50 旅立ちの空は青く


 その日は、朝からよく晴れていた。


 目に染み入るような青い空の下、礼拝堂から白亜の大神殿前広場に出てきたノアは、巡礼用に新調してもらった白いローブの下から、両腕を出して思い切り伸びをした。


「あー緊張したぁ……」


 教皇様に旅の無事を祈る御守りのペンダントを授けられ、出発の挨拶をし、礼拝を済ませ出てきたところだった。

 見送りのパレードを、と言われたのを丁重に辞退してのささやかな出発式だったが、ノアにしてみれば充分すぎるほど充分だ。


『遅いでー待ちくたびれたわ』


 荷物を積んだマロンがぼやいた。


「ごめんごめん」

『エルメスはまだ戻ってけえへんで』

「そろそろだと思うけど……って、ほら」


 見上げた青空に雲のような白い一点が見え、どんどん大きく近付いてくる。


『はあーい、おまたせー』


 ノアはエルメスの足にくくりつけてある紙を広げて頷き、マロンに飛び乗った。


「大丈夫みたいだから、ちょっと寄り道するよ」

『ええけど。どこいくん?』

「職人街よ」



 アニーの工房を覗いて、ノアは「あれ?」と目をしばたいた。


「ロイ?」

「あーっ、聖女様じゃないっすか!」


 ロイは人懐っこい笑顔で店の奥から出てきた。なぜか職人用のエプロン姿、木屑きくずを体中あちこちにくっつけている。


「何やってるの?」

「何って、見ればわかるでしょう。俺っち、竪琴職人見習いになったっす」

「ええ?!」

「いやあ、聖女様に危険をお知らせしたあの夜、神官兵をここの店先から追い払ったらアニーさんに気に入ってもらって。俺っちが行くところが無いって言ったら、ここで働かないかって言ってくれたんっすよ。ガキの頃から職人て憧れだったって言ったら、人手が足りないから修行しないかって」

「そうだったの」


 ロイは泣き笑いの顔で天を仰ぐ。

「もうこれは神様のお慈悲っす。俺っち、あのとき聖女様を売らないでよかったっす」


 そのとき、奥の工房から怒鳴り声が聞こえた。


「おいっ、ロイっ、何をもたもたしているんだっ、店から金槌かなづち持ってくるだけで何をこんなに時間がかかって――」


 こぶしを振り上げて出てきたマシューは、ノアの姿を見て動きを止めた。


「あ、あんた! あんたは……」

「マシューさん。これ、お返しにきました」


 ノアは持っていた袋から丁寧に飴色の竪琴を出した。


「これ、魔法の竪琴のレプリカだったんですね」

「な、なんでそれを……」

「呪い、解けましたよ」


 眼鏡の奥のグレーの瞳が大きく見開かれる。


「な、なんだと?」

「呪いは解けました。ほら、これが証拠です」


 ノアは古い羊皮紙を取り出してみせた。


「これは!」

「ええ、マシューさんがこのレプリカと一緒に託してくれた楽譜です」


 茶ばんだ紙面には、きれいに五線が引かれているだけだ。


「マシューさん、大神殿の竪琴調整師だったから、秘宝である魔法の竪琴が実はオルビオンが隠してきた呪いの道具だったって気が付いていたんですね」


 マシューはぼさぼさの白い頭をかいて、大きく息を吐いた。


「……何の呪いなのかは知らんが、楽譜と共にあの竪琴に呪いがかかっていることはわかった。わしのような仕事を長年しているとな、そういうことがなんとなくわかるもんだ。秘宝に呪いがかかっていると同じ調整師仲間に言ったら、死にたくなければ誰にも言うなと言われた。わしはどうしてよいかわからず……そのレプリカを作って、楽譜をそこに隠した。

 あんなに美しい竪琴が呪われていることが悲しかったんだ。神官に呪いをどうにかしてほしかったが、わしの話なんぞ誰も信じないだろうし、言ったら殺される。どうにもならん思いを、レプリカに籠めた。わしにできるのは竪琴を作ることだけだからな。だが、レプリカを作ったことで大神官の怒りを買い、大神殿を追い出された」


