44 元OL聖女は異世界でハープを奏でる

 ノアの十指が、ゆっくりと弦をはじいた。


 懐かしさと優しさに満ちた旋律が、廊下に響き、染みわたっていく。


『楽しき我が家』。どんな豪華な城よりも素晴らしき、粗末な我が家をしみじみとたたえる歌。


(――思い出した)


 ノアが乃愛だった頃、『楽しき我が家』をなぜハープ教室で練習することになったのかを。



 前世、祖父母の家で時代劇を見ながら、何の刺激もなく平凡に過ごしていることを嘆いていたとき、おばあちゃんがよく言っていた。

 平凡に過ごせることは素晴らしいことなんだよ、と。

 そして、この『楽しき我が家』を口ずさんだ。


『彼氏がいなくても、刺激がなくても、今ある自分を愛して大事にしなさい』


 おばあちゃんの言葉は高校生だった乃愛にはぜんぜん響かなかった。

 彼氏も刺激も欲しかったし、目立った取り柄もなくパッとしない自分は愛せなかったからだ。

 しかし二十歳になり、大学を卒業し、社会人になり、月日が流れていくうちに、乃愛はおばあちゃんの言ったことの意味をしみじみとかみしめていた。


 刺激が無くても平凡にいつもと同じ生活ができることは、実はとてもありがたいことなのかもしれない、と。


 仕事が大変だったり、上司に怒られたり、通勤途中で嫌な思いをするたびに、乃愛は平凡のありがたさがなんとなくわかるようになった。


 だから『楽しき我が家』を憧れのハープで弾いてみたいと思った。


 そんなふうにして、乃愛は会社の帰りにハープ教室にせっせと通ようになったのだった。



 今ある自分を愛して、大事にする。


(異世界ハッピーライフは、取り戻すんじゃなくて……自分で作ればいっか)


 どこかに小さな小屋を建てる。そこを起点に、あちこちの町や村で竪琴ハープを奏でて日々の糧を得て、世界中を回る。

 竪琴の腕と無敵の魔法があれば、なんとかなるだろう。

 豪華な聖女生活じゃなくてもいい。

 そうやって自分で自分の異世界ハッピーライフを作っていく姿を想像すると、自分って捨てたもんじゃないじゃん、と思えるから。

 


「あ、音符が……」


 ノアは竪琴ハープを奏でながら、その光景に釘付けになって、天井を仰いだ。



 旋律を奏で、弦を弾くたびに、羊皮紙から光が飛び出し、きらめいて空中に消えていく。

 その度に、羊皮紙に記された音符がひとつ、またひとつと消えていった。

 空中で打ち上げ花火のように音符が色付いて消えていく。それはまるで、閉じ込められていた星たちがひとつひとつ、空へと解放されていくような、幻想的な風景だ。

 最後の一つの音符が消えゆくまで、ノアは音色の震えの余韻を響かせ、最後にそっと弦を押さえた。




「う……」


 うめき声で我に返ったノアは、飛び出るほどに目を見開いた。

 そこに黒狼の姿はなかった。


 代わりに、引き締まった筋肉質の青年が横たわっていた。

 褐色かっしょくの肌は痛々しい傷を負っているが、それさえも芸術に見えてしまうような、惚れ惚れと見惚れてしまう彫刻のような肉体。


「――ってレオ?! じゃあ、ていうか、これって、これって呪いが解けたってことよね?! よかったーっ! バンザーイ……ってでもでもでも!!」


 驚愕と歓喜と羞恥しゅうちの混ざった悲鳴が、大神殿の地下に反響した。



「ノアが」

 アルが立ち上がって行こうとするのを、傍にいる神官兵が止めた。

「アルフレッド様、いけません! そのお姿で聖女様の前に行ったら、また悲鳴を上げさせてしまいますよ!」


 神官兵――の制服を着たトレスが苦笑した。そして、持ってきた包みを全裸の主の腕に押し付ける。


「傷の応急手当は終わりましたので、アルフレッド様はまず御召し替えを! さ、マルコス殿、次はレオナルド様の手当と着替えを」

「かたじけないっ、トレス殿っ、ああしかしっ、このような奇跡を目の前で目撃するとは、それがしはもう、嬉しくてっ……」


 並んで走る巨漢は感涙かんるいにむせている。トレスは苦笑しつつも気持ちはわかる、と思った。


「アルフレッド様の身に起きたことがレオナルド様にも起きていると思いますよ。花火のような光が狼の鎧を溶かしていった、あの奇跡の光景を」

「うむ、うむっ」

「主の呪いが解けた喜びは後ほど分かち合いましょう。エルメスが飛び立った後、追いかけてきてよかった。とりあえず今は貴方の御主人に御召し物を持っていかねば。聖女様が卒倒してしまいます」

