昨日の夢

 「本当に久しぶりだね!急に連絡きたからびっくりしたよ!最後に会ったのっていつ?卒業してから会ってない?」

 「多分、卒業式が最後だから二年前くらいかな?」

 ファミレスで向かいの席に座る優香は、氷の入ったジンジャーエールをストローでくるくるとかき混ぜている。

 「急にごめんね。でもまさか、こんなに早く会えるとは思ってもなかったよ。」

 「まあ今日は休日だし特に予定もなかったからねー。久しぶりに咲月から連絡が来たと思ったら、会いたいだなんて、どうかしたの?」

 そうか、今日は日曜日なのか。彼と一緒に生活をするようになってから曜日感覚が大分鈍っていた。それならさっきの駅で見たのは、休日出勤をするサラリーマンと部活に赴く学生だったのか。

 「いや、特に何かあったってわけじゃないんだけどね。偶々こっちに帰ることになって、なんとなく会いたいなと思って。」

 言うと、優香は少しだけ不思議そうな顔をした。

 「咲月って東京に出てたんだっけ?」

 「東京ではないけど、県外には出てたよ。」 

 「あれ、そうだっけ。仕事も?そこでしてるの?」

 「仕事は、まぁ、ちょっと訳あってしてない。」 

 卒業後、県内で就職をしたものの体調を崩して半年も経たないうちに辞めた。そこから半ば専業主婦のような生活をしていたのだが、この歳で定職に就いていないということに引け目を感じて他人には言わないでいた。まぁ復調してからも働かなかったのはまた別の理由になるのだけれど。

 「そうなんだ。あ、そうだ!今度久しぶりに二人でどっか行かない?私まだ有休余ってるし、咲月が良ければ旅行なんてどう?」

 気を遣ってくれたのだろうか、そこまで分かり易い程に、自分の周りに良くない空気を纏ってしまったことを申し訳なく思う。それと同時に、素直に有難いと思った。

 「うん、行きたい。行こう。」 

 なるべく明るく答えたつもりではあったが、それでもやはり、良くない空気は晴れないままだった。少なくとも私には優香がそれを感じ取ったように見えた。それでも優香は笑って、

 「よーし、善は急げだ!今ここで緊急旅行計画会議を開催します!」

 と、高らかに宣言をした。私は、心の底から「有難い」と思った。

 そこから小一時間、私たちは旅行の日程と行き先を会議した。会議を進めていくにつれ、仕事の折り合いがなかなかつかないことに気がついた優香は、申し訳なさそうに三ヶ月後の大型連休明けの日付を提案してきた。「善は急げとか言ってごめん」という言葉を添えて。その代わりにとでも言わんばかりに、彼女は大胆に行き先として南の島を提案してきた。しかも本島ではなく離島の方だった。調べていくうちにちょっとだけ背伸びをすればどちらも行くことが出来ることを知ったので、四泊五日で本島と当初の目的であった離島の方にも行くことにした。

 無事に日程と行き先が決まったものの、「善は急げ」と言う言葉を有言実行できなかったことに後ろめたさを感じていた優香が、来週の土日を使った一泊二日の温泉小旅行を提案してきた。こちらこそ後ろめたさを感じさせる原因を作ってしまったことに申し訳なさを感じつつ、有り難くその提案を受け取った。

 互いにコップの底に残っていた薄味の液体を飲み干してから席を立ち、ドリンクバーだけでこんなにも長居してしまって申し訳ないという顔を作りながら会計を済ませた。そろそろお昼時ということもあってか、店内は徐々に混み始めていた。

 「じゃあ、とりあえずまた来週ね!朝早いからって寝坊すんなよ!」

 気持ち程度の忠言を受け取って、私は優香と別れた。

 

 駅前のファミレスを出て、すぐ側にあるバスのロータリーへと向かう。実家へと向かうバス停の時刻表を見ると、運が良かった、そこまで長い時間を待つ必要もなさそうだった。変わらずこちらもベンチには雪がかかっていたので、立ったままバスを待つ。

