008
「合言葉を」
医師への届け物を持つグレイへ、奥の部屋を見張る警備は機械的に返す。
「実物を持ってる。これ以上の証明、必要ある?」
「珍しいですね。貴方がそんな事を言うなんて」
「ちょっとね。ほら、受け取って」
死体を警備に押し付けようと抱き直しても、警備は拒否の姿勢を保つ。
「いいえ。それでも、貴方には必要な工程ですから」
事務的な態度に、グレイは有り余った時間を奪われるように感じていた。手放しても問題無い、要らない物だ。
「何故」
「端的に言えば、わからないんですよ」
「わからない?」
「幾つもの仮面を被る貴方が、目の前にいる相手が、私達には白煙か判らない。己の証明ですら難しいのに、貴方は特別だ。誰でも出来る任務ほど合言葉が必要になるのは、指定の時間と場所で、決まった台詞を言う貴方を見ているからです。それに貴方だって、言葉を頼りに相手を選ぶでしょう」
問い掛けるように視界へ入った警備の白手袋を、グレイが目で追う事は無い。溜息を吐いて、グレイは荷物を担ぎ直す。
「選ばない。……本当に奥に居るんですよね?」
存在さえも伝えられないとばかりに微笑んだ警備は、よく仕込まれている。彼が隠れるのにさぞ心地良いだろうとグレイは冷たく笑う。
口にする言葉は、特別に苦ではない。口にも、耳にも慣れた台詞だ。
ただ、合言葉と紐づくように、彼へ確信を与えたあの日が
闇に浸された夜、街灯の明滅下で隣に立った彼は合言葉を吐き、グレイは僅かに持っている自分を晒した。陰として、駒として、演じ切る事も出来た筈だ。
あの夜、待ち合わせ場所に居たルークの隣へ立つ選択を取ったのは、紛れもないグレイ自身だった。
――煩わしいな。
浮かぶ情景が目障りで、口にした言葉はグレイを蝕んでいく。
全ては組織の所有物だ。侵され、濡れ尽くし、これ以上蝕まれる部分なんて残ってはいないのに。
己で見つけられない自分を晒す、なんて行為は矛盾だろう。しかも、何故か痛むような気さえするのだから、可笑しい話だ。
――――――――
「チェス、やるか」
普通を装ったであろうルークが、グレイへ声を掛けたのは事件の翌日。
終業時間ギリギリ、夜明けから日中の全てを潰した彼は夕刻にようやく解放された。彼が調査に加わる事は許されない。被害者の遺族として、彼は事件の調査から遠ざけられる。
付き添ったアレックスに帰されたのだろう。六班に戻って以降、黙っていたルークは仮面を被ったような笑い方をしていた。
「急だね」
「ダメか? できる?」
「知識として、知ってはいるけど」
「じゃあやろう」
何故突然、とグレイは疑問を抱く。だが、その思考は容易く掻き消されてしまう。
《立候補しよう! 俺がやりたい!》
ピアスから聞こえる快活な声に、グレイは逆らわない。
「一回だけなら」
そう言ってデスクを立ち、ソファの向かいに座る。依頼人が見ているタイミングは、グレイには分からない。彼が対局を申し出るなら、グレイが断る理由は消えるのだ。
「アルさんに『グレイは下手』って聞いてたんだけどな」
チェックメイトまで依頼人は楽しんでいた。駒を動かすのも、盤面を眺めるのも、依頼人の好物だ。加減を楽しむ依頼人は、記憶の中でも鮮明に残っている。
《彼は、平均くらいかな》
「君が下手すぎるんじゃないか?」
「おまえ……失礼だな」
「僕が下手だって共有してる、君とアルも失礼だと思う」
《君の手柄じゃないのに、よく言うよ。――そうだよねえ?》
突然の猫撫で声は、彼の飼い猫にでも同意を求めているんだろう。ピアスの向こうで、グレイが知る事の無い愛情が与えられていた。
目の前の男は、キングの駒で気怠げに遊ぶ。カタン、と音を立てて盤に置いたり、指先でくるりと見つめたり。ちらとグレイを視線で捉えた瞳が躊躇うように伏せられた後、狙うように視線が重なる。
ルークは雨音で聞き損ねてしまいそうな程、小さな声を静かに漏らす。
「勝ったら、頼みを聞いて貰おうと思ってたんだ」
弱く零れた願いを、グレイが見落とす事は無い。
「頼み? 言っていいよ」
伺うように微笑みかければ、ルークの瞳は鋭い光を宿したように見えた。
例え、彼が自らに狙いを定めていたとしても。
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