第146話 ミクロス王子の屈辱
リンダが続ける。
「ヴェロニカはゆでたジャガイモを皿に取り、それをフォークで汚くグシャリと潰して、それを皿ごとミクロスのほうに押しやったのです。『お食べなさいよ』と彼女は小馬鹿にした調子で言いました。――家畜のような扱いをされ、ミクロスは怒りで顔を赤らめ、固まっていました」
「それでどうなりました?」
「ミクロスが手を付けようとしないので、ヴェロニカは皿に手を伸ばし、今度はニックのほうにそれを押しやりました。『じゃあ、あなたにあげるわ』と言って」
「ニックさんは怒りましたか?」
「意外なことにニックは笑い、素直にそれを食べました。従順な態度でした。そして彼がこう言ったのです。『君が俺の花嫁だったら、今ので頬を叩いているところだぞ、じゃじゃ馬め』と。するとヴェロニカは眉一つ動かさずにそれを聞き、視線をミクロスのほうに転じて、『あなたは弟の躾もできていないようね』と嫌味を言ったのです。――その夜、ミクロスはどうしても腹の虫が治まらなかったのでしょう。ヴェロニカの部屋に行き、彼女を怒鳴りつけました。彼女も黙って聞いているような性分ではございませんから、そこから大喧嘩に発展しまして。廊下にまで罵り合う声が響いてきたほどです。ミクロスがあんなふうに怒るのを、私は初めて聞きました。花瓶が割れる音や、椅子を倒す音が響き、少したってから彼が部屋から出て来ました。すると彼の頬が赤く腫れているではありませんか」
「ヴェロニカさんに殴られたのですね。ええと……ミクロスさんも彼女を殴ったのでしょうか?」
「いいえ。私も気になりましたもので、それについて尋ねましたら、『僕は女性に手を上げたりしない』と顔を強張らせていました。こんな時くらいルールを破ってもいいのに、と私は思ったものです」
「そういえば、弟のニックさんとはまだお会いしていませんが……」
訪問時に対応してくれたのはミクロスだったし、それからすぐに部屋に案内されて、今に至る。これから会う機会もあるのだろうか? と思ったら……
「ミクロスがニックを国外に出してしまったので、聖女様がお会いになる機会はないでしょうね」
「なぜ国外に?」
「ニックの性格からして、聖女様に無礼な振舞いをする恐れがあると、ミクロスは考えたようです。だったら国から出してしまおう、と」
「どのくらいの期間をお考えなのでしょう?」
「本人には『二年は戻るな』と言っていましたわ」
ちょっと長いな……。
「ニックさんが国外にいらっしゃるのでは、彼をヴェロニカさんと結婚させるという、あなたのアイディアは実現不可能ですね」
「だけどそれは、聖女様がすぐに呼び戻してくださればいいじゃないですか」
簡単に言うけれど、なぜリンダはこちらがそれを叶えて当然と思っているのか。
面倒なので結論は出さずに、話を続けることにした。
「三度目の面会は?」
「それについては思い出すのも気分が悪くなります。三度目も、ヴェロニカのほうがアターベリーに来ました。彼女は体のラインがそのまま出るような下品なドレスを身に纏っていました。それから趣味の悪い指輪を手袋の上から嵌めていました。しかも右手と左手、両方に! どれも大ぶりな宝石が毒々しく輝く、派手な指輪です。それから彼女はミクロスを意のままに操るため、剣の聖具を持参していました。それを無造作に床に放り投げ、彼に告げたのです。――『私の大切なものが欲しければ、跪いて乞うことね』と」
「ミクロスさんはどうしました?」
「剣の聖具を手に入れられなければ、国際問題に発展します。彼に拒否権はなかった。ミクロスは従順に跪き、乞いました。しかしヴェロニカは前代未聞の悪女です。『爪先にキスしなさい』と冷ややかにミクロスを見おろしながら、服従を求めました」
「うらやましい……」
場違いな呟きを漏らしたのはリスキンドである。そういえば彼はSっ気のあるゴージャスな美女がドストライクなので、ヴェロニカはまさに理想の女性であるのだろう。
屈辱的な行為も、リスキンドにとってはご褒美でしかないらしい。
ラング准将はリスキンドを凍えそうな視線で流し見ている。これはあとでお説教コースだろうなと祐奈は考えながら、リンダに尋ねた。
「ミクロスさんは足にキスをしたのですか?」
「さすがに躊躇っていました。すると苛立ったヴェロニカが手袋を脱ぎ、それを握り締めて彼の頬を打ったのです。革製の手袋でしたから、振り回せばかなりの威力になります。それに手で殴るよりも屈辱的でもある。彼はショックを受け、言葉を失っていました。――そして再度、ヴェロニカはキスを求めました。彼女は爪先と足の甲がむき出しになっている華奢な靴を履いていたのですが、ドレスの裾を摘まみ、右足を少し前に差し出してきたのです。ミクロスは床に両手をつき、頭を低く下げて、彼女の爪先にキスをしました」
祐奈は眉根を寄せ、考えを巡らせていた。
なんというか、これって……
「それで彼女が持ってきた剣の聖具は?」
「それはヴェロニカがギグに帰国する際、持ち帰ってしまいました。ですから今ここにはありません」
エントランスで盾しかないのを確認しているのだが、以前ヴェロニカがアターベリーに剣を持ち込んだという先の話を聞いて、その時に置いていき、どこかに保管してあるのでは? と思ったのだが、期待は外れた。
――それではやはり明日、花嫁が剣の聖具を持って来るのを待たねばならない。
「助けてくださいますよね? ミクロスは聖女様がいらした際、ものすごくへりくだっていたでしょう? あれは彼らしくない態度なのです。結婚がよほど嫌なのですわ。それで聖女様に破談にしていただけないかと、期待しているのです」