 ノアは頷いて、レプリカをマシューの手に渡した。


「魔法の竪琴を奏でることで、呪いとなっていた音が解放されたんです。そして、呪われていた人たちも、元の姿に戻りましたよ。魔法の竪琴は変わらず秘宝として大神殿の地下に保管されているけど、もう呪いも何もない、普通の古い竪琴です」

「そうか……そうか……よかった……」


 マシューの気難しそうな顔に、血の気が差していく。


「だからこれからはもう、何もおびえたり心配する必要ありませんから、食事の時くらいアニーさんと会話してくださいね!」


 マシューは驚いたようにノアを見て、相好そうごうを崩した。


「ありがとう……あんたは、本当の聖女様のような御人だ」


 涙を流すマシューに、ロイが呆れて言った。

「親方、何言ってんすか。だから言ったじゃないっすか。この人は聖女様っすよって」

「うるさいっ、おまえの話なんぞ信じられるかっ」


 マシューが袖で乱暴に涙をぬぐっていると、奥から朗らかな声がした。


「マシュー、何店先で大声を……って、ノア!」


 アニーが出てきて、ノアの手を取った。


「待ってたよ! 白いフクロウが来たときはびっくりしたけど……本当に無事だったんだね。よかった!」

「はい、あの時はありがとうございました」


 ノアはぺこりと頭を下げ、アニーに袋を渡した。


「これ、あの時の竪琴の代金です。足りるといいんですけど」

 アニーは笑ってその袋をノアに返した。

「いいよ。これはいらないよ」

「えっ、でも」

「あの時、あんたが美しい曲を弾いてくれただろ。その演奏料とロイの働き分で竪琴の代金はチャラさ」


 アニーは笑ってロイの背中をばしんと叩いた。


「いたっ、アニーさん痛いっす」

「ほらっ、ちゃっちゃと働きな! マシューも! 昼飯までにやること山積みだろう!」


 二人はアニーに追い立てられるように工房へ引っこむ。それを見て笑っていたノアにアニーが言った。


「ありがとうね、ノア、いや……聖女様」

「あ……バレました?」

「そりゃね。名前も同じだし、おまけにあの竪琴の腕前だ。あたしは職業柄、竪琴の腕の良し悪しはわかる。あんたは間違いなく、超一流の腕前だ」

「アニーさんに言われるとなんだか自信が持てます!」

「聖女様にそんなこと言われたらうれしいねえ。ほら」


 アニーは持っていた袋をノアに渡した。さっきから良い匂いがすると思ったら、この袋だったのだ。

 ノアは袋をのぞいて歓声を上げた。


「あのときのパンだ!」

「そ。あんた、気に入ってくれたろ。今焼いていたところさ。ロイが来てくれたからあたしもゆっくりパンを焼く時間ができた。マシューもロイが来てから張りが出てきたみたいだし、ロイはマシューに怒鳴られてもへっちゃらでね」


 工房の奥から、マシューの「何度も言っただろうがっ、木の削り方はこうだっ」という怒鳴り声と「はいはい、っていうかまだ始めて一か月も経ってないんすよ、親方みたいにはいかないっすよー」というロイののらくらした返しが聞こえてくる。


