐怖の香りに誘われて出てきたものだが――あまつさえゴーストに過去の亡霊を見せられた後だ。

 神経が参ったとしても無理はない。

 むしろ当然だ。

 

 それでも、世界はあらゆる場面で迷宮に依存している。


 迷宮がなければ、とてもではないがこの世界を維持することはできないのだ。

 

「……すまなかった」


 レイ・アグレーンはポツリと謝罪の言葉を口にする。


「うん、謝罪を受け入れるよ」

「……確かに考えてみれば、この星ではあらゆる分野で迷宮に依存している……ことに、医療は……」

「まあ、迷宮素材がないとポーションすら作れないからね」

「ミスリルや熱鉱石も……考えてみれば、冒険者の装備は特に……」

「うん。でも、そんなに気に病まなくていいよ。深層生物は外の人から見れば正真正銘の化け物モンスターらしいからね。ちょっとくらいびっくりしても無理はないかな」


 いや、した訳ではないのだが……とレイ・アグレーンは思ったが、それをうまく伝えることはできなかった。


「それで、その……言いづらいのだが、クラウディオさん」

「うん、何かな」

「先ほどの少年はまだ帰ってはこないのだろうか?」


 レイ・アグレーンは厳しい表情で絞り出すように言った。


「私はもう帰りたい。もう……こんな場所には耐えられそうもないんだ」

 

 

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