第121話 私の騎士


 夕食の席は和やかな空気が流れ、皆リラックスして食事を楽しんだ。


 気負いの抜けた祐奈は呑気にお喋りをしたし、よく笑い、その場を明るくした。


 時折厭世的なものの見方をするミリアムでさえ、祐奈が何か言うと、思わず天を仰いで笑い出してしまうことが何度もあった。ラング准将も朗らかな気分で相槌を打ち、やはり時折こらえ切れずに笑みを漏らしていた。


 食後もラング准将は祐奈と一緒にリビングに残ることにした。すぐに部屋に戻ることもなく。


 ……というのも食事を終えたら祐奈がラング准将にふたたび抱っこをせがんできたので、彼はそれに応じながらも、このまま部屋に戻った場合、自分の自制心がまともに機能するかどうか、あまり自信が持てなかったためだ。


 彼はこれまで自分自身を見事にコントロールしてきたし、戦場などの非常に厳しい状況においても完璧に平常心を保つことができていた。


 ところが彼は初めて危うさを感じていたわけである。――非常に危険――彼は先程の食料庫での一件を思い出し、改めて自戒せねばならなかった。


 薬を飲まされて平常心を失っている祐奈と一線を越えるのは、人としてどうかという気持ちはちゃんとあるのに、もう一人の破壊的な自分が、『細かいことは気にするな、流されてしまえ』と全てを台無しにしようとする。


 祐奈は祐奈でこちらの気も知らず、凶悪なほど可愛く迫って来るので、正直なところもう、お手上げの気分だった。


 彼女を膝の上に横抱きにしてソファに腰かける。ミリアムはほとんど横並びの位置にロッキングチェアを持ってきて、そこで編みものを始める始末だった。


 ……あの編み棒はいつぶりに引っ張り出したのだろう……ラングはそう思ったものの、ミリアムがいなくなったらなったでなんだか恐ろしいような気もしたので、覗き見する気満々の彼女を咎めはしなかった。


 薬が効いている祐奈は物怖じせず、あまり恥ずかしがらない。彼女はラングの首に手を回し、にこにこ笑いかけてくる。


 彼は気を紛らわすために、彼女に話しかけた。


「もしも今後……元の世界に戻れる方法が見つかったらどうしますか? 新しい聖具が発見されるだとか、何か画期的な魔法を思い付くだとかして」


 問われた祐奈は小首を傾げて考え込んでしまった。


 ラングは柄にもなく緊張していた。――これで『帰ります』と言われたら、どうするのだろう。そして祐奈にとってこれは残酷な問いかもしれなかった。


 祐奈はそっと首を横に振った。


「何も。……何もしません」


「どうして?」


「私の両親は事故で亡くなりました。数年前のことです。だから元の世界に戻っても、家族はいない」


「ご両親が亡くなったあとは、どうしていたのですか?」


「親戚の家に引き取られました。そこには年上の従兄がいて……」


「前に話してくれた、あなたをけなしてばかりいた従兄ですか?」


「そうです。よく覚えていますね」


 祐奈は驚いた様子で微かに目を見張り、やがて淡い笑みを浮かべた。寂しそうな笑顔だった。


「あまり……親しくはなれなかった。昔から彼は私を嫌っていて……いつも冷笑的だったんです。私にはまるで価値がないというように彼は扱った。初めのうちはそれが悲しかったけれど……次第に仕方ないかな、と思えるようになって、割り切れたの」


 祐奈は嫌われていたというけれど、ラングはそれとは逆の可能性を思い浮かべていた。


 従兄が祐奈に対して本当に興味を持っていなかったのなら、そんなふうに突っかかって、いじめる必要もなかった。無視すればいい話だし、そもそもの話、どうでもいい相手なら、構う時間すら無駄だと人は考える。


 祐奈は淡白な性格であるから、相手が自分を嫌っていると悟れば、しつこく付き纏ったりもしないだろう。干渉をやめれば、互いに平和に過ごせたはず。


 しかし従兄は意地悪に彼女を攻撃し続けた。まるで好きな子をイジメる、子供みたいに。


 しかしラングはその見解を口には出さなかった。敵に塩を送る必要もない。ラングがそれを教えることで、彼女が一時でも、従兄からされた仕打ちを思い返し、そこに甘やかな要素を見い出すことが不快に思えたから。