「マシューもまんざらじゃないみたいでね。ロイは意外と器用だし要領もいいから、良い職人になれそうさ。この工房にもやっと跡継ぎができそうだ」

「よかったですね、本当に」

 ノアは微笑むと、アニーはふくよかな胸にノアを抱きしめた。

「ありがとう。あんたのおかげさ。これでお別れなのが寂しいねえ」

「アニーさん……」


 エルメスに付けた書簡に、ノアがこれから旅立つことを知らせてあった。


「いつかオルビオンに戻ってきたら、またうちの工房に寄っておくれ。ノアの竪琴はただで調整してやるよ」

「え?! そんな、お代はちゃんと払いますよ!」


 アニーは笑って片目をつぶる。

「再誕聖女様の奏でる竪琴は、みんなに幸せをもたらす音色だからね。それくらいサービスしなくちゃ」




 ノアはアニーの工房を出て、西大門へと向かった。


 見送りやパレードはいらないと言ったものの、西大門を守る神官兵たちはノアを見送る体勢で整列している。


「あれ?」


 その先頭に、五人の騎士がいた。

 通常の神官兵とは異なり、鎧に深紅のローブをまとい、兜は馬の後ろに括りつけて、替わりにフードを目深に被っていた。貴賓を見送るときなどに出る、随走の騎士だ。


 中の一人がノアへ近付いてきた。


「我らはノア様を無事に南北街道までお見送りするように言われました、随走の者です」


 その騎士は見習いなのだろう、整った顔立ちをした少年で、まだ慣れていないのか立ち居振る舞いが初々しい。


「えっ、見送りとかもういいのよ、教皇様にお祈りをしていただいただけで充分……」

「いいえ。どうか南北街道までお見送りを」

「は、はあ……」


 少年の真剣な眼差しに、ノアはつい頷く。あまり断るのも失礼だろう。


「では……お願いします」


 ノアが西大門をくぐり、後ろから騎士たちが付いてきた。


「聖女様! いってらっしゃいませ!」


 西大門の神官兵たちはそろって敬礼する。


(こういうの苦手なのに……)

 胸がいっぱいになって敬礼する神官兵たちがぼやける。

ノアは聖女らしい気の利いたことは言えず、遠ざかる西大門を振り返って手を振るのが精いっぱいだった。


「……いい加減、前を向かないと馬から落ちるぞ」


 隣に並走してきた騎士に、ノアはぎょっと顔を向ける。

 フードの下、見覚えのある紫水晶の瞳が悪戯っぽく笑んでいる。


「レオ?!」

「ほら、南北街道までまだまだあるから。急がないと今夜は野宿になっちゃうよ」


 逆側に馬を付けてきた、金髪の下の翡翠色の瞳は。


「アル?!」


 二人はフードを取って笑った。


「もうバラしてしまうんですか?! 次の宿場町まで内緒にするんじゃなかったんですか!」


 呆れたように背後で言ったのは。


「トレスさん?! とマルコスさん?!」

「ははは! 野宿になったとて、それがしが魔物など追い払ってみせますぞ。聖女様、御安心くだされ!」

「ど、どうして?? 祭典の後、とっくに帰国したんじゃあ」

「どうせだから途中まで送っていこうと思ってな。ノアの出発まで密かにラデウムに滞在していた」

「なっ……言ってくれればよかったのに!」

「言ったら、ノアは僕らに隠れてこっそり行こうとするでしょ」

「う……で、でもだからって!」

「ウィルに地理を覚えさせる目的もあったしな」


 レオが言うと、さっきノアに話しかけてきた少年が照れたような表情になる。


「オレ、辺境の村から連れてこられたから、この辺りの地理を知らなくて。レオナルド様が、モームの騎士になるなら周辺の地理ぐらい知っていないとって、言ってくれて」

「だから坊主っ、おまえは口の利き方から覚えろっ」


 マルコスがウィルの後ろから叫ぶ。


「はい、すみません!」

「うむ。では殿下、ウィルと先に走りますぞ。この辺りの地形はだな――」


 マルコスがウィルを連れて、先に馬を走らせていった。


「あの子は?」

「カーヤと同じく、ノアが捕まった人買いのところにいた少年でね。見どころがあるって、レオが騎士に育てることにしたんだ」

「そうなんだ……」


 ノアが迷子になっていた間に、いろいろあったらしい。

 レオが馬を寄せてきた。


「おまえが妃としてモームへ来る頃までに立派な騎士に育てておこうと思ってな」


 えっ、とノアが右のレオを見た瞬間、今度は左に馬が寄せられる。


「カーヤには、そのうちノアがブランデンへ嫁いできてくれる時に、侍女として一緒に来るよう言ってあるんだ。修行に励むようにってね」


 二人ともノアを挟んで火花を散らしながら言いたい放題だ。


 左右からぎゅうぎゅう馬を寄せられて、ついにマロンが走りだした。


『なにやねんあの兄さんたち! 暑苦しいっちゅうねん!!』

 口ではぷりぷり怒りつつもマロンは楽しそうだ。


 それを見てノアも笑った。背後では、アルとレオが馬を寄せあってがーがー言い合っている。言い合っているが、二人も楽しそうに見えるのはきっと気のせいではないだろう。


 異世界ハッピーライフというのは、こういうものかもしれない――抜けるような青い空を見上げて、ノアはふとそう思った



【おわり】

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元OL聖女は異世界でハープを奏でる~皇太子溺愛ルートはご遠慮します~ 桂真琴 @katura-makoto

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