42 魔法の竪琴大作戦②


 大神殿の地下は広間と幅の広い廊下、地下とは思えない高い天井を有し、硬い静寂に支配されていた。

 その静寂に生き物の気配を与えているものが、広い廊下のずっと先でうごめいている。


「あれが双頭の犬、オルトロスよ」


 ノアは身震いした。宝物を何百年も宝物を守ってきたという魔物からは、ここからでも血の臭いが漂っているように感じる。


「あの魔物のいる辺りに宝物庫が?」

「ええ、そうよ」

「あのオルトロスとかいう奴を、ここまでおびき寄せればいいんだな」

「そうだね、僕とレオであの魔物をこの広間まで誘導する。その脇をかいくぐってノアは宝物庫まで走る。いいかな?」

「う、うん」


 ノアはごくりと唾を呑んだ。

 レオが広間を見回す。


「ノア、今降りてきた階段の他に地上へ出る階段は?」

「この広間をはさんで、そこが今降りてきた階段、あっちの柱の影にあるのが、礼拝堂につながる階段よ」


 レオはマルコスを振り返り、ちょっと来い、と礼拝堂へ続く階段の方へ歩いていった。



 レオは階段を見上げて、かすかな明かりが階段にあることを確認する。


「明かりが届いているということは、礼拝堂の階段には扉が無いということだ。いざというときはこちらも使えるな」


 レオはマルコスを振り返り、声を低めた。


「おまえは周囲を見張り、退路を確保しろ」

「はいっ、もちろんでございます」

「くれぐれもオルビオンの神官兵に捕まるな」

「心得ておりますっ」

「なんとしてもノアを守り、逃がせ。最悪の場合、俺を捨ててでも、だ」

「はいっ……って、ええ?!」


 マルコスはぶるぶる首を振った。

「何をおっしゃいますか! レオナルド様の安全が第一に決まっておりますっ……」


 マルコスは言葉を呑みこんだ。今は狼のあるじの顔が、微笑んだように見えたからだ。


「おまえの忠心にはいつも感謝している。そのおまえを見込んで頼むのだ」

「ははあっ、レオナルド様のお望みとあらば、このマルコスなんでもいたしますっ……!」

 感極まったマルコスに、レオははっきりと告げる。



「俺がこの場でいちばん望むのは、ノアの安全だ」



 異世界からきた聖女の噂を聞いて、これは利用できると思った。

 長年やっかいだと思ってきたオルビオンの鼻をあかし、立場の強さを逆転できるチャンスだと思った。

 伝承にこじつけて異世界からの聖女を妃に所望し、オルビオンを翻弄ほんろうした。この先、オルビオンが提案どおり聖女を妃として差し出しても、拒んで戦争になったとしても、モームに不利なことは一切無い。

 すべてが順調にいっている――ノアの身の安全をのぞいて。

 レオが王位に着くにあたって企んでいた外交戦略は、ノアを犠牲にすることによって成り立つ。

 追放されたノアに会い、共に行動して、そのことに気付いた。

 そして途中まで、それでいいと思っていた。


――しかし、今は。


(ノアを犠牲にすることはできない。外交戦略が思い通りにいかないとしても)


 オルトロスを見て、命の危険があるかもしれないと思った瞬間、これまで胸の底で渦巻いていた混沌とした思いがはっきりと形を成したのだ。



(つまり……俺はノアを愛している、らしい)