「レオナルド様もアルフレッド様も幼き頃より、呪いに苦しめられた御身。ほんとうに、ほんとうにようございましたなあ」


(面白い男だな)

 トレスは思わず笑む。

 ブランデン王国とモーム王国は敵対していると言ってもいい関係だが、その敵国の皇太子の呪いが解けたことを我がことのように涙を流して喜ぶ巨漢に、トレスは好意と言ってもいい感情を抱いた。



「トレス殿?!」

 マルコスと走ってきた神官兵を見て、ノアは立ち上がった。

「どうしてここに」

「エルメスからの手紙の内容は見ていました。それで、後から追いかけてきたんです。来てよかった」


 トレスは微笑んで、しかしマルコスに抱き起されているレオに厳しい表情で歩み寄った。


「これはひどい……魔物の傷に効く薬が宿にあります。早く運びましょう」

「トレス殿、聖女様、かたじけないっ、某が殿下をお連れしますっ」


 マルコスとトレス、二人がかりでレオにガウンをまとわせ、マルコスがレオの身体を肩に担ぎあげた。


「う……マルコス……、俺は……もう、子どもじゃないんだがな……」

「お叱りは後ほど受けますっ、傷口に触るのでお静かにっ」 


 レオは抵抗する気力もないのか、微かに笑った。


「すまん……」

「なにをっ、なにをおっしゃいますかっ、これほど嬉しき日はございませんっ、レオナルド様の呪いが解ける日がくるとはっ……某、ここで果てても人生悔いなしでございますっ」

「おまえに……死なれては、困る」

「はいっ、レオナルド様を無事にお運びするまでは死にませんっ」

「そう、では、なくて……おまえがいなくては、俺の……右腕は、誰がなる……」


 マルコスは一瞬驚いたように大きな目をさらに大きくし、その大きな目から滝のような涙を流した。


「もったいないお言葉っ……某、胸がいっぱいにございます!!」

「う……」


 レオの言葉は途切れた。トレスが血の気の引いたレオの顔をのぞきこみ、眉を寄せる。

「いけない。魔物の傷はふさがりにくいので、出血がひどい。このままでは失血のショックで御命が危うい」

「な、なんですと?!」

「私が乘ってきた馬は神殿の丘の麓の公園に繋いでいるのです。そこまでマルコス殿、殿下を急ぎお運びできますか?」

「さっき使った荷車が中庭に隠してあるわ。それを使おう!」

「そ、そうでしたな聖女殿! では急いで中庭へ」


 広間に戻ると、すっかり服を着たアルが階段の様子をうかがっていた。


「さっきより地上が騒がしい気がする」

「私がこちらへ来るとき、街にいた神官兵が多く引き上げてきました」

「レオの手当が速く行えることが最優先だね」


 アルはレオの様子を見て、険しい表情になる。


「呪いが解けたなら、もう狼の姿になることはないから、正体を隠す必要もない。僕とレオの身分と、そのレオが瀕死ひんしの怪我人ってことでここは通してもらおう」

「で、ですが我らは侵入者ですぞ」

「レオの命を救うためだ。それに、それくらいゴリ押ししないとノアを保護できない」

「あ、あたしはいいの。ほら、呪いは解いたでしょ? そしたら妃になるって話もナシだから、アルたちがあたしを気にする理由はもうどこにも無いわ」


 アルの熱い翡翠の双眸がノアを捉える。どきっとしたノアの手を、アルが引いた。


「理由はある。――さっき、言っただろう」

「アル……」

「それに、君は僕らの呪いを本当に伝承通りに解いてくれた。正真正銘の聖女だ」


 トレスとマルコスも大きく頷く。


「本当に存在するとは思ってもみませんでしたが」

「アルフレッド殿下とトレス殿の言う通りにございます。まさに奇跡の聖女ですな」

「戻ってくる神官兵の中にはテオ大神官の追手も多くいるだろう。彼らが来る前にここを出なくては。行こう、ノア」

「アル……トレスさん、マルコスさん」


 アルとレオの呪いが解かれた以上、ここで見捨てられても当然だと思っていた。

 けれど、誰もノアを捨てていこうとは言わない。


 アルからの想いと瀕死の怪我を負ってまでノアをかばったレオの想い、そしてトレスやマルコスの思い。それらが、ノアの胸を熱くして、喉までこみあげてくる。そのこみ上げてきたものを何とかノアは言葉にした。


「ありがとう……ありがとうございます」


 アルは微笑んだ。

「ノアはマルコス殿と共にまだ神官兵の制服姿だから、レオに付き添う神官兵ってことでこの場を突破しよう」

「そういたしましょうか」

「行きましょうぞ」


 一行が中庭への階段へ向かおうとしたとき、背後から高い声が上がった。


「あらあらノア様? どちらへ行かれるのです?」


 振り向くと、礼拝堂から続く階段からブルネットの美少女――アンナが下りてきた。

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