第120話 今、したい?


 ダイニングに行ってみたのだが、ラング准将の姿がない。


「食料庫にいるかもね。たぶん酒を飲んでいる」


 ミリアムがそう言うので、連れ立って食料庫に向かった。どのみち場所は離れていないので、目と鼻の先だ。


 ――扉を開けると案の定、彼がいた。


 簡素なテーブルに腰かけていたラング准将はグラスを手にしていた。なんとも気だるげで、艶っぽい。白いシャツの第二ボタンまで開けているせいかもしれなかった。卓上にそのまま腰を下ろすのはマナー違反であるが、ラング准将がそうしていると、不思議と優美に見える。


 祐奈は彼を見た途端テンションが上がり、子犬のように駆けて飛びついていた。ラング准将の腕をガシッと握り、背伸びしながら満面の笑みで話しかける。


「ラング准将、食事の前にお酒を飲んではだめですよ」


 祐奈が(素顔を晒している上に)あまりに上機嫌なので、彼は不意を突かれたようだ。一瞬固まったように動きを止めていたのだが、そっとグラスを卓上に置き、祐奈の腰に手を回した。テーブルに腰かけていた関係で、足のあいだが開いており、祐奈は自然とそこに入り込んでしまっていて、ラングは頭のどこかで『しっかりする必要がある』と自身に警告を出していた。


 視界の端にはニヤニヤ笑いを浮かべるミリアムもちゃんと見えている。これはあまりに危険な罠だと彼も気付いていたのだ。


 しかしそれでも彼女の腰を引き寄せるようにしている自分がなんだか信じられなかった。祐奈は祐奈で、あまりに無防備だった。無邪気に、鮮烈に笑う。


 彼女はまるで搾りたてのオレンジジュースみたいだとラングは考えていた。爽やかで、甘い。けれど実際のところは、そう……味見をしていないので、分かりようもないのだが……


「祐奈。……その格好は?」


「三十四年前、前の聖女にミリアムさんが貰ったのだそうです。私のいた国では、これが学校の制服でして。ええと……十代の子供が着る、正装というか」


「感心するほど可愛い」


「変な褒め方」


 祐奈が小首を傾げて笑う。口角が綺麗に上がっていて、本当に呆れるほど可愛かった。


「その髪型、初めて見た」


「ポニーテールというんです。好きですか?」


「ええ。あなたに似合う」


「嬉しいです」


「いつもみたいな――そのまま下ろして、耳にかけているのも似合いますが」


「そう?」


「うん」


 彼女が身を乗り出そうとして、それをこらえるように手をピクリと動かすさまをラングは眺めていた。……可愛い小鳥。ずっと籠の中にいるといいのに……。


「祐奈、酔っていますね」


「酔っているというか、怪しい薬を飲まされました」


 祐奈がケロリとそう言うので、ラングは彼女の状態を確認したあと、チラリと背後のミリアムを流し見た。ミリアムはまるで悪びれていなかった。ジロジロとこちらを見世物にして楽しんでいるらしい。


 もう勝手にしろとラングは思った。こちらの負けでいい。まったく、なんという悪辣な老婆だろう……


「どんな薬です?」


「人恋しくなるのだそうです」


「効いている?」


「たぶん。ラング准将に抱き着きたい」


「いいですよ。――おいで」


 引き寄せると、祐奈はこちらの首に手を回し、左太腿の上に腰を乗り上げてきた。彼女は相変わらず曇りのない綺麗な笑みを浮かべていて、危険を感じている気配はゼロだった。


 ラングは微かに瞳を細めた。互いの顔が近い。彼女は好意的な眼差しをこちらに向けている。


「……部屋に入って来た時から気になっていたのですが、靴を履いていないのですね」


「そうなの。いけない?」


「いけなくはない。私が運んで差し上げます」


「重いですよ」


「あなたは羽のように軽い」


「嘘ばっかり」


「あなたに嘘はつかない」


「そう……じゃあ」


 彼女のしっとりとした瞳がこちらを覗き込んできた。


「もう一度訊いてもいい? ――私の裸を見ていませんか? 見てないと確信して、ちゃんと安心したいの」


 ラングは彼女の瞳をじっと見返した。彼は賢くも口を閉ざしたままだった。見ようによってはとても誠実なようにも感じられたし、その反対に、彼女の気を惹いている悪い男にも見えた。