 さっきまでの時間を思い返し、改めて優香に会うことができて良かったと思った。そして同時に、私はほんの少しの違和感を覚えた。思い返してみると、優香は彼のことについて何一つとして触れなかった。私と優香が大学の同期であるのと同じように、彼もまた優香と私と同期なのである。そして、優香は私と彼の仲も知っていた。というか優香も彼とは個人的に仲が良かった筈だ。三人だけでどこかに出かけるということはなかったにせよ、同じグループに属していた人間同士、そこまで悪い関係ではなかったように思える。やはり気を遣ったのだろうか。どこかおかしい私の様子を見て、何かに勘付いて意図的に触れないようにしたのだろうか。ただそれを訊いてしまえば、優香の気遣いを反故にしてしまう。ならば考えるのは辞めだ。とりあえず来週の旅行を楽しもう。私は定刻通り到着したバスに乗り込んだ。

 

 数十分ほど走ると、バスは見慣れた住宅街の際で停車した。私はこれを住宅街と呼んでいるが、彼によると住宅街かどうかはギリギリのとこらしい。まあ確かに家は少し疎ではあるけど。

 バス停の通りから一つ内側に入って数分ほど歩く。雪で作られた畝の間をしばらく歩くと、一つ角を曲がったところで実家が見えた。最後に帰ってきたのはいつだっただろう。半年前、母の入居しているグループホームを訪ねた際に寄ったのが最後だっただろうか。そうだ、その時は確か彼も一緒だった。名前も、顔も思い出せない彼に、この実家の掃除を定期的に手伝ってもらっていた事を思い出した。

 雪が積もったまま、半ば坂のようになってしまった石段をゆっくりと上がる。鞄から捨てなかった方の鍵を取り出して鍵穴に差し込むと、ここ最近聞き慣れていたそれとは違った音がした。真鍮のドアノブを握ると、手袋越しでも冷たさが伝わってきた。素手で触ったらくっついてしまうんじゃないかと思えるほどだった。ドアを開けると、薄暗い玄関は彼と最後に来た時から何も変わっていないように見えた。長靴は揃えずに、玄関のすぐ先にある階段を登って自室へと急いだ。

 すっかりと忘れていたが、そもそも優香とは会う予定ではなかったので、当初の予定よりも家に着くのがだいぶ遅くなってしまった。気がつけばもう正午過ぎになっていた。もしかしたら、彼がもう探しにきてしまうかもしれない。私が家出したと知ったのなら、真っ先に探すのはきっと私の実家だ。それなら鉢合わせてしまう前に早く荷物を纏めて出なければならない。

 ドアを開けると、その部屋は物が揃っているのにまるで生活の気配がしなかった。ベッドに腰掛けようとも思ったが、心の中にある少しの焦りが腰を下ろす事を許さなかった。私はそのままクローゼットを開け、上段に仕舞ってある海外旅行用のキャリーケースに手を伸ばした、が、届かない。見渡すもこの部屋には足場になるような物が無い。まぁ最後に使ったのは大学の卒業旅行の時だし、そもそもそれが最初で最後だったのだから、取る気の無いところに仕舞ってあるのもしょうがない。家のどこかに脚立があったような気もしたが、納戸と庭の倉庫の両方を探すのも面倒臭いし、一階にある適当な椅子を持ってくることにした。変わらず生活の気配がしないリビングの食卓から一つだけ椅子を取り上げた。前向きに進んでいた体は、階段に差し掛かるところで横向きにした。このまま登ると後ろに倒れていってしまいそうな気がした。ゆっくりと階段を上がる。慎重に階段を上がるだけで胸が痛くなる。

 椅子を自室に運び、届かなかったキャリーケースを引っ張り出す。とりあえず一週間ほどビジネスホテルにでも泊まろう。幸い、仕事をしていた頃の貯金が残っている。そして部屋と仕事を探そう。家具なんて少しずつ揃えればいい。仕事はアルバイトでもなんでもいい。とりあえずその日生きていくことができれば今はそれで良い。

 私には夢が無かった。熱中できるようなことも、ましてや人生を切り崩してまで好きになれるようなものに出会ったこともなかった。だからこそ、彼の存在が私にとっての夢そのものだった。お金も、物も、暮らしも、本当に最低限あればそれでよかった。彼と緩い時間の流れに乗って死んでいければそれでよかった。他人から見たらつまらないかもしれない人生も、私にとってはこの上なく最高の人生だった。

 夢を失った人間が抜け殻になってしまうということが今なら良く判る。寧ろ、夢を持つ前の私よりも今の私は空っぽになったように思える。

まだ、どこか不幸面をしている私がいる。


 キャリーバッグに入るだけの荷物を詰め込んだ。殆どは着替えで、足りないものは後で買えば良い。今は一刻でも早くこの家を発たなければならない。これ以上私の心に矛盾を

重ねるわけにもいかない、とか考えているのでさえ腹立たしいし悲しい。そういえば、バスの時間を確認していない。待っていればそのうち来る、というには無理がある時刻表だ。恐る恐るネットの時刻表を確認すると、次にバスが来るのは今から一時間半後だった。 


