君の居る人生一つ

 本当のことを言えば、君が居なくなってから二日もしない内に君がどこに居るのかの検討はついていた。というよりも、僕が考えられる範囲ではそこしか場所が無かった。それでも今の今まで探しに行くことをしなかったのは、君に会うのが怖かったのと、もしそこに君が居なかったのなら僕が君を見つけられないことが確定してしまうからだった。「その気になればいつでも会いに行くことができる」という状態を保ち続けていたかった。

 ついさっきまでの僕には、僕のことを想っていない君に会いに行くことも、君の居場所が分からなくなることを確定させることも怖くて出来なかった。鮮明すぎる夢も、噎せた水もその恐怖に打ち勝つ理由には弱すぎるような気もしている。でも折角幾分か自棄な方向に心が向かっているのだから、余計なことを考えてそれが恐怖に食べられる前にさっさと家から出てしまおう。

 持ち物はどうしようか。階段を上がりながら考える。咲月が居ると思われる街に着くのは、どんなに早くても陽が落ち切ってしまっている頃だろうから、一泊分の着替えは持って行こう。駅前のビジネスホテルにでも泊まって、昼過ぎに会いにいけばいい。

 いや、もしかしたら外出している可能性も捨て切れない。念の為三泊程見積もった方が良いだろうか。例え家に君が居なくても、駅周辺を三日程張っていれば見つかるかもしれない。

 これは、もしかしなくとも立派なストーカーなのだろうか。いや、違う。ただ君に会いにいくだけだ。もし君に会って、嫌な顔をされたら、その時はすぐに、その時は、その時は、すぐに、

 自分が心のどこかで軽蔑していたであろう連中の心情が少し分かったような気がして、少し不快になった。

 やっぱり行かない理由を考えてしまうのは良くない。今はただ家から出ることだけを考えればいい。僕は自室のクローゼットの上段に押し込められていたスーツケースを引っ張り出して、適当に三日分程の着替えを押し込んだ。足りない物があったら向こうで買えばいい。

 思い出したかのように時計を見る。スマホの時刻表と照らし合わせると、間の悪いことに次のバスはあと五分で来るところだった。その次は一時間後。走っても間に合わないし、家の中に居ても良いことがあるようには思えない。荷物を詰めたスーツケースを持ったまま階段を降りて、それをそのまま玄関に置いて家を出た。特に積極的な理由がある訳でもない。ただ家に居るのは良くないという理由で、ほんの一時間前に歩いた道と同じ道を歩くことにした。別に、この道を歩くことを面倒臭いと思ったことは無い。

 さっきも通ったはずなのに、なんとなく足がふわふわとしている。実際におかしいのは足ではなく心で、なんなら脳なのだろうけど、例えるのなら、大学の入学式の日の朝に似ている。その時に歩いた道はこの道ではないのだけれど、何度も歩いた道がどうも違って見えるような気がするのは同じだ。いつもは対して気に留めなかったものがやけに鮮明に、目について見える。側線の少し剥げた所とか、欠けた石垣とか、傾いた電柱とか。気の持ち様によって見える世界が変わるのは、言われてみればそうなのだろうけど実際に体感すると少し不思議な感覚だ。どちらかというと不快な方面で。きっとこういうのは「不安」という一言で纏められてしまうのだろうな。心なしか、川の流れがいつもより速い気がする。

 川沿いの紅葉に沿って歩き続けると、一時間前と変わらないはずの小さな橋が見える。今の僕にはさっきよりも赤く見える。橋を渡ると、小さな山に向かって伸びる一本道とその両脇に開けた草原が広がっている。この道を一人で歩くのは何度目だろうか。いつか、君と歩いた数の方が少なくなってしまうのだろうか。叶うのなら、一人で歩くのがこれで最後になれば良い。

 葉の無い桜の前で立ち止まる。少し迷った挙句、どうせならと階段を上がった。一日に二度なんて、神様に傲慢だと思われはしないだろうか。まあそもそも五円や酒瓶程度で願いを叶えてくれる神様なんて居やしないだろうな。僕らの場合はいつも無銭だったし、今更か。鳥居を潜って、小さな祠の前で立ち止まる。この時ばかりは、見える景色がさっきと何も変わらないように思えた。手を合わせて、居るか分からない神に念の為二回目であることの詫びを入れてから願った。あと、財布の中に余っていた小銭を全て流し込んだ。それでも三百円も無かったような気がしている。目を開けて振り返ると、空がさっきよりも紅くなっている気がした。僕は、いつもよりほんの少しだけゆっくりと階段を下った。


 再び家に着く頃には東の空がだいぶ暗んでいた。玄関先に置いていたスーツケースとコートを取って家を出る。少しだけ迷ったが、靴箱の上に置いてある鍵は二本ともズボンのポケットに入れた。

 ここ最近は秋の割に暖かいけれど、やはり陽が沈むとそれなりに冷える。今年の雪はいつもより遅いのだろうか。もう今日だけで三度は通った道を歩く。まだ足のふわふわとした感触は消えない。寧ろ強くなっている。慣れている筈の道を、慣れない心を抱えて歩く。そもそも君がどんな反応をするのかも見当がつかない。出て行ったきり一年近く帰ってきていないことを考えると、やはり良い反応は貰えないだろうか。それとも、本当は探しにきてほしくて、こんなにも待たせてしまったことを怒ったりしてくれるだろうか。

