18.奇跡の穀物

第152話 ラング准将、嗜虐的な空気を醸し出すのはやめてください


 ティアニーの川縁(かわべり)で素顔を晒して以降、不要になったヴェールはトランクに仕舞われることとなった。今後あれを着けることはもうないだろう。


 祐奈が勇気を出して自分をさらけ出した際、ラング准将は温かに見守ってくれたし、カルメリータは我がことのように喜んでくれた。


 そして意外にもリスキンドは大人な振舞いを見せた。あれこれ詮索して祐奈に恥ずかしい思いをさせることもなかった。


 ――しかしそんなはずはないのだ。その直後だけ常識的な態度を取ってみせたとしても、彼の本質はまるで逆であるのだから……。


「――祐奈っちって、普通に可愛いよね」


 このところはリスキンドも馬車に同乗するのがお馴染みになっている。


 はす向かいの席からそんなふうに話しかけられた時、祐奈は『おっと、きたか』とピリッとした心境になった。――会話の出だしが、もうなんというか、トラップくさい。


「そ……うですか? ええと、どうも」


「でもさ」


 ほら、始まった。


「可愛いくせに、『ブス』だと自称する女って、ものすごく嫌味だと思うんだけど」


「え?」


 切り口が斬新すぎて、ちょっと何を言っているのか分からないんだけど……。


「そういう態度って、世の女性の大半から嫌われると思うよ。――謙虚詐欺。『私なんてどうせ』詐欺だよ」


 変な造語を作らないで。


「元々自分発信ではなく、ハリントン神父に言われたので……。ていうか日本に居た時は、別に後ろ向きな性格でもなかったですし」


 従兄の若槻陽介から『祐奈は容姿が冴えない』とよくディスられていたものだが、それで落ち込みきって『私なんて……』とくよくよしたことはなかった。――衣食住がちゃんと整っていて、友達もいて、日々楽しく過ごしていれば、小さな凹みはやがて忘れることができる。


 味方が誰もいない特殊な環境で孤立してしまった時の心細さは、体験した者でないとなかなか理解しづらいのではないだろうか。


 その後優しい旅の仲間に巡り合うことができたけれど、一度深い傷を負ってしまうと、回復するのが難しかった。それは祐奈が実際に体験してみて、感じたことである。


 ――しかしリスキンドは容赦がない。


「いやあのさ、ハリントン神父にだって、実際は『ブス』って言われてないじゃん。『前の聖女と違う』って言われただけでしょ? その時点で『私はブスじゃねーし』って言い返せば良かったんだよ。そしたらハリントン神父だって、『いや、そういう意味ではない』って説明できたんだからさ」


「いえでも、そう言い切れるほどの顔面ではないので」


「なんでそんなに自己評価が低いの? 元の世界でもそこそこモテてきたでしょう? ショーなんか君に夢中だったじゃん」


 なんでラング准将の前でショーのことを言うんだと、祐奈は恨めしく思った。


 リスキンドのやり口は、猫がオモチャに飛びかかってかぎ爪剥き出しで高速パンチを繰り出している時の、容赦のなさに似ている。


「あの、モテてきたとか、本当にそんなことはないです」


「嘘つけぇ。君の周囲には女の子しかいなかったのかよ」


「ええと、環境的には『女子高』という……なんといったらいいか、女の子だけが集まる学校に通っていたので、確かにおっしゃる通りなのですが」


 祐奈は律儀に答えた。大学は共学だったが、一年の途中で転移してこちらに来てしまったので、そんなに長いあいだ通っていたわけでもない。


 するとここでラング准将が口を挟んだ。


「――今ので疑問が解けたというか、すっきりしました。話してくれて、ありがとう」


 なんの疑問が解けたのかはよく分からなかったのだが、リスキンドにせっつかれて話したことで、ラング准将がすっきりできたなら良かった。


 それに彼の態度はいつもながら感心するほど大人で、格好良くて、素敵で、祐奈は胸がきゅんとしてしまった。


『ラング准将ってなんて優しいの……!』声を大にしてそう伝えたかった。そして、


「もう好きすぎてつらい……ラング准将、好き……」


 と思った。


「とても嬉しいですが、皆の前で言ってくれるのは、珍しいですよね。――体調が悪くて、そうなっているわけではないですね?」


 ……ん?


 ラング准将の謎台詞にフリーズしかけていると、リスキンドから向けられた憐れみの瞳に気付いた。


「……祐奈っち。たぶんだけれど、心の中に留めておこうとしたことと、口に出そうとしたことが、逆になっている」


 祐奈は直前の行動を振り返り、状況を把握し、結果――高温の油に突っ込まれたような心地になった。


 祐奈があまりに取り乱していたので、痛々しく感じたのか、リスキンドはしばらくのあいだ彼女を泳がせていた。そして落ち着いた頃を見計らって、またいたぶり始めたのだった。


「なんだかんだ、オズボーンにも執着されていたよね。あいつ先天的に痴漢気質だから、祐奈っちみたいにチンタラしていて、よく襲われなかったなぁと思って」


 的確に痛いところを突いてくるもので、祐奈はぎくりとした。


「え。なんかされたの?」


「そんな大層なことは、その……」


「キスでもされた?」


 なんなの。リスキンドって超能力でもあるの?