「もしも見ていたら、お返しに、あなたは私の服を脱がせるのですか?」


「さぁ……どうだろう……脱がせて欲しいですか?」


「君が言い出したことだ。見られっぱなしで、不公平なのが嫌なのでしょう?」


「でも私……どうしたいか分からないの」


「よく考えてごらん」


 祐奈が考え込む時の癖で視線を逸らそうとしたので、ラングは彼女の華奢な顎に指を触れ、それを禁じた。祐奈は少し戸惑った様子でこちらを見上げている。


 ラングは淡く笑んで見せ――そして壁際で気配を消していたミリアムに視線を転じた。


「――ミリアム。しばらく二人にしてくれ」


「いいところなのに」


「見世物じゃない」


「はいはい。分かりましたよ……」


 悪戯老婆にしては素直に了承の意を示し、彼女が食料庫から出て行った。扉が閉じ――かけて、微かに隙間があることに、ラングはちゃんと気付いていた。呆れたことにミリアムは、向こう側に留まって覗き見するつもりなのだ。


 卓上に置いてあった籠の中からオレンジを一つ掴み、スナップを利かせて投げる。それはコントロール良く扉横の壁に当たり、ガン! と結構な音を立てた。オレンジが跳ね返って転がった。


『――なんだい、ケチンボ』


 扉が閉まると同時に、そんな捨て台詞が聞こえて来た。


 祐奈はラングの首に手を回したまま、振り返り、呆気に取られたようだった。やがて顔を戻し、微かに顎を引いて告げる。


「……ラング准将。オレンジを投げるなんて、お行儀が悪いです」


「俺はお仕置きされるのかな」


「かもしれません」


「どんなことをされるのか、興味がある」


 祐奈は顎を上げ、ふふ、と笑い出してしまった。


「ひどいことをされるかもしれないのに、面白がっているのですか? 変なの」


「とっくに変になっているよ」


「そうなの? うーん……私もそうかも……」


「どうして?」


「ええと……ミリアムさんが言うには、薬の作用でキスをしたくなる、って……」


 祐奈の瞳は夢見心地で、少しトロンとして見えた。


「今、したい?」


 彼の問いは不思議と甘く響いた。


「うーん……したいかも……」


「祐奈」


 引き合うように、互いの顔が近付く。鼻先が触れそうな距離になり、祐奈は瞬きし、戸惑いを浮かべた。


「ラング准将……このままだと……」


「うん」


「頬に、キスできないから……横、向いて?」


 これ以上近寄ると、たぶん唇と唇が当たってしまうと祐奈は訴えてみた。どのみち鼻がぶつからないように顔を傾ける必要はありそうだけれど、祐奈としては、ラング准将のほうが横を向いてくれれば、『頬にキスをする』という目的がはっきりするので、ずっとやりやすい。


 けれど彼のほうはまるで頓着した様子がない。いつもよりももっと謎めいて見えたし、どこか悪戯な態度だった。


「頬じゃないと、だめなの? 祐奈」


「だって順番があるの」


「そんなものはない」


「あると思う。ミリアムさんも頬っぺたから順に試せ、って……」


「彼女は今ここにいない。――いるのは、君と俺だけ」


 彼の繊細な指がこちらの唇に伸びて来て、表面をなぞる感覚に、祐奈は背筋を震わせた。


 ああ……なんだかおかしい……自分も……たぶん彼も……


 さらに近寄る。ゼロ距離まで、もう少し――……


 バタバタという足音が響いている。ラング准将がふと顔を離した。それと同時に食料庫の扉が開いた。


「夕ご飯を食べようよ、そろそろ」


 ミリアムだ。


「……て、あれ。キスしていない」


 ラング准将は下品なミリアムをまるきり無視して、いつもの端正な態度で祐奈に尋ねた。


「ダイニングまで運びます。そのまま掴まって――そう、しっかりと」


「でも、歩けますよ」


「だめです。あなたには靴がない」


 祐奈は足をブラブラさせ、自身が靴を履いていないことを再確認した。そうだった――さっき彼に指摘されたのだった。


 それで彼女なりに歩いてはいけない理由が納得できたので、にっこりと彼に笑いかけた。


(そして余談ではあるが、ラング准将は彼女の可愛い膝小僧が覗いているのを眺めおろし、まったく目に毒な衣服だと考えていた。スカートの裾と、靴下のあいだに隙間があるし、そもそも丈が短すぎる、と)


「確かに、靴はないです。だけど私にはラング准将がいます。あなたは私が困っていると、いつも助けてくれるの。――靴がない時も、そうなのね?」


「ええ、そうです。大変よくできました」


 彼は祐奈をお姫様抱っこしたまま立ち上がり、歩き始めた。扉のところまで迎えに来ていたミリアムは、なんだいというように肩を竦めてみせ、先に戻って行った。


 ラングはそれで小さな呟きを漏らしていた。


「……危なかった……」


 本当に危ないところだった。


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