第122話 責任を取ってくれ
夜も更けてきた頃、ミリアムが編み棒を太腿の上に落とし、茫洋とした瞳でこちらを眺めていることにラングは気付いた。
祐奈は相変わらずラングに横抱きにされていた。眠いようで彼の首のあたりに額をつけてウトウトしている。そんな安心し切った祐奈のことをミリアムは見ているようだった。
「――この娘は、氷の女王」
不意にミリアムが呟きを漏らした。
「夜を統(す)べる者。破滅をもたらす」
ミリアムの白みがかった瞳がラングのほうに向く。
「世界にとっては厄介な存在だ。お前さんはどうするね?」
「祐奈のそばに」
ラングが答えた。迷いのない言葉だった。
ミリアムは小さく頷いてみせた。彼女は少しホッとしているようにも見えた。
「ならば、そうするがいい。――最後のその時まで、一緒に居ておやり」
***
記憶が断片的にしか残っていない。心の重しがすっかりなくなったかのようで、祐奈はとてもリラックスしていたと思う。
夕食の席で、ラング准将はかなりお酒を飲んでいたようだった。……どうしてだろう? よく分からない。
こま切れの短い映像として、彼の様子(あるいはミリアムの様子)は脳内でほんの少しだけ再生されるのだが、その時、自分がどう振舞っていたのかというのは、ほとんど思い出すことができなかった。まるで夢の中の出来事みたいに、記憶を探ろうとすると、それらは遠ざかって行く。
夕食を終えて、それから……?
暗がりの中、祐奈は目を開いた。なんだか窮屈な感じがした。左半身にはシーツの感触。ベッドの上にいるのは間違いがない。カーテンが開いていて、窓から月明かりが射し込んでいるので、かろうじてそれが分かった。
お腹の周りに何かが絡みついている。それがたぶん祐奈を息苦しくさせている原因だった。
そして目の前に、手があった。これは自分のものではない。だって指、手のひら、手首、肘……と遠い部分から順に視線で辿って行くと、それは祐奈の左耳の下まで続いていたから。つまり――ええとつまり、祐奈は誰かに腕枕をされている状態なのだ。
男性の腕だ。なんとなく見覚えがあるというか……
ああ……ラング准将……! 祐奈は呻き声を上げそうになった。祐奈はラング准将の腕枕で横になっている。それは間違いがなさそうだった。ということは、このお腹に回されている腕も彼のものだろう。
なんてことをしてしまったのだろう……!
セクハラだ。たぶん彼にセクハラしてしまったのだ。そうに違いない。
ほとんど覚えていないのだけれど、そもそもの発端は、ミリアムに飲まされた謎の液体だろう。確か彼女は『人恋しくなる薬を飲ませた』と言っていなかったか?
断片的に――彼に抱っこされている場面が蘇り――ええ? 嘘でしょう? と祐奈は目を見張ってしまった。……あれ、夢だよね? あんなこと、実際にはしていないよね?
自分が(図々しくも)ラング准将の首に腕を回している場面が浮かび、祐奈は強制的に意識を切り替えることにした。
精神衛生上、これ以上あの場面について考えるのは良くない。夢だ。妄想だ。とにかく、そう――深く探ってはならない。
それでどうなったのだろう? 夕食を終え……そこからの記憶がない。(とはいえ夕食の記憶だって、ほとんど残ってはいなかったのだが……)。祐奈は酔って、彼のベッドに潜り込んでしまったのだろうか?
二人の寝室は別々で、配置的には隣合っていた。繋ぎ部屋で、ラング准将の部屋が手前にあり、祐奈の部屋は奥にある。手前の部屋を通過しないと、奥には行けない仕組みだった。
おそらく平素の彼ならば、祐奈が潜り込んで来たなら、隣室の彼女のベッドまで運んでくれたのではないだろうか。同じベッドに寝かせてやるほど、彼も寛大ではないはずだ。さすがに『いくらあるじでも、図々しい。冗談じゃない』と拒否しただろう。
しかし彼は酔っていたから、その気力もなかったのだろうか? あるいは――眠りに落ちたあとで祐奈が潜り込んだので、まだ気付いていないのかも。彼は抱き枕の要領で、そばにあったもの(つまり祐奈の体)を抱え込んでしまった?