 こればっかりはしょうがない。うん。しょうがない。


 私は踏み台にした椅子を戻しにリビングへ戻った。この一時間半の間に彼がここへ来てしまったらどうしようか。出てきたはいいものの見つかった時のことは全く考えていない。やっぱり、嬉しいとか思うのだろうか。きっと、ただひたすらに謝るのだろうな。もしかしたら、君のことを忘れてしまうんだって言ってしまうかもしれない。そして君は、それでもいいから一緒に居ようって言ってくれるかもしれない。そうしたら私は戻ってしまうかもしれない。私が君から離れたのは君が悲しむからではなくて私が悲しむからだというのに、私は戻ってしまうかもしれない。

 あぁ、それはだめだな。そう思うことが悪いことのように思えるのはきっと間違っていない。うん、だめだ。私は一時間半後に来るバスを待つことなく家を出ることにした。

 この家には三十分も居なかったと思うが、心なしかさっきよりも暖かくなっているような気がした。自分の腰くらいあるキャリーケースが雪の上を重たそうに転がっている。実際、重い。よかった、雪が降っていなくて。ここからさっきまで優香と居たファミレスのある駅に戻るのだが、流石に歩いて行ける距離ではないので一つか二つ向こうのバス停まで歩くことにした。一時間半なら二つ先まで行けるだろうか。三つ先は、きっとバスに追い越されてしまうだろうな。住宅街を抜け、長い長い一本道をひたすらに歩く。

 もう、彼は起きただろうか。どんなに遅くてもこの時間なら起きてるだろうな。ごめんね以外に私は何を言えるだろうか。

 もう、うるさい。私は彼を忘れるためにここへ来たんだ。とっとと歩こう。歩かなきゃ。

 それでも、バス停に着くまで顔の無い思い出は頭の中を漂い続けた。道中、私を乗せることになるであろうバスが向かい側の車線からやってきたが、疎な乗客の中に彼の姿は見えなかった。

 実家の最寄りのバス停から数えて駅側に二つ進んだバス停に着いたのは、バスが来る丁度五分前だった。こんな雪の中でも、相変わらずバスは定刻通りに到着した。一時間半もキャリーケースを持って歩き続けた私は、バス停を三つ程通り過ぎたあたりでまた眠ってしまった。


 次に目を覚ましたのは運転手に肩を叩かれた時だった。促されるままにバスを降りて、ホテルがある駅の反対側へと向かう。ちょっとした観光地ということもあって駅の周りにはそこそこの数のホテルがある。その中から、眠りに落ちてしまう前にバスの中で予約した自炊のできるタイプのホテルに向かった。一週間も泊まるのだからランドリーとガスコンロの付いているところで探していたのだが、空いていたみたいで案外すんなりと決まって良かった。駅の反対側に出て大通りを跨ぐ横断歩道を歩く途中、チェックインまでまだ三十分ほどあること、今日になってからまだ食事を摂ってないことに気がついた。優香と会った時には空腹を認識できていなかったのだろうか。

 目的のホテルの少し手前、どこにでもあるハンバーガーチェーンに入って朝食を摂ることにした。この店に来るのは彼と同棲する前、まだ働いていた頃にオフィスのある駅で毎晩のように食べていた以来だ。今思えば、体調を崩したのはその食生活も少なからず関係していたのだろうか。ストレスによる暴食が体調をさらに悪化させているなんてまともな判断もできないでいたんだな。きっと。久しぶりに、別店舗であるが同じ店に来てもトラウマが蘇る、なんてこともなく、当時食べていたものと同じセット注文した。一分もしないうちにレシートの番号が読み上げられ、カウンターからトレーを受け取る。なんとなく二階席に行きたくなって、階段を上がった正面にある窓際のカウンター席に腰を下ろすと、丁度大通りを見下ろせるようになっていて、冬休みであろう大学生と外国人がちらほらと見えた。急いで階段のほうに戻ると、注文を取ってくれた店員さんが慌てた様子でキャリーケースを運んできてくれていた。お礼と謝罪をしながら階段の中程まで取りに向かうと、綻んだ笑顔が目に入った。胸の辺りのネームプレートを見ると、その横には緑と黄色のマークが付いていた。

