第123話 おやすみのキス


 彼は瞬きしたあと、気まぐれを起こしたように右腕を伸ばしてきた。手のひらがさらりと祐奈の頬を撫で、首の後ろに回る。


「……去るならば、おやすみのキスを」


 祐奈は逆らわずに彼のほうに引き寄せられた。何をしているのだろう……そんなことを思いながら。起き上がったり、また寝転んだりと、さっきから進展があるような、ないような……


 祐奈は彼の胸の上で肘をつき、真上から見おろした。鼻先が触れそうな距離だ。頬が熱くなっているのが自分でも分かった。


 祐奈は小首を傾げるようにして顔の向きを変え、そっと彼の右頬にキスを落とした。こわごわと離れ、また元の位置に――鼻先がくっつきそうな正面に戻る。


 祐奈はぼんやりと彼の瞳を眺めおろしていた。


「……おやすみなさい」


「まだ足りない。祐奈」


「おやすみのキスに『まだ足りない』って、あるの?」


「君が課題をクリアしないと、永遠にここから出られない」


 彼は相変わらず右手で祐奈の首のうしろあたりを揉んでいる。温かくて、不思議な心地だった。


 そのうちに彼の左手が腰の辺りから差し込まれた。セーラー服なので隙間がある。背骨を直接撫でられ、祐奈は居心地の悪さを覚えた。


「くすぐったい……」


「拒絶するなら、殴るくらいのことをして、止めてくれ」


「私次第だというの?」


「そうだ。俺の良心に期待しないで。もうとっくにまともじゃない」


 左腕がさらに上がって来る。祐奈は浅く息を吸い、まるで陸に上がった魚のようだと考えていた。……明日の朝日はもう拝めないかもしれない。たぶん自分はこのまま心拍数が上がりすぎて、死んでしまうに違いない。


「待って……ラング准将」


「その程度で止まってもらえると思っているなら、君は愚かだ」


「これは夢よ……そうでしょう?」


「夢だと思いたいの?」


「順番を守ってない。私はヴェールを外していないし――」


「今は外している」


「違う。あなたとちゃんと向き合って、心をオープンにして、外すの。質問も百個終わっていない」


 彼の動きが止まった。祐奈は眉尻を下げ、泣き言を零した。


「こんなの違う……私は順番を守りたい。ちゃんと告白もしていないし、ちゃんとOKももらっていない。酔ってするのは、嫌」


「……ぐうの音も出ない」


 彼が小さく呟きを漏らした。力の抜けた口調で、客観性を取り戻したようにも感じれたから、祐奈はほっとした。しかし気を抜けたのも、束の間のことで……


「分かった。もう少ししたら、帰してあげる」


「今じゃないの?」


「俺からもおやすみのキスを返すよ。君からされて終わりじゃ、フェアじゃない」


「ええと……そうなのかな?」


「ほら――そんなふうに肘を突っ張っていないで、力を抜いてくれ」


 確かに今の状態は、ラング准将を下敷きにしていて、かつ祐奈が彼の胸の上に肘を置いてしまっているので、体重が局所的にかかって痛い思いをさせていたかもしれない。


 体を起こして両手をベッドに突こうとしたら、彼が肘のあたりを掬い上げた。祐奈はダイブするようにラング准将の上に落ちてしまった。胸が自重で勢いよく潰れ、目を白黒させる。


