第119話 にっこり笑うと、春風が吹いたような


「実際に会ってみて、聖女はどんな方でした?」


 祐奈が尋ねると、ミリアムは淡い笑みを浮かべた。おおらかだけれど、少し悲しそうにも見えた。ほろ苦い何かを思い出しているかのような……


「複雑なところのある娘だった。確か……当時、十八歳だったかね。学校に通っていたそうだよ、元の世界で」


「大学生って言っていました?」


「いいや、そうじゃないね」


「じゃあ高校生?」


「そうだ。そう言っていた」


 ミリアムはかなり記憶力がいいようだ。三十四年前に一度聞いただけの話を、よく覚えていたものだと思う。記憶の分類方法が常人とは少し違うのだろうか。


 それにしても前聖女は高校三年生だったのか。それなら祐奈よりも心情的によほどキツかったのではないだろうか。


 中学、高校に通っているあいだはまだ子供であり、それ以降とは明確に差があるように祐奈には感じられる。……この辺の感覚は、個人によるのかもしれないが。


 とにかく――昨日まで高校に通っていたのに、突然、単身異世界に迷い込んでしまったら、相当心細かったに違いない。もしかするとそのせいで、精神の安定を欠いてしまったのだろうか?


「その娘は前の世界であまり幸せではなかったらしい。彼女にはひねくれたところがあったし、常に攻撃的だったね。あの子はなんていうか……自分が飛び抜けて上等な扱いを受けていないと、納得できない性分だったよ。自分は特別で、誰よりもチヤホヤされていなきゃならない――そうしないのは周囲に問題があるというようにね」


「それは実際に彼女が美しく、頭も良かったからではないですか? 当然の権利を主張していたのかも」


「いいや」ミリアムが苦笑を浮かべる。「あの娘は残念なことに、お前さんみたいに可愛くはなかった。造形的に問題もあったし、愛嬌もなかったね」


 祐奈は目を丸くしてしまった。ミリアムはお世辞を言っている口調ではなかったが、目が悪いそうなので、祐奈の姿を見誤っているのかもしれなかった。


 けれど話を遮ってまで『そんなことありません』と謙遜してみせるのもただの自己満足のような気がして、祐奈はあえて異論を唱えなかった。


 ミリアムが続ける。


「そして利口でもなかった。頭の良い人間は大抵、謙虚なものさ。いちいち自慢なんかしないし、偉ぶったりもしない。『そんなことをしても、なんの意味もない』って気付けるくらいの、知能と理性を備えているからね。――ラング准将を見てごらん。そうだろう?」


「おおむね同感ではありますが、ラング准将はあまりに突き抜けた人です。実際のところ、傲慢な天才というのもいるような気がします」


「譲れないものがあった時に、一歩も退かないというのは大事なことだよ。でもそれは誇り高さであって、傲慢さとは違う。あたしが言いたいのは、頭の良い人間は大抵、自分に厳しいってこと。自分を高めることで手一杯だから、他人の揚げ足を取っている時間もない。怒りを外にばかり向けていると、肝心の中身が空っぽになっちまう」


「そうですね」


「それに賢い人ってのは、色々な角度からものを見るから、正解は一つじゃないってことをちゃんと知っている。だから『絶対こうだ』『絶対正しい』ということはあまり言わないもんだよ。そして他者が下した決断も、同じように尊重できる」


 多面的に物事を見ていくと、ものすごく疲れるものだ。二種類の中から選ぶのと、ニ十種類の中から選ぶのと、どちらが難しいかと問われれば、答えは明らかに後者だ。


 選択肢が二種類しかなければ、ほとんど迷わずに済むだろう。即断即決も可能だし、そうできている自分に対し万能感を覚えるかもしれない。それが驕りに繋がるのかも。


 けれどニ十種類あれば、簡単に検討するだけでもかなりの時間がかかる。


 二種類しか知らない人は、ニ十種類から選び続けている人の境地には、永遠に辿り着けないのかもしれない。


「前の聖女は……あまり好かれてはいなかった?」


「そうだね。意地悪で、魅力的とは到底いいがたい人間だった。そしてそんな人間が、不幸なことに権力を手に入れてしまった。元の世界ではパッとせず、その辺の石ころみたいに扱われていた娘がだよ――こっちに来てからは重要人物として扱われ始めたんだ。見目麗しい騎士がかしずき、なんでもいうことを聞いてくれる。それで……有頂天になっちまったんだろうね。元々短慮で、自分を客観視できない欠点があったものだから、その悪い部分が増幅されてしまった。あの子は貞操観念も緩くてねぇ……騎士をあれこれつまみ食いして、相手もそれを喜んでいると思っていたみたいだ」


 祐奈はなんともいえない気分になった。正直なところ、少し複雑ではあった。


 前の聖女は実際につまみ食いをして――嫌われていたにせよ、それが許されたのだな、と。祐奈の場合は実際にしてもいないのに、性的な誘いをかけたとして、あんなに責められたのに。どういうことなのだろう?