 してくれないだろうな。

 君は、そんな人じゃない。

 だからこそ分からない。君はそんなまどろっこしいことをしないし、かといって何か不満気な様子も無かった。君が居なくなる日の前の晩まで、君は本当にいつも通りの君だった。それとも、そう思っていたのは僕だけで、本当は出て行きたくなるような何かをずっと抱えていたのだろうか。僕は、本当に何もかも分かっていなかったのだろうか。何も分かっていなかったことも、君を出ていかせてしまった理由の一つなのだろうか。分からない、何も分からない。君は、僕に何かを分かってほしかったのだろうか。

 バス停に着くと、腰を掛ける間も無くバスがやってきた。客は誰一人として乗っていなかった。カードリーダーにスマホをかざしても反応が無く、数回かざしたところでやっと残高が表示された。運転手のすぐ後ろ、少し高くなっている一人席に腰を掛けてさっきの続きを考える。


 もし君に会えたのなら、どんな顔をするだろうか。


 そりゃもちろん喜んでほしい。遅いよって言って怒ってくれても良い。呆れられても良い。とにかく、君が僕が迎えに来ることを少しでも期待していてくれたのならそれで良い。でも、やっぱりそうはいかないだろうな。君が居なくなった理由は何一つ分からないけど、会ったところで良い反応を貰えないだろうなということは分かる。それが分かっていたのだから、今まで会いに行けなかったのだし。やっぱり、会いにいくべきじゃないんだろうか。君が望まないのなら、するべきじゃないのだろうか。いや、もうそんなことはどうでも良い。これは、僕のためだ。僕のために君に会いにいく。僕が僕を満足させるために君に会いにいく。君のことなんてどうでもいい、なんて言ったらやっぱり嘘になるけど、それでも僕は僕のために君を見つける。

 思い返せば、いつだって僕は自分のことばかりだ。誰かに親切にするのも、真に誰かを思ってのことじゃない。誰かに優しく出来ない自分を許せないからだ。

 君に笑っていてほしかったも、君が悲しんでいるのを見ると僕が悲しいから。 

 君に幸せでいてほしかったのも、君が不幸だと僕が不幸になるから。

 君が楽しそうにしているのを見るのが好きだった。君がはしゃいでいるのを見るのが好きだった。君が気持ちよさそうに寝ているのを見るのが好きだった。君が美味しそうに何かを食べているのを見るのが好きだった。

 全部、全部僕のためだ。全部、僕が幸せでいたいから、僕がそう望んだからそうした。僕は、生まれてからずっと自分勝手だった。だから、今日だって自分勝手で良い。そういうことにしておこう。そういえば、会いにいかなかった理由だって自分勝手だった。勿論、君が喜んでくれればそれで良い。そうでなくとも、僕が会いたいから君に会いにいく。

 結局バスは終点まで一人も乗せずにターミナル駅に到着した。もうすっかり空は暗くなっていて、僕はそのまま電車のホームへと向かった。流石にバスとは違い、十五分後には目的の電車が来るようだった。改札の中にあるコンビニで温かいお茶を買って階段を上がった。家を出た時に比べてかなり冷えてきていたので、暖房の付いている小さな待合所に入った。そこには学校帰りだろうか、制服姿の男女が身を寄せ合って一つのスマホに表示されているアニメを一緒に見ていた。見ると、無線のイヤホンを互いの外側の耳に一つずつ付けていた。羨ましいとは思わなかったが、もう随分長いこと誰かと身を寄せ合うなんてしていないなとだけ思った。

 君のことを考えていたら、電車はすぐに到着した。人も大して乗っていなかったので、四人掛けのボックスシートに座った。ドアが閉まる。電車は太陽を追いかけるように西へと進んでいく。どれだけ走っても追いつけそうにはないけど、それでも西へ向かって進んでいく。



 そうだ、僕はどこまでも自分勝手なんだ。君を思ってのことも結局は全て自分のためだ。全ては僕が幸せに生きるための行動だ。君を幸せにしたいと思っていたのも、結局は僕を幸せにするための過程でしかない。僕は、君を透過した光で僕の人生を照らしたかったんだ。僕は、君の幸福で僕の人生を幸せにしたかったんだ。だから、これは君のためじゃない。僕は、僕の幸せのために君に会いにいく。君の反応で不幸になろうとも、それでも僅か望みに賭けて君に会いにいく。僕はただ、僕のために君が居てほしいんだ。きっと、ただ君が欲しかっただけじゃない。僕は、君の居る僕の幸せな人生が欲しかったんだ。君の居る人生が、ただ一つ欲しかった。それを今から取りにいかなきゃ。僕のために、君の居る僕の人生を取り戻しにいかなきゃならない。



 一時間近く走って、漸く目的の駅に着いた。スーツケースを転がして改札を出ようとすると、上手くかざせなかったのか、改札のゲートが閉じた。何度かやり直して改札を抜けると、エレベーターもあったが大した荷物じゃないのでそのまま正面入り口の大きな階段を降りた。この街に来るのはいつぶりだろうか。僕は、君の実家がある街のアスファルトを踏んだ。

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忘れるとか、忘れないとか、そういうのじゃなくてさ 藍空と月 @aizoratotsuki

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