第148話 『氷雪』
結局その日はアターベリー大聖堂に宿泊することとなった。
ギグの花嫁が聖具の剣を持って来てくれたので、すぐに魔法を取り込み、ここを発ってしまっても良かった。
しかし時間がなんとも中途半端だったのだ。――急ぎ出発しても、いくらも進まない内に日が暮れてしまうだろうから、どこかで宿を確保しなければならなくなる。それなら一泊して早朝発とうかということになったのだ。
ヴェロニカとミクロスは部屋にしけこみ、楽しく過ごしているようだ。
お付きの者もまだ到着していないから、婚礼の儀も挙げられないし、二人にとっては会えなかった期間の埋め合わせをできるので、この状態は願ったり叶ったりというところなのかもしれなかった。
――翌朝。祐奈はエントランスで聖具を前にして佇んでいた。傍らにはラング准将、リスキンド、カルメリータ、可愛い白黒のルークもいる。
実は朝方、ヴェロニカ姫が部屋に訪ねて来て、聖具の剣をラング准将に手渡して行ったらしい。――昨日、彼女が登場した際は、祐奈たちは二階の廊下から眺めおろしていたので、結局挨拶らしい挨拶もできていなかった。
二人は寝室に籠りきりだったし、祐奈たちは夕食を部屋に運んでもらって気楽に過ごしていたので、昨日は顔を合わせる機会もなかった。
ヴェロニカは意外と律儀というか、『剣を早く渡しておかなければ』と気を遣ってくれて、早朝訪ねてくれたのだろう。祐奈は自室で眠っていたので、挨拶もできずに少し申し訳なかったのだが、なんとなくヴェロニカは気にしなそうだと思った。
「どんな魔法を入れるのですか?」
ラング准将に尋ねられ、これについてはずっと決めていたので、祐奈はヴェール越しに彼を見つめて答えた。
「攻撃魔法を入れようと思います。――氷の魔法を」
レップ大聖堂で祐奈はアンから(当時はアリスが行使者だと思い込んでいたのだが)炎の魔法で攻撃されている。
最終的に二人の聖女は激突する運命にあるようなので、こちらは炎に対抗できるものを習得しておく必要があった。
――ラング准将は祐奈の答えを静かに受け止めていた。
宿を経営していたミリアムから告げられた、予言めいた言葉――『この娘は、氷の女王。夜を統(す)べる者。破滅をもたらす』――それを思い出していたのだ。
「――魔法を取り込む際、あなたに触れていてもいいですか?」
ラングが尋ねると、祐奈は少し驚いた様子だった。肩がピクリと動き、緊張したように背筋が伸びている。彼がそんなことを求めたことはこれまでなかったので、当然の反応ではあるだろう。
祐奈はじっとこちらを見つめてから、小さく頷いてくれた。
「は、はい。お願いします」
ラングは思わずくすりと笑みを漏らしてしまった。
……お願いすることなど、君のほうにはないはずなのに……。可愛い。
パーソナルスペースを侵し、彼女の領域に踏み込む。さらりと手首を掴み、緩く拘束する。彼女は逆らわなかった。
『――氷雪(ひょうせつ)――』
互いの境目がなくなって、溶け合っていくような感じがした。
指先に触れた淡雪が、じわりと滲み、水に変わっていくかのように。
ジンとした痺れが指先から腕へと上がってくる。血液が巡るように、末端から心臓へ、そして全身へと伝わっていく。
愛おしい、と彼は思った。
最後の瞬間まで、ずっと君のそばに。
何があっても離れはしない。
――私は君のものだ。
***
荷造り、荷積みをしている時間は、引っ越し作業を思い出す。
手伝いたいと申し出たのだが、カルメリータに弾き出されてしまった。こういった裏方作業は彼女の領分だ。下手に手を出すと、邪魔になってしまうなと祐奈も思った。
馬車は二台あり、内一台が荷物用になっている。祐奈が圧縮をかけて荷物を減らしてしまっても良かったのだが、元々二台編成で動かしていたものを、途中で減らすのはあまりよくないというので、同じスタイルで移動を続けていた。
たとえば途中で脱輪した場合、二台あったほうが対策を取れる。そうなると積荷が空というのも周囲に不審がられるから、やはり下手なことはしないほうがいいとなったのだ。
――魔法は確かに便利なものだが、だからといって乱用し過ぎてもだめなのかも。なんだか色々と考えさせられる。
手伝いを拒まれてしまったので、祐奈は乗る用の馬車のところで時間を潰すことにした。ルークもこちらに来ていて、足元でお座りしている。近くを黄色いちょうちょが飛んでいて、ルークはそれを横目で見上げていた。なんとものどかな空気だった。
――そこへラング准将がやって来た。馬車のそばで向き合って佇み、会話を交わす。
「ミクロスさんは幸せいっぱいですかね」
祐奈がそう言うと、ラング准将は淡い笑みを浮かべて、こちらを見返してきた。……それはなんというか、彼独特の大人な振舞いだと祐奈は思った。
内心ではミクロスに対して少し呆れているのかもしれないし、本当のところは彼らの結婚についてはどうでもいいと考えているのかもしれない。
けれどアンバーの瞳には深みがあり、達観していながらも、他者に対しての優しさがあるように感じられて。――そんな彼の在り方はやはり素敵で、思わず惹き込まれてしまう。
「彼は一刻も早く結婚したかったから、ヴェロニカが来るまで、一日千秋の思いだったのでしょうね」
