14.過去との決別
第127話 ここが私のいるべき世界
周囲の景色が変わって来た。切り立った崖のあいだを進むような険しい箇所は少なくなり、起伏もなだらかになってきている。通りの幅も広くなった。
左右の景色が生い茂った樹木になったので、この深い林を抜ければ、カナンはもうすぐかもしれないと祐奈は考えていた。
――それで町に着く前に、ラング准将に話しておきたいことがあった。
馬上にいるので今はヴェールを着けていない。これはここ最近で定着した、祐奈とラング准将、二人のあいだのルールだ。彼は極力こちらを見ないようにしてくれるので、祐奈は安心してヴェールを外すというもの。
互いのあいだに距離があると顔が見えてしまうかもしれないので、祐奈は彼の肩にいつも額をつけていなければならなかった。いえ、でも――『つけていなければならない』という言い方は、語弊があるかもしれない。もしかすると祐奈のほうはそれを言い訳にして、彼に甘えていたのかもしれないから。
昨晩はポニーテールに括ったまま眠ってしまったので、髪に変な癖がついてしまい、朝の時点でどんな髪型にするか迷った。こうなっては結ぶしかないのだが、ポニーテールだとヴェールをかぶる際に後頭部の纏めた部分が邪魔になる。――それで結局、今日は緩く三つ編みにすることにした。
馬に乗る時、この髪型は意外と適しているかもしれないと祐奈は感じていた。髪が風で乱れて頬にかかってくることがないからだ。……ただ、結んでしまうと首が露出するので、心もとない感じはするのだけれど……。
祐奈は身じろぎしてから彼に話しかけた。
「あの……少しだけ馬を止められますか?」
「ええ」
ラング准将が巧みに手綱を操ると、馬は緩やかに徐行し、やがて足を止めた。それでも『なぜ止まったの?』とばかりに微かに首を動かし、足踏みするような仕草をしている。
「話したいことがありまして」
「下りて話しましょうか」
「――いえ、できればこのままで」
向き合ってしまうとハードルが上がりそうだった。現状でもかなり緊張している。
「私、ええと……話すあいだ少し振り返るので……ごめんなさい、こちらの顔が見えないように、横を向いてもらってもいいですか?」
わずかな時間の沈黙。もしかすると彼は微かに笑んでいるかもしれない。少し寂しげに。
「……怖いな。何か深刻な話ですか」
「私にとってはわりと深刻な話です。それで、あなたは……聞いたら怒るかも」
「あなたは結構頑張らないと、私を怒らせるのは無理ですよ」
「そうでしょうか?」
「そうですよ。――ちなみにどうやったら、私を怒らせることができるとお考えですか?」
祐奈は考えてみた。
「ええと、そうですね……たとえば、私があなたにお説教をしたらどうでしょう? ムカっときませんか?」
「お説教。それは昨晩のこととか?」
思いがけないことを言われて、祐奈はかぁっと頬を赤らめた。
「な、違――だってあなたは、悪いことは何も――」
「本当に? 馴れ馴れしくされて不愉快だったと、あなたは私を責めてもおかしくない」
「でも、私も馴れ馴れしくしましたし。むしろ私のほうがずっと甘えて」
「どんな点が?」
「あなたのベッドに潜り込んだでしょう?」
「私が引っ張り込んだとは考えないのですね」
「まさか!」
「なぜまさかと言えるのか」
「だってあなたは言いました。私がしがみついて離れなかったって」
「……意外としっかり覚えていますね」
「ああ、恥ずかしい……どうして蒸し返すの? もうやだ」
「怒りましたか?」
「ラング准将は意地悪です。私、大事な話があるって言ったのに、話す前に、こんなふうに困らせるなんて」
「すみません。……なんだか別れ話を切り出すような深刻な入り方をされて、動揺したのかも」
祐奈はヴェールを着けていないことも忘れ、パッと彼から離れ、半身捻るようにして、彼の顔を見上げていた。ラング准将は大変良くできた人で、最初に祐奈がお願いしたとおり、顔を横に向けていた。