 祐奈はラング准将の首筋に鼻先をこすりつけていた。起き上がろうとしても、後頭部を抱え込まれ、それも叶わない。


 彼が祐奈の右耳を撫でる。彼は少し横向きになるように体の向きを変え、祐奈のこめかみにキスを落とした。そして額に。またこめかみに。


 彼が肘をつき、上半身を起こした。ふと気付けば、さっきとは体勢が反転している。祐奈は仰向けにされ、彼の端正な顔を見上げていた。


 ――見上げた光景は、この上なく淫靡だった。仄暗く、退廃的で、艶めいている。


 彼がそっと頬にキスを落とした。彼に触れられた場所が、火傷したかのように熱くなる。


 祐奈は潤んだ瞳でじっと彼を見上げていた。


 さっき彼は、拒絶するなら、殴るくらいのことをして止めるように言っていた。けれど、絶対に無理だと祐奈は思った。そんなことはできそうにない。


「――君は俺に感謝すべきだ」


「どうして?」


「先ほどの君のスピーチに感銘を受けたよ。つまり……これでやめてあげる。親切だと思わないか?」


 祐奈はなんとも言えなかった。


 親切だとは思えない……そんなことを考えていた。


 全然優しくなんかない。


 彼はひどい男だ。



***



 これでやめてあげると言われたけれど、祐奈はすぐに解放されたわけではなかった。


 彼がもう少しベッドに留まるよう命じたので、祐奈は「お酒が欲しい」と小声で懇願した。――これ以上は耐えられそうにないと思ったからだ。緊張しすぎて死んでしまう。


 彼がベッドに入る前に飲んだ酒の残りがあった。ベッドサイドテーブルにあったグラスを彼が渡してくれたので、祐奈は一気に琥珀色の液体を煽った。……かなり強い酒だ。ウイスキーだろうか。


 それからぼんやりしてきて……


 祐奈は緩やかに覚醒した。うつ伏せで寝ていたようだ。そっと瞳を開くと、すでに明るくなっていた。


 はっとして体を起こす。……自分一人だ。見回すと、祐奈にあてがわれた部屋だった。調度類に見覚えがある。


「あれ……え……?」


 口元を押さえ、考え込む。


 彼のベッドで目を覚まして……でもあれは、実際に起きたことなの? 見おろすと、セーラー服は皺くちゃになってしまっていた。なんだか申し訳なくなってくる。――そうだ、脱いだあとで回復魔法を使おう。二十四時間戻せば、皴のない状態に戻るはず。


 ――て、そんなことより、問題はラング准将だ。


 昨夜の彼はなんていうか……すごく……


 祐奈は頬がカッと熱くなった。でも……変じゃない? やっぱり夢かも。ありえない。祐奈がしがみついて離れず、渋々自分のベッドに寝かせたというあたりまでは、まぁありえそう。


 けれど背中を撫でたり、おやすみのキスを強要したり、なんてことを彼がするかな? それは激しく疑問だった。


 もしかすると祐奈は自分でも気付いていないけれど、欲求不満に陥っていて、あんな淫靡な夢を見たのかもしれない。


 ベッドを整えているうちに目が覚めてきた。


 ドレスに着替え、身支度を整え、ヴェールをかぶる。ヴェールはベッドサイドテーブルの上に置かれていた。


 続き部屋に出てみたのだが、寝具は整えられていて、彼の姿はなかった。昨夜の名残りなど、どこにもない。


 階下に下りてダイニングに向かう。――ラング准将が席に着いていた。相変わらず端正な佇まいだ。


「おはようございます、祐奈」


「……お、おはようございます」


 祐奈のほうは挙動不審そのものだった。まるでコソ泥のようだと自分でも思ったくらいだ。


 頭の中がこんがらがってきた。彼の顔を見たら、あの出来事が祐奈の妄想だったのか、そうではなかったのかがはっきりすると思っていたのだが、そんなことはなかった。リアルに対面すれば何かしらヒントが見つかるはずという見通しは甘かった。


 いや、でも……やはり彼がいつもどおり過ぎるから、あれは夢だったということになるのかな? 現実だったなら、もう少し気まずそうにするよね?


 そこへサラダを持ったミリアムがダイニングに入って来た。


「朝食にするよ。……ヴェールをしたままで食べられるのかい?」


 祐奈は別のことに気を取られていたので、すぐに反応することができなかった。無言で立ち尽くしている祐奈の姿を見て、ミリアムが呆れたように片眉を上げる。


「なんだい、おかしな子だね。口がきけなくなったのかい? まぁ元々自己主張は得意なほうじゃなさそうだしね」


 するとラング准将が穏やかに口を挟んだ。


「そんなことはありません。彼女はいざとなったら、上手に主張を通します」


「おや、そうなのかい?」


「――彼女の見事なスピーチは、昨晩、私に感銘を与えました」


 そのフレーズに祐奈の記憶が刺激された。昨夜ベッドで彼に言われた台詞だ。


 唖然として彼を見遣る。にこりと優美に微笑んだ彼の顔を眺め、祐奈は頭を殴られたような衝撃を覚えた。


 ――顔が熱い。指先も。


 祐奈はすっかりのぼせ上がり、席に着くまでに、相当な苦労を要した。






【後書き】


 12.氷の女王(終)


***


 ※出発の朝、ミリアムは祐奈たちの前ではサバサバした態度を取っていましたが、通りに出て彼らを見送り、完全に見えなくなったあとで、足元の小石を蹴って、しょんぼりしてしまいました。


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