 竪琴が痛みを癒してくれたからなのか、あの華奢きゃしゃうるわしい容姿に惹かれたのか、か弱そうな外見とはうらはらに行動的で意表を突かれるのが新鮮だからなのか。

 理由なんてわからなかった。ただ愛おしかった。姿を見るだけでうれしかった。

 夢魔サキュバスの誘惑などではない。

 レオ自身がノアを欲していることに、はっきりと気付いた。

 次に人間の姿に戻ったら、ノアをこの腕に思いきり抱き締めたい――その想いを止めることはできなかった。


「だから、俺はここで命をかけてノアを守る。だからおまえも、ノアの身の安全を第一に考えてほしい。いいな?」


 ぐ、と言葉に詰まりつつも、マルコスはレオに頭を垂れた。



 レオとマルコスは、礼拝堂へ続く階段をつぶさに見ている。

 その姿と、遠く廊下の最奥に見える魔物の姿を交互に見ていたアルが、ノアを見上げた。


「あのさ、ノア。ブランデンは、とてもいい所だよ」

「え? どうしたの急に……ええ、美しい国だと聞いたことあるわ」

「だからさ……ブランデンにおいでよ」

「え……?」


 湖水のようなノアの瞳が困惑に揺れる。

 その瞳に、アルはどきりとした。


「だ、だからさ、もう宣戦布告とか関係なくて。その――」

(何を言っているんだ僕は)

 常に冷静沈着、物事を論理的に分析し、チェスの駒のように物事を進めるアルにとって、不測の事態すぎて、言葉がつなげない。


「アル、あたしがブランデンへ行ったらオルビオンはモームに攻撃されてしまうのよ。ブランデンにはぜひ行ってみたいけど、今すぐには――」



「そうじゃない! 僕の傍にいてほしいんだ!」


 夢魔サキュバスを振り切ったあたりから気付いていた、心の底にあったいちばん欲していること。それが言葉になって口を突いて出てきた。



 ノアもびっくりしているが、アルもびっくりしていた。でも、一度言葉になったら止まらなかった。


「もう外交戦略とか宮廷での立ち位置とかどうでもいいんだ。そんなことにノアを利用したくない。僕はただノアと一緒にいたい……それだけなんだ!」


 再誕聖女を利用して、外交でも内政でも優位に立つ――そう思っていた。

 信仰の国オルビオンを傀儡かいらいにして神の威光を味方に付け、世界へ働きかける力を手にすることは、歴代の王が成し得なかったこと。

 オルビオンに異世界からの聖女が現れたと聞いたとき、神が自分に味方したのだと歓喜した。実際、すべてが思い通りに運んでいた。

 オルビオンが提案どおり聖女を妃として差し出しても、拒んで戦争になったとしても、ブランデンに不利なことは一切無い。


 しかしそれは、ノアの身の安全と引き換えだ。

 廊下の奥にうごめく不吉な魔物を目にした瞬間、アルは自分がどうしたいのかがはっきりと見えた。


(ノアを犠牲にするくらいなら、今回の策略などすべて白紙に戻す!)


「ね、ねえ、アル、あの――」



「ごめん、僕は……君を愛してしまったみたいだ」



 竪琴が痛みを癒してくれたからなのか、柔らかい湖水色の瞳と笑顔に惹き付けられるからなのか、驚くような発想で予想もしない行動に驚かされるからなのか。

 理由なんてわからなかった。ただ愛おしい。その想いがアルの底から噴き出した。


「僕は君が欲しい。ブランデンに来る理由は、それじゃあダメ?」

「い、いいいや、あのね、あの――」


 ノアの顔色は赤くなったり青くなってりしてる。


「ノア?」

「オルトロスが、気付いたみたい……」

「え?」


 見れば、廊下の奥で双頭の犬が低い呻り声を上げている。

 まずい、と思った瞬間、双頭の犬は地面を蹴って猛然と向かってきた。




「レオ!来るぞ!」

 アルは叫んだ。


 黒狼が四肢をり疾走する。アルも続いた。


「片側に追い立てるぞ! ノアが進む道を確保する!」

「わかった!」

 二頭はあっという間にオルトロスに向かっていった。


「あ、あたしも行かないと」

 呆然としていたノアは、意識を奮い立たせて走り出す。


(アルの大バカっ、こんな時にいきなりなんてこと言ってくれたのよっ)


 あれは聞き間違えようのない正真正銘、愛の告白だ。


(あたしは異世界ハッピーライフを取り戻したいだけのぐうたら聖女、ただの元OLなのよ? どこをどうしたら皇太子溺愛ルートになるのよ?!)