彼の端正な横顔を眺める形になった祐奈は、何か言おうと口を開きかけ――そして閉じた。
ふと気付けば祐奈の手は、彼の胸のあたりに添えられている。そのことに妙に動揺してしまい、さらに顔が熱くなってきた。
「別れ話なんて……ありえない。あなたを私のほうから手放すなんて」
「私がいなくなると困るから?」
以前、同じことを尋ねられた。アリスと交差したレップ大聖堂で。
ラング准将が彼女について行ってしまったら……と怯えていたのに、あの時は勇気を出せずに、答えを曖昧に誤魔化してしまった。
だけど……だけど今は……
「困るというより、寂しい。そして悲しくて……耐えられそうにない」
「――祐奈」
あなたが名前を呼ぶ声は、なんだか甘く響く。
祐奈は恥ずかしすぎて顔も上げられない状態だった。だから今もちゃんと彼が横を向いてくれているのかを、確認することができなかった。
「……あなたは私に寂しい思いをさせてはいけないわ」
「命令ですか?」
「そうです。――そばにいなさいと命じたら、聞いてくれる?」
「命令よりも、お願いのほうがいい」
「じゃあ……寂しい思いをさせないで。お願い」
「分かりました。ずっとおそばに」
「約束よ」
「ええ」
彼が笑み交じりに答え、祐奈の頭をそっと引き寄せる。祐奈はふたたび彼に寄りかかる体勢になり、髪を撫でられていた。
……右耳に彼の指が触れて、その後戯れのように編んだ髪の束をいじられる。それがなんだかとてもくすぐったく感じられた。
「さっきは命令よりもお願いのほうがいいと言いましたが……そうでもないかも」
「ラング准将?」
「あなたの命令口調は可愛い。たまに聞きたいかな」
「……もうしない」
「どうして?」
「私って、すごく理不尽。今、すごく恥ずかしい」
「祐奈――」
「お願い、慰めたりしないで。もうこの話はやめる」
「ねぇ、祐奈。――私を捨てるという話でなければ、なんでも大丈夫ですから言ってみてください。私は落ち着いて話を聞けると思いますし、あなたを傷付けることもない」
祐奈は彼の促し方はなんとも奇妙だと考えていた。それじゃまるで、ラング准将にとって一番嫌な話題が、別離を切り出されることのように聞こえる。
……本当に彼はそれが嫌なのだろうか?
どうしてだろう……頬の熱が引かない。どうしてあなたは、そんなふうに優しく話しかけるの?
祐奈は彼の肩に額をつけたまま深呼吸をした。そして熱が引かないまま、口を開いた。
「私、カナンルートが死のルートだっていうことを知っていたのに、ずっとあなたに隠していたんです」
思い切って打ち明けると、しばらくのあいだ沈黙が流れた。
「あなたはいつそれを知ったのですか?」
彼の声音はとても穏やかだった。少なくとも腹を立てている気配は微塵もない。そのことに祐奈は少しほっとしていた。
「王都を出る前です。オズボーンさんにそれを言われたのですが、あの時の彼はなんていうか……ふざけ半分に見えたから、流してしまったの。私はあまり深刻に捉えることができなかった」
「無理もない。あの時点では何がなんだか分かっていなかったでしょう。周囲の状況も、自分が何を求められているのかも」
「確かに私は目の前のことで手一杯でした。とにかく――お金もなかったから、身一つで放り出されたらどうしようと思って、怖かった。そんなつらい状況の中でも、あなたは初めから親切でした。私、それで……ものすごくホッとして。あなたが一緒に行ってくれるなら、旅に出るのも怖くないと、前向きになれたんです。それで始めてしまったら、もう……失えなくなった」
涙が滲む。どうして自分が泣いているのか、よく分からなかった。申し訳なさからか、打ち明けたことでホッとしたからか。彼が優しいからか。
あるいは――今まだこうして、一緒にいられることが嬉しいからか。