 食事に掛かった時間よりも長い間ぼうっとしていると、チェックインの時間は十分ほど過ぎていた。


 フロントで受けとったカードキーをドアノブの上あたりにかざすと電子ロックが解除された。ドアを開けて右側、スイッチの隣にカードキーを差し込むと部屋の灯りが点いた。ベッドは一つであるが、大学の頃に優香と一緒に泊まった免許合宿の部屋によく似ていた。まぁビジネスホテルはどこも似たようなものなのかもしれない。

 適当に荷物を置いてベッドに腰掛ける。ここにきて漸く空き物件を探し始めたのだが、まあこんな田舎だしどうせすぐに見つかって引っ越せるだろうと思っていた。その予想は半分当たって半分外れた。

 部屋の希望なんて大して無かったのだが、まあ選べるのならなるべく良いところのほうが良いかと思い、風呂トイレ別だとかガスコンロが二口以上だとか調べているうちに色々と拘りが出てきてしまった。それでも想定してたよりもかなり安い家賃でそれなりの部屋が見つかったのは良かった。「月十万払って独房に住んでいる」と言っていた東京に就職した大学の友人は元気にしているだろうか。希望の物件を三つ選び、不動産屋の予約を取ると明日の午前に内見の案内をしてくれるらしい。そんなに早くできるものなのだろうか。取り敢えず、今日のところは家に関して出来ることがもう無いので、ホテルを出て近くのスーパーに食材を買いに行くことにした。炊飯器が無いから暫くはパスタ生活だな、なんて思いながら駅の方へ向かう。

 

 三日分の食材を袋に詰めスーパーを出ようとした時、出口脇の案内板に求人の広告が出ていたので一応写真を撮っておいた。

 一人での食事、風呂を済ませてベッドの上でごろごろとしていると、ずっと頭の中を廻っていた思い出の色が濃くなっていくような気がした。思考を止めると、その隙間に溢れんばかりの思い出が流れ込んでくる。電気を消すと、その現象はより一層強くなっていった。目を閉じると、それはまるで現実のように瞼の裏に映し出された。




 「ねぇ、なんで君は私と一緒に居ようと思ったの?」

 「そりゃ、好きだからだよ」

 「そんだけ?」

 「まぁ、あとは、君が居た方が人生が楽しいんじゃないかなって思った」

「自分のためかよ」

「そんなもんだよ」

「どう、楽しい?」

「さあ、どうだろうね」

「笑いながら言うなよバレてるぞ」




 内見は、恙なく終わった。そう、内見は。とっとと決めてしまいたかったので、三件目が終了して店舗に戻った際に、今日のうちに契約したいと伝えた。本当にどこでも良かったのだが、バス停までの距離がほんの僅かに短い一軒目にした。それを聞いた担当者は笑顔を見せて、デスクの後ろ側にある書類を準備し始めた。促されるままに身分証を出し、様々な説明を受けていたが「ご職業は?」という質問に対してありのままの現状を話したところで彼女の表情が曇った。どうやら、無職は部屋を借りるのが難しいらしい。考えてみたらそりゃそうだ。家賃が払えるかどうか分からないやつに部屋を貸したいと思う大家がどこに居るのだろうか。貯金額、連帯保証人になれそうな人が居ない事を話したところで、部屋を借りるのが限りなく不可能に近い事を悟った。彼女は私を傷つけないよう必死に言葉を選んでいたが、私は自分自身の無知を謝罪して店を後にした。申し訳ない事をしたと思った。

 ホテルに戻ってこれからのことを考えていた。どうしよう、一週間も部屋を取ったのにもうここに居る必要がなくなってしまった。と言うか、週末には優香と旅行に行くのだから端から一週間も居られなかったじゃないか。何をしてるんだほんとに。そもそも契約できたとして一週間の間に手続きから引っ越しまで終わっていたかどうかも怪しい。

 もうここに居る必要が無くなってしまった私は、せめてもの成果を手にしたく、写真を撮ったスーパーの求人広告に書かれていた番号に電話を掛けた。


「あの、求人広告を見てお電話したのですが、あ、はい、そうです。今から、とかでも。あ、そうです、五分もあれば。本当ですか、ありがとうございます。あ、待ってください、ごめんなさいやっぱ一時間後とかでも大丈夫でしょうか、はい、はいありがとうございます。失礼します」