 ノアの目の前で、オルトロスと二頭の狼がぶつかった。

 オルトロスは血のような目をぎらつかせてノアを見たが、機敏な動きで挑発してくる白狼と黒狼に照準を変えたようだ。


(い、今のうちに行かなきゃ)


 激しく吠え合う三頭の脇をすり抜け、ノアは宝物庫の扉に向かってまっしぐらに走る。目ざとくそれを見つけたオルトロスが方向転換し、ノアの背中を追おうとするがアルとレオがそれを果敢にはばんだ。


(あたしだってアルやレオに惹かれるけどっ)


 懸命に走りながらノアは心の中で叫ぶ。

 前世では彼氏もできずに人生が終わったと思ったら、目の前に前世でも見たことのないようなイケメンが現れたのだ。これがきゅんきゅんせずにいられるわけがない。


(でも……どちらか一人は選べない)


 それはノアだけの問題ではないからだ。

 アルとレオとの関係には、オルビオンの命運がかかっている。そしてノアは、ぐうたらでも曲りなりにも奇跡の再誕聖女という立場にいるのだ。

 異世界ハッピーライフは、その立場を守ってこそ手にできるご褒美なのだ。


(アルもレオも、好き。好きだよ。好きだけど、あたしは――)



 花より団子、皇太子溺愛ルートより異世界ハッピーライフを取る。――再誕聖女ゆえに。



(ならばあたしは、ぜったいに二人の呪いを解いてみせる)


 聖女として、アルとレオに惹かれる女子として、せめて二人を苦しみの連鎖から救ってあげたい。


 宝物庫の扉はもうすぐ――と思った刹那、足がもつれて思い切り床に転倒した。

 ごう、という咆哮が上がる。立ち上がろうとするノアの頭上に犬の足とは思えない巨大な前脚が振り下ろされようとしていた。


(やられる――!)

「……っ?」

 しかし予想した衝撃はなく、代わりに荒い悲鳴が耳朶じだを打った。


「レオ?!」


 赤い飛沫が、白い大理石に点々と咲いていく。


 ノアの前に飛び出したレオは、オルトロスの爪に背中をえぐられていた。漆黒の毛並みがみるみるぐっしょりと湿っていく。


「うそっ、やだレオっ、どうして!」

「言っただろう、ぜったいにおまえを守ると。早く行け」

「で、でも」

「早く行けっ、目的を忘れたのか!」


 レオの怒声にノアは反射的に走り出す。


(守るって言ったけど! 言ったけど!)


 背後ではオルトロスの激しい咆哮が上がる。それは宝物庫に近付くノアへの怒声だ。その怒り狂ったオルトロスをアルが、手負いのレオが、身をていして必死で止めているのが吼え声と大理石を蹴る音でわかる。


 アルの告白で、レオの大怪我で、ノアはもうわかっていた。

 アルもレオも、魔法の竪琴を手に入れて呪いを解くことより、ノアの身を案じてくれているのだということが。



 胸がきゅうと痛いのは全力疾走のせいじゃない。

 生まれて初めて、誰かから愛されるという、その切なさがの痛みが胸を締めつけている。



 宝物庫の扉が近付いてくる。鼻の奥が痛い。視界がぼやけてくる。


(アルもレオも死んじゃやだ!アルやレオが死んじゃったら魔法の竪琴なんて役立たずなんだから!)


 宝物庫の扉に着いた。オルビオン神話の有名な逸話のシーンが彫刻された扉。扉に手を掛けると、鍵はかかっていない。


「く、ううう」


 重い扉を全体重かけて引っぱる。頬を冷たいものが伝って、白い大理石にぽたぽたと落ちる。やっと、ノア一人が通れるほどの隙間が開いた。


「アルもレオも呪い解くんでしょ?! そのための聖女でしょ?! 溺愛ルートは想定外なんだからねっ!」


 宝物庫に身体をすべり込ませて、ノアは内側から扉を思いきり押して閉じた。




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