「キスっていうか、あれはその……ちょっとした……」


 言いかけ、ハッとしてラング准将のほうを窺う。――この件は以前、峠の宿を経営しているミリアムから追及され、結果的にラング准将に知られることとなって、すごく気まずい思いをしたんだった。あれはあれで一回決着しているのだが、両想いになった今、この話題はどうなのだろうか……。


 ――ラング准将はポーカーフェイスでこちらを眺めたあと、気だるげな様子で視線をそらしてしまった。伏せ気味の瞳が退廃的で、美しいぶん、棘があるように感じられた。


「ちょっとした……」


 ふぅん、というように呟きを漏らす彼。


「ラング准将、嗜虐的な空気を醸し出すのはやめてください」


 祐奈はほとんど懇願する調子で彼に告げていた。彼の透き通ったアンバーの瞳が、悪戯にこちらに戻ってきた。


「――怖いですか?」


 態度が改まらない! なんだか色気がすごい。


「怖いっていうか」


 エロいっていうか……。


 リスキンドが感心したように呟きを漏らした。


「猫にマタタビっていうけれど、今のラング准将ならば、そこらに置いておくだけで、ギャルが百人くらい釣れるんじゃないか……?」


「ちょっと、リスキンドさんのせいで大惨事ですよ」


「オズボーンとキスするほうが悪いんでしょ」


「したんじゃありません、されたんです」


「そうですよね」とラング准将。「祐奈はオズボーンにキスされた。以前そのことを聞かされた時の、あの感情が蘇ってきましたよ」


「う……前も言いましたけれど、あれはヴェールの上から無理矢理されただけで、なんていうか、犬にこう、ベロンと舐められたみたいな感じで、事故っていうか――」


 大慌てで言い訳していたら、ラング准将が微笑んでいることに気付き、はたと我に返った。


「ま、またからかって……ひどいです」


「すみません。でもやっぱりオズボーンには腹が立って。前にも言ったと思いますが、あなたに怒っているわけではないのです。――私はあなたが好きなので、どうしても私情を挟んでしまいますが、それはそれとして、オズボーンのしたことはやはりありえない。女性に無理矢理キスをするというのは、痴漢行為ですよ。犯罪です」


「これはかばうわけではないのですが、オズボーンさんって常軌を逸したサイコパスなので、痴漢くらいだと軽めに感じてしまって……変な理屈ですが」


「確かにまぁ、彼はイカレているから、殺人・拷問くらいは普通にやりそうだなと思ってしまう。こちらの判断基準が狂うというのも分からなくもないが……」


 ラング准将が結構な毒を吐き、聞いていた祐奈は『そうなの』と激しく同意してしまった。


 でもやっぱり、痴漢って相当気持ち悪いよね。そんなことを考えていたらば……


「祐奈っち。そんな呑気な顔している場合じゃないよ」


「呑気って……元々こういう顔なんですが」


「俺が祐奈っちの立場なら、オズボーンとのキスの件で、どうやってラング准将に許しを乞うか、今頃必死になって頭をフル回転させているところだけどね」


「え……なんで? 彼は私には怒っていない、って……」


「でも不貞を働いたわけだから」


「不貞じゃないです」


「結果が全てなのだよ。――君はラング准将という人がありながら、オズボーンとキスをした薄情な女だ」


「でも王都にいた時ですよ? あの時はラング准将とは両想いじゃなかった」


「じゃあオズボーンが好きだった?」


「いえ、それはないけど――」


「好きじゃない相手からキスされたのに、『オズボーンだから仕方ないな』で済ませちゃうんだ」


「違――」


「祐奈っち、語れば語るほど、ドツボに嵌まっていっているよぉ」


 だ、誰のせいだと……!


「次の町に着いたら可愛い下着でも買ってさぁ。夜、せいぜい頑張んなさいよ。ラング准将に媚びるんだよー」


 ずっと黙っていたカルメリータが、ここで地を這うような低い声を出した。


「――リスキンドさん。私は次の町であなたを煮るための鍋、『ジャッフェ』を買います。本気です」


「カルメリータ」ラング准将が瞳を微かに細めて声をかける。「金は私が出す」


 どうやらラング准将は祐奈がいじめられ、すっかり狼狽しているのを見て、思うところがあったようだ。オズボーンとキスしたかどうかのくだりでは、ラング准将のSっ気が少し出てしまい、放置プレイをしていたのだが、そのあと事情が変わった。


 ――下着云々の性的なからかいを受けて祐奈が赤面して俯いてしまったので、恋人が他の男からそんなことを言われたら、ピリつくのも無理はないのかもしれなかった。祐奈を恥ずかしがらせてよいのは、自分だけだと。


 リスキンドはさすがにまずいと悟ったらしく、ピタリと口を閉じ、背筋を伸ばして座席に座り直したのだった。


 ――床に寝そべっていたルークが斜め上に視線を向け、リスキンドをじろりと一瞥し、『そろそろあんたも淑女の扱い方を学ぶべきだぜ』と言わんばかりの、渋い表情を浮かべてみせた。



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