ごめんなさい、ラング准将……なかったことにしますね。
祐奈はセコイ手で切り抜けることに決めた。こうなったら現時点でまだラング准将が泥酔していることに賭けるしかない。普段の彼なら気配に敏感だから、祐奈が身動きしたら、すぐに覚醒してしまうだろう。しかしいまだ酒が残っているならば、彼が目を覚ます前に、ここを抜け出すことができるかも。
そっと身じろぎする。頭部は固定されていなかったので、肘をシーツにつくと、彼の腕枕から離脱できた。――視線を落とすと、自分がセーラー服をまだ身に纏っていることに気付く。
すると不意に腕が伸びてきて、側頭部を手のひらで包まれ、元の位置に強制的に戻されてしまった。
祐奈自身は何がどうなっているのかまるで分からなかった。彼のどっちの手が頭にあって、どっちの手が腰に巻き付いているのか……
分かっているのは、ミイラが全身に包帯を巻かれているみたいに、祐奈はラング准将に包まれているということだった。もうこうなってくると、祐奈はラング准将の一部なのかもしれない。自分でも、切れ目が分からないくらいなのだから……。
彼が寝ぼけているのかどうか、状態を確認しなければならなかったので、祐奈は恐る恐る話しかけてみた。
「あの……ラング准将……?」
返事がない。無反応であるし、拘束も緩まなかった。
……やはり寝ているのか?
もう一度身じろぎして脱出を試みたのだが、きゅうっとさらに締め付けがキツくなったので、『なんかこういう罠みたいだな』と思った。もがけばもがくほど、縛りがキツくなる。
「私、その……自分のベッドに戻らないと」
「……祐奈」
「はい。祐奈です」私は祐奈です――なんだか、英文の和訳みたい。「なんでこんなことに……」
「二人とも酔っていた。特に君はひどくて……しがみついて離れなかった」
「なんてこった」
「何もなかったから安心してくれ。意識のない女性に無体なことはしない」
「そ、そうですか」
こちらに性的魅力が欠けていたからでは? ふとそう思ったが、悲しくなりそうなので口に出すのはやめておいた。
「……俺はほとんど絶望したと思う……君はひどい女だ」
「なんで?」
祐奈はぎょっとしてしまった。囁くような、独白のような彼の呟き声は、背後から聞こえてくる。表情が窺えないので、冗談なのかなんなのかも分からなくて……闇の中にいる現状のように、何もかもがはっきりしなかった。
「君が離れようとしないから、ベッドに入る前に、さらに酒を飲んだ。だから今、相当酔っている」
「良かった」
「何がいいんだ」
……拗ねている? というような低い声音。彼にしては優しさや気遣いがない。
祐奈はそのことに、ほんの少し可笑しみを感じていた。なんか可愛い……本人には絶対に言えないけれど。
「自分のベッドに戻ります」
「……だめ」
「だめなの?」
「この状態は君が望んだことだ。責任を取ってくれ」
本当だ……彼はかなり酔っているみたい。支離滅裂だし、無茶苦茶だった。
こんなラング准将は初めてだと祐奈は思った。――今の状態に比べれば、バノンの町で十三歳当時に戻ったわんぱくな彼のほうが、まだ理性的だったように感じられるくらいだ。
「でも私……あなたと一緒だと眠れない」
困り果てた祐奈がそう言うと、やっと拘束が緩んだ。祐奈はゆっくりと彼の腕の中から抜け出し、上半身を起こした。
半身捻るようにして、彼を見おろす。枕に頭を置き、仰向けになった彼が、茫洋とした瞳でこちらを見上げている。
こんなアングルで彼を見おろしたことはない。やっぱり彼の造形は美しく、それでいて不思議とキュートだった。お酒でのせいで少しぼんやりしているようで、瞳から強い意志が消え、ただただ祐奈のほうを見つめている。
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