ラング准将の声音は相変わらず落ち着いていて、そんなところもやはり好きだな……と祐奈は思った。
「ヴェロニカさんは手紙に『結婚が楽しみで、毎日が喜びに満ちている』と書いてきたのですよね。――それにミクロスさんは『今の時期を楽しく過ごされているのは、あなただけだ』と不快感を示した。……少し拗ねていたのかな? 待つ時間が、僕はこんなにつらいのに、って」
「気持ちは分からなくもない」
ラング准将が、こちらを惑わせるような台詞を口にする。
え……と思って、まじまじと彼を見上げてしまった。けれどラング准将は軽く微笑んでみせ、追及されるのをさらりと躱してしまうのだった。
「――祐奈はいつ彼の性癖に気付いたのですか?」
「実は……初めて会った時に、もしかして、って」
「そんなにすぐ?」
彼は意表を突かれたようだ。
「『なんでもいたします。どうぞご命令ください』と彼は言いましたが、かなり独特な言い回しでした。それにその時の目付きがかなり本気に見えたもので……ミクロスさんは立場が上の女性から、何かを強要されるのが好きな人なのかなと思ったんです。聖女は国賓として扱われるようなので、もしかすると『無理難題を押し付けられるんじゃないか』と内心楽しみにしていたのでしょうか。――その後リンダさんが訪ねてきて、『ヴェールの聖女のお噂は伝わってきておりますよ。気が強く、気分屋で、独裁者』とおっしゃっていたので、それで点と点が繋がったというか」
――結局、祐奈はミクロスの期待に応えられなかった形になるが、彼のためにはそれで良かったのかもしれない。だって彼はもうすぐ結婚する身なのだから。
ミクロスはヴェロニカに恋していたようだが、そうであってもそれはそれとして、ヴェールの聖女が来たら『無茶な命令をしてもらえるんじゃないか』と目を輝かせていたわけだから、欲望に忠実というか、彼にはかなり軽薄なところがあるなと思った。
……けれどまぁ、ヴェロニカは頭が良くしっかりした女性のようなので、ミクロスのそういう浮ついたところを、これからしっかり調教していきそうではあるけれど。
「祐奈は純朴かと思えば、妙に男女間の機微に通じているところがありますよね」
「それはその……元の世界に居た時に仕入れた知識で」
なんせこちらの世界とは情報量が違う。インターネットがあるかないか――その違いは大きいのではないだろうか。それに元の世界は、ドラマ、映画、漫画、小説など、創作物も桁違いに多かった。あれだけ溢れ返っていると、貪欲に知ろうとしなくても、日常生活で自然に吸収されていくものだ。
「どんな知識ですか?」
尋ねられた祐奈はなんともいえない気恥ずかしさを覚え、顔が熱くなってきた。……けれどちゃんと話さないと、ラング准将は気になるだろうなと思った。
「ええと、SMという概念がありまして……。ざっくり言うと、Sがいじめる側で、Mがいじめられる側なんです。互いに愛のある関係というか、ニーズが合っているんです」
「祐奈はどちらですか?」
「ど、どちらでもないです」
噛んでしまった。ラング准将が微かに小首を傾げるようにしてこちらを眺めおろしてくるので、祐奈はますます居たたまれない心地になった。
この爽やかでめちゃくちゃ格好良い人に、SMについて語り、聞かせているこの状況……どうかしていると自分でも思う。
「――初めて聞く概念です」
ラング准将がにっこり笑い、自然な動作で自身の右手を後ろに回した。彼の腰あたりに。
そのあとは、あれよあれよという間に事態が進んでいった。
祐奈は彼に手首を拘束されたと思ったら、ガチャリと小さな金属音が鳴るのを聞いていた。
呆気に取られて音のしたほうを見おろす。――するとどういうわけか右手首にピンクのファー付き手錠をはめられているではないか。
ラング准将は手錠の片側に祐奈の手首を嵌め、そしてもう一方は、馬車の取っ手に固定してしまった。感心してしまうほど、鮮やかな手口だった。
「え……?」
ラング准将の身に纏っている騎士服(フロックコート)には、背中の腰部分に飾りベルトが取り付けられているのだが、金色のボタンで両端を留められたそれに、どうやらこのファー付き手錠を引っかけておいたらしい。それを祐奈の隙を突いて、こうして彼女の手首に嵌めてしまったわけである。
「今朝方ヴェロニカが剣の聖具を届けてくれた際、これも一緒にいただきました。ヴェールの聖女へのプレゼントだそうですよ。お茶目な贈り物ですね」
「でも私、Mじゃないんです!」
「ではSなんですか?」
「違います」
「ところで」
ラング准将が微かに瞳を細め、悪戯に祐奈を眺めおろした。
「――私はどちらに見えますか?」
彼の口元には優美な笑みが浮かんでいて、まるで高尚な趣味について語っているかのような気品が漂っていた。
清廉そうな佇まいのせいで、なんだかその何倍も、ちょっとした仕草が淫靡で気まぐれに見えてしまうのは、受け手側の邪念のせいなのか……。
『彼は私をどうするつもりなのだろうか』――祐奈は自身の手首に嵌められた手錠を見おろし、軽い眩暈を覚えていた。
16.野蛮な国(終)
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