「私を過大評価しすぎなのでは?」
「アターベリーにもヴェールの聖女のお噂は伝わってきておりますよ。あなたはかなりその……すごいらしいですね。気が強く、気分屋で、護衛騎士を性的な意味を含めて、好きに扱っていらっしゃると伺っております。――私それで、頼りになる方だなと思いましたの。そういう独裁者ならば、ギグにも臆さず、強気に発言してくださるのではないかと」
祐奈からすると『えー、嘘ー……』だった。テンション下がりまくりである。
王都シルヴァースを発つ前の、ショーにセクハラしたという例の一件が、そのように歪んだ形で伝わっているのだろうか? 『皆から無条件に好かれたい』という野望があるわけではないから、別にいいといえばいいのだけれど、それでも噂って怖いなと思った。
――それにこのとおり実害も出ている。リンダは誤った情報を耳にして、祐奈に独裁ぶりを期待しているのだから。
リンダもリンダで呑気というか、祐奈が本当に気難しかった場合、手を煩わせたことで自分がひどい目に遭わされるかもしれないとは考えていないところが、なんというか独特な感性だと思った。自己中心的すぎて、バランス感覚を欠いてしまっているのではないだろうか。
「――ミクロスさんにお伺いしたいことがあるのですが」
「ではすぐに連れてまいります。そうですわね、一緒に話したほうが」
彼女も当然のように同席しそうな勢いである。
「リンダさんがいらっしゃると彼も話しづらいこともあるかもしれません。ミクロスさんだけお越しいただけると助かります」
リンダはこれに少し面白くなさそうな顔をしたのだが、渋々了承して部屋から出て行った。
***
ミクロスはすぐにやって来た。
ソファを勧め、対面の席に腰かけてもらう。
「何か私に縁談の件でご質問があるとか」
彼は相変わらず厳めしい表情を浮かべていて、背中に定規でも挿し込んでいるかのような隙のない佇まいだった。
しかし初対面時の例の歓待ぶりだとか、部屋にフットワーク軽くすぐに駆け付けて来たことから判断するに、こちらに対して好意的ではあるようなのだ。現に彼の語り口はとてもソフトである。
「ご結婚を控えられて、今どんな気持ちでいらっしゃるのでしょう?」
「……良いとは言いがたいですね」
彼の面差しに苦悶の色が混ざる。
「お悩みでも?」
「いえ、そんな大袈裟なものでは。ただなんというか……これまでに色々あったもので」
「ヴェロニカさんのほうは、あなたとの結婚を望まれているのでしょうか?」
「彼女から手紙が届きまして、『結婚が楽しみで、毎日が喜びに満ちている』というようなことが書いてありました」
「あなたはなんと返信を?」
「今の時期を楽しく過ごされているのは、あなただけだ、と」
……うーん……。
祐奈の表情も難しいものになる。
「あの……大変不躾なお願いなのですが、彼女からのお手紙を拝見することは可能でしょうか?」
「なぜ?」
「ギグという国にとても興味がありまして」
「手紙は寝室にしまいこんであるので、出すのに時間がかかります。こことは翼(よく)が違うので」
「時間がかかっても構わないのですが」
「それは……しかし個人的な内容なので、申し訳ない」
「そうですか。こちらこそ無理を言ってすみません」
ミクロスは恐縮しつつ帰って行った。
***
後ろに控えていたラング准将がこちらに歩み寄って来た。
「今のは、なんですか?」
「……ラング准将はどう思いますか?」
身内だけになると、皆でいつものように席を囲む。ラング准将は祐奈の隣に、カルメリータは一人掛けの椅子を選んだ。リスキンドは対面の、先ほどまでミクロスが腰かけていた席の後ろに立ち、背もたれに肘を置いて、中腰の姿勢で寄りかかった。そして椅子の上にはルークが。
ラング准将が微かに瞳を細めて答えた。
「正直、興味はないですね。たとえ望ましくない縁組だとしても、ミクロスの立場からすれば、ある程度我慢を強いられるのは当然だと思います。逆にそうではないとしても、それはそれで、どうでもいいとしか……」
ラング准将は大局的に物事を眺める癖がついているので、今回のいざこざに関しては、心底興味を引かれないらしかった。
とはいえ祐奈だって、どうでもいいといえばどうでもいいのだ。リンダに名指しでグイグイ詰め寄られてしまったから、関わらざるをえなかったというだけで。
他人の個人的な事情に踏み込みすぎるとロクなことにならないのは分かっている。けれど対面であれだけの熱量でリンダに訴えられると、気になることも出てきてしまって、少し困ってもいた。
「ラング准将はリンダさんからの頼みごとを快く思っていらっしゃらないですよね」
「そうですね。明日花嫁が来るという話でしたから、到着次第、聖具から魔法を取り込んで発つべきかと」
ヴェロニカが剣の聖具を持って来て、アターベリーにある盾と組み合わせないと、魔法を習得することができない。――ラング准将はそのため明日までは待つけれど、そのあとはすぐに発ちたい意向のようだ。
「……確かに、それがいいかもしれません」
祐奈がラング准将の意見にあっさり同意したので、リスキンドは意外に感じたようだ。
「なんだ。あれこれ探っていたから、お節介を焼くのかと思っていた」
「なんていうか、やっぱり……『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』と言いますからね……」
「え、どういうこと?」
「……ちょっと説明しづらいです」
祐奈は返答を濁した。
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