 今回の護衛騎士たちが、そのくらいおおらかに構えていてくれたなら、祐奈は今こうなっていなかったと思われる。彼らがもっと『受け』の姿勢を取ってくれていれば、実際祐奈が寝所に連れ込むことはないのだから、『あれ? 恐れていたけれど、気のせいだったんだな』とすぐに誤解も解けたはずである。


 彼らは何も始まっていない段階から大騒ぎし過ぎだった。ショーたちがしたことは、痴漢されてもいないのに、『痴漢されそうです! こいつが痴漢をする前に、縛り上げてください!』と声高らかに叫んでいたようなもので、あれはまったく理性を欠いた振舞いだった。本来ならば、上層部はそれを大真面目に聞いてはいけなかったのだと思う。


「娘はある段階で気付いてしまったのだろうね――目の前の護衛騎士たちは、聖女という絶対的な権力に従っているだけで、心は一切伴っていないのだと。それで荒れ始めた。しかし護衛の耳を切り落としたのはやりすぎだったね。その後ベイヴィアに来て……あたしはあの子に会ったよ」


「どうなりました?」


「あたしはあの子の寂しさをすぐに見抜いて、幾つか指摘をしてやった。普通だったら知りようもない、個人的なことをね。そうしたのは親切心からじゃない。あの子は問題を抱えていたし、怒り狂った毒蛇みたいに危険な存在だった。だから害をなす前に、こちらの存在を大きく見せて、一目置かせる必要があったんだ」


「上手くいきましたか?」


「まぁね。あの子は一時人の心を取り戻し、従順になったよ。……まぁ、あたしはあの子がベイヴィアを出るまで大人しくしてくれれば、それで良かったのさ。人の性根はそう変わらないものだからね。あとで元に戻ったとしても、そこまでは関知できないよ」


 少し冷たいようだが、考えてみれば当たり前の話なのかもしれない。ミリアムはその子の近親者でもないのだし、指導係でもないから、正しく導いてやる義理もない。また、仮にどうにかしてやりたいとお節介に願ったところで、それは叶わないことだろうし。


 ミリアムはクローゼットの前まで祐奈を連れて来て、両開きの扉を開いた。


「その子がくれたんだよ。――こっちの世界に来た時に、着ていた服を。学校の制服だと言っていたね。思い出の品だから、あたしに持っていて欲しいって」


 中には綺麗に手入れされたセーラー服が入っていた。


 祐奈はセーラー服の存在は知っていたものの、実際に見たのは初めてかもしれなかった。祐奈の通っていた学校は、中学も、高校も、ブレザーにプリーツスカートというオーソドックスなスタイルだったし、近隣にもセーラー服の学校はなかったから。


「定期的に洗って、干してと手入れをしていたから、綺麗に保たれているはずだよ。なんとなく……これをくれたあの子の顔が思い出されて、粗末にできなくてね。不思議なんだけどさ」


 制服を眺め、祐奈は感慨深い気持ちになっていた。三十四年前、自分と同じように、一人の少女がこちらの世界に迷い込み――確かにこの地で生きて、役目を果たした。


「着てみるかい?」


「え、でも……」


「こうして飾っておいても、意味はないしさ。あたしも見てみたいんだよ。同郷人が着たら、実際にどんな感じになるのかを」


 祐奈はセーラー服を眺めた。学生服というだけで、なんだか懐かしい感じはする。そしてこれは日本を思い出すものだった。祐奈が転移してきた時に着ていた服や、持っていた鞄、傘などはまだあるのだが(カナンから手ぶらで転移したので、今は持っていない)、それとはまた違うのだ。


 制服というのは不思議なもので、それだけでノスタルジーをかき立てられるものなのかもしれなかった。



***



 祐奈はセーラー服を身に着けていった。――なんと紺色のハイソックスまであった。


 他人の靴下をはくのはどうかという気もしたが、綺麗に洗って手入れしていたようなので、懐かしさもあって着けてみることにした。……三十四年保存されていたというのは、すごいことかもしれない。


「靴ももらったんだけどね。十年くらい前に壊れたから捨ててしまった。手入れしようと思ったら、底が抜けちまってさ」


「ずっと履いていないと、そうかもしれませんね」


 学生が使っていたローファーだと、そんなに高級なものでもないだろうし。


 前聖女の体のサイズは、祐奈とそう変わらなかったようだ。気持ち大きいかな? というくらいで、ほぼジャストサイズだった。


 ミリアムは祐奈の姿を見て、感心した様子だった。


「はぁ……なるほどねぇ……やっぱり服は現地の人が着るのが、一番なんだね。昔、宿泊客の若い女の子に着てもらったことがあるんだよ。だけどこんなに似合っていなかった」


「黒髪に合うデザインなんですかね……」


 ミリアムに指摘されたことを考えてみたが、そのくらいしか祐奈が似合っている原因が考えつかなかった。


「あんたの髪は肩よりちょっと下くらいだね」


「ええ」


「制服を着た場合、どんな髪型にするんだい?」


「下ろしっぱなしの人も多いし……あとは……ポニーテールとか、好きな子は好きですね」


「なんだいそれは?」


「ええと、こう……後頭部で一つに纏めて、縛るんです」


 祐奈が両手を使って髪を後ろの高い位置で束ねてみせると、ミリアムが目を輝かせた。


「そいつはいいね! やってみよう」


 祐奈は鏡台の前に連れて行かれ、ミリアムに髪をとかされた。お風呂に入った時に洗髪したけれど、すでにあらかた乾いている。


「綺麗な髪だねぇ」


 褒められて、へへ、と笑う。


「ありがとうございます」


 祐奈は従順に髪をいじられながら、『そういえばヴェールを外したままだな』ということに気付いた。……まぁいいか。ヴェールをしないほうが、息が吸いやすい。


 祐奈はやはり飲まされた薬が効いているので、少々大雑把になっていた。


 ミリアムが高い位置で髪をまとめ、黒いリボンで括ってくれる。


 彼女が孫娘でも眺めるようになんだかうっとりしているように見えたので、鏡越しに祐奈はにっこりと笑んでみせた。


「あんたって子はまぁ……にっこり笑うと、春風が吹いたような感じがするね」


「そうですか?」


「ラング准将はあんたのそういうところが好きなのかもね」


 それを聞いた祐奈は体をくの字に折って噴き出してしまった。


「ラング准将は私の素顔を知りませんし、別に好いてくれてはいないですよ」


 ミリアムの目付きが可哀想な子を眺める時のそれに変わった。


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