「カナン遺跡に入る前に、私だけオズボーンさんに呼ばれて、二人きりで会話をしたでしょう?」
「ええ」
「その時に改めて言われました。私はカナンで死ぬのだと」
「だけどあなたは躊躇いなく遺跡に入った」
「私が逃げ出したら、ラング准将や、リスキンドさん、カルメリータさんが罪に問われると言われて。国家反逆罪になると。私……それは嫌だった。オズボーンさんに、赤い扉は必ず一人で通過するように指示されました」
「従う気だったのですね。あなたはあの場で、それを主張していた」
「自分一人の犠牲で済むなら、それもいいかと思ったの。――でも、私の判断は間違っていたと今では思います。あなたの気持ちを何も考えていなかった」
レップ大聖堂で過ごした数日間は、祐奈の内面世界に大きな影響を与えた。それまでは『他人に迷惑をかけてはいけない』という考えがとても強くて、『もっとしっかりしなければ、自立しなければ』と焦ってばかりいたけれど、ラング准将に叱られて、自分の間違いに気付くことができた。素直になり、相手に甘えることは、何も悪いことではないのだと。
そして本格的に彼への想いを自覚することになった。
――恋は自分を強く変えたのだろうか? 分からない。もしかするとある部分では、弱くなったのかもしれない。
彼の崇高さが時々怖くなる。職務のためならば、彼は命を犠牲にしてしまいそうだから。だけど祐奈は自分のせいで彼が死んだら耐えられそうにない。
どうしても彼を失えないと思った。元気に生きていて欲しくて。
隠しごとはやめようと決めたはずなのに、祐奈はあの時、個人的感情を優先してしまった。それで何も告げずに、自己犠牲的に赤い扉をくぐろうとした。
「ちゃんと話して欲しかったです。知っていれば、私は遺跡自体に入っていなかった」
祐奈は今ラング准将の肩口に額を押し付けていて、彼の表情を窺うことができない。しかし彼の声音には苦渋の感情が滲んでいるように感じられた。ただ静かで、ただつらそうだった。
聞いているだけで胸が痛んだ。滲んだ涙で視界がボヤケてくる。
「……あの時はそうなるのが嫌で、話せなかったの。でも隠しごとはやっぱり良くない。今はそう思います。ごめんなさい」
「あなたが大切です。失えない」
「私もあなたを失えない」
「それでも立場が違う」
「何も違わない……違わないの」
涙が零れた。祐奈の肩が微かに震えているのに、ラング准将は気付いたのかもしれない。
「……祐奈」
慰めるように名前を呼ばれた。静かなのに包み込むような優しさを感じた。それで彼に伝えたいと思った。
「ここが私のいるべき世界です。カルメリータさん、リスキンドさん、ルーク――それから精霊のアニエルカ、アイヴィー、ビューラ、ハリントン神父――沢山の素敵な人に出会った。――そして、あなたがいる。あなたはいつも私に勇気をくれるの。あなたが信じてくれるから、私、なんでもできるような気がして。傲慢に聞こえるかもしれないけれど、今なら何があったとしても、あなたを護れると思ったの」
「護衛役は私ですよ」
彼の注意は笑み交じりに優しく響いた。
「そうですね。……呆れましたか?」
「ご存知かどうか分かりませんが、実は私も相当な自信家なのです。どんな困難に直面しても、自分ならなんとかできると思っているし――私もあなたを護り切れると、信じています」
聞いていた祐奈は笑みを零した。彼がそう言うと単なる事実のように思えたからだ。それで緊張が解けてきて……彼にいっそう寄りかかるように体の力が抜けていく。彼はそれを受け入れ、包み込んでくれた。
「……体が溶けてしまいそう……。私、甘えすぎね」
気が緩みすぎたのか、素で呟いてしまった。
そうしたら彼が、
「この程度で? まだまだ足りないくらいだ」
と謎の注意(?)をしてきた。
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