 一つはっきりしていることは、その従兄は大馬鹿者で、取り返しのつかないミスを犯したということだ。


 彼は可愛い祐奈を精神的に痛めつけ、孤立させようとした。心を折ってしまえば、操りやすいから。


 しかし彼は失敗した。


 元の世界にいた頃の祐奈は、意外と芯が強く、揺らぐことがなかったのだろう。それに周囲に味方がいる状況だったら、完全に心を折るのは難しい。


 祐奈の口調からは、従兄への依存がまるで感じられなかった。そこからも、彼がアプローチを失敗したのだと分かる。


 しかし従兄が彼女の自尊心を傷付け続けたことは、地味に効果が出ていたのかもしれない。


 祐奈がこちらに来てすぐに冤罪で責められた時、長年蓄積されたものが出てしまった。祐奈は弱気になり、すぐに心を閉ざした。


 ラングは初めて祐奈に会った時に、非常にセンシティブな女性だという印象を受けた。それは先天的なものかと思っていたのだが、違ったのかも。


 それからもう一つ、祐奈に関して、とても不思議に思っていたことがある。


 彼女は自分がいかに魅力的であるかに気付いていないようだ。あまりに鈍感だった。


 それはそうなるよう誰かが仕向けたからだ。祐奈の従兄は彼女自身に『魅力がなく、異性にモテない』という価値観を刷り込んだ。そしてそれは祐奈の一部になった。彼女に強い思い込みがあるから、それに反する事実が出てきても、無意識のうちに否定してしまう。


 おそらく彼女は異性からアプローチを受けた経験もあるとは思うのだが、狡猾な従兄がそばにいて、それを巧みに邪魔し続けていたのではないだろうか。だから祐奈には恋人ができなかった。


 そうなってくると、この年齢になるまで、彼女が従兄の毒牙から逃れ続けられたことは、ほとんど奇跡であるように感じられた。


 いや……それだけ執着がすごいことの表れなのだろうか? 狂おしいほどに求めているから、おいそれとは手が出せなかったのか? 彼は長年情念を温め続けて、収穫の時期を待った。


 しかし祐奈はこちらの世界に来てしまった。従兄はさぞかし絶望したことだろう。


「――彼が怖い?」


 思ってもみなかったことを問われたせいか、祐奈は瞬きし、考え込んでしまった。やがて微かに顔を顰め、彼女が答える。


「考えたこと、なかった。でも……そうですね。私は従兄がとても苦手でした。彼の前に行くと、萎縮してしまって。自分らしく振舞えなかった」


「もう会うことはない」


「そうですね」


「だけど、こう思う――もしもふたたび会うことがあったとしても、今の君ならば大丈夫だ」


「ラング准将?」


「君は強くなった。彼の思いどおりにはならない」


 ラング准将が優美に瞳を細め、柔らかな視線でこちらを見つめるので、祐奈はそれだけで心が温かくなった。


「私が強くなれたのだとしたら、それはあなたのおかげです。心が自由になれた」


「あまり私を信用しないほうがいいですよ」


「どうして?」


「君は今、私の手の中にいる。結局……別の鳥籠に移っただけなのかも。現状を見てみれば――君はまだ囚われている」


 祐奈は彼が漏らした呟きに耳を澄ませていた。声音は静かで、少し艶めいて聞こえた。


 そしてほんの少し……皮肉交じりであるようにも感じられた。どうしようもない、すまないが、というような。……それは気のせいだろうか?


 祐奈は身を起こし、彼の首に回していた腕をほどき、シャツのカーラーをそっと撫で、手のひらを肩の辺りに移した。少し力を込めて握る。


「……あなたは別の可能性については考えないの?」


 祐奈は気になったことを尋ねてみた。子供のように素直な口調で。


「それはどんな?」


「あなたのほうが、私の鳥籠に囚われているのかもしれないでしょう?」


「なんだかとても馬鹿げた意見に聞こえる」


「そうかしら」


「君は俺に執着していない」


「実は私は……ものすごく悪い人間で、上司の立場で、あなたを縛りつけているのかも。あなたの善意を利用して、そばに置いている。逃げられないように」


「だったらいいのに」


「嫌じゃないの?」


「嫌じゃない」


「じゃあ……嬉しい?」


「どうかな。少し苦しい」


「どうしたら楽になれる?」


「たぶん一生楽にはならない」


 絶望的な台詞なのに、この上なく甘美だった。


 祐奈は過度に同情している素振りは見せなかった。ただじっと――不思議なほどに澄んだ瞳でラングのほうを見つめていた。


「私が助けてあげられる?」


「君にしかできない。だって君が原因だから」


「そう……じゃあ良かった」


「なぜ?」


「あなたは私以外のことで、苦しんではいけないわ。だって私の騎士だもの。……そうでしょう?」


「そうだね」


「やっぱり鳥籠に囚われているのは、あなたよ。……あなたって、可哀想」


 祐奈の美しい笑みを眺めていると、組み敷いて、滅茶苦茶にしてやりたくなった。


 時折、危険な領域に足を踏み入れつつある心地になって。


 ――君といると、やはり少し苦しい。


 それでいて、この上なく甘く、胸が弾む。


 これからはどうか君が俺の貪欲さを咎めてくれ。自制するのも、そろそろ限界がきている。


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