 危なかった。危うく履歴書も持たずに手ぶらで行ってしまうところだった。

 私は急いでコンビニに向かい、その足で駅の改札前にある白い箱の中で証明写真を撮った。就活でもないし、スーツじゃなくても大丈夫だろう。ホテルに戻る途中にもう一度コンビニに寄って両面テープを購入した。


 ただ食材を買いに来た昨日よりも幾分か速く動いている心臓と一緒に入店し、入り口付近でカートの整理をしている女性に声をかけると、少し笑って店の奥へと案内してくれた。台車で押し開けることの出来るタイプの扉を通り抜け、脇に日用品が大量に並べられている通路を通ると、その先に普通の扉があった。彼女は扉を開け、「店長、来ましたよ面接の方が」と中のデスクの前に座っている男性に声を掛けた。彼女に促されるまま、失礼します、と言って扉を潜ると、四十代くらいだろうか、眼鏡を掛けた気の優しそうな男性が立ち上がり、胸元のネームプレートをつまみながら、

「初めまして、店長の中野です。えっと、萩原さん、ですね?」

と言った。 

「はい、荻原おぎわらと申します。あの、先ほどは大変失礼しました」

「いえいえ、まぁあと五分で来れるって聞いた時には流石にびっくりしましたが、実際に電話掛をけてきて今日中に行きたいって方は今までにも何人か居ましたからね。ほら、そこの清水さんもそのうちの一人ですし」

 扉を足で押さえ、体の半分だけ事務所に入ったままの清水さんというその女性は少し恥ずかしそうに笑った。そうか、だからこの女性はさっきも笑っていたのか。三十代前半くらいだろうか、綺麗な主婦といった印象の清水さんは、相変わらず笑ったまま、では、とだけ言って売り場の方へと戻っていった。

 どうぞお掛けになってください、という店長の言葉に促され、長机の反対側、丁度向かい合わせになるように座った。

「この度はありがとうございます。では、早速ですが、履歴書の方をよろしいでしょうか」

 私はほんの数十分前に出来上がったほかほかの履歴書を床に置いた手持ち鞄から取り出した。

「はいはい、ありがとうございます、なるほどなるほど。えーっと、お、週五日入れるんですか。ありがたいですねー」

「はい、バスの時間があるので夜遅くは難しいですが、それ以外なら基本は働けます」

「いやー、ほらもう来月には大学四年生が卒業してしまうんでね、一番人数の居た代がごっそり居なくなってしまうんですよ。こんなに入っていただけるのなら本当にありがたいですよ」

「そう、なんですね、それは良かったです。あ、いや、良くないんですけど、えっと、はい」

 店長はハハハと少し体を仰け反らせて笑った。

「失礼ですが、今は全くお仕事はされていない、ということでよろしいでしょうか?」

「はい、そうですね。一度就職したのですが辞めてしまって。」

「差し支えなければ、理由をお伺いしても?あの、もし難しければ結構ですので、無理の無い範囲で大丈夫です」

「いえ、大丈夫です。その、ただ体調を崩してしまって。電車通勤をしていたのですが、色々なストレスが重なった結果パニック障害を発症してしまって、電車に乗れなくなってしまって。あの、もう今は良くなっているので問題ないですしバスも電車も乗れます。」

「そうだったんですね。でも良くなって何よりです。ということは、暫くはご実家などで療養されていて、今もそちらに?」

「あ、いや、えっと」


 あれ、何かがおかしい。母はグループホームに居て、実家は私だけ。あれ、なんで私今日ホテルからここに来たんだ。仕事を辞めた私は一人で実家に居て、働けるようになったから一人暮らし用の部屋を、あれ、でも実家を出る必要なんて、そもそもホテルに泊まり込みで部屋を探す必要もない、いやそもそも部屋もいらない。卒業して、就職して、仕事をして、ある日電車に乗っていたら突然息苦しくなって、降りたこともないホームに降りて、電話を掛けて、どこに、そのまま二人で、一緒に、




あ。





 私の脳に出来た大きな空洞を脳自身が自覚したその時、そこにあったはずの大量の記憶が流れ込んできた。



「大丈夫ですか?」

「あのっ、はいっ、だいじょうぶ、ですっ」

だめだ、面接中だそ。それ以前に、人前だぞ。違う、空洞があったんじゃない。初めから、そこにあったんだ。ずっとずっと、そこに。私の人生の中で一番大切な思い出が。一番大切な人がそこに居たんだ。それを忘れていたこと、空洞だなんて思ってしまったこと。思い出したそのどれを見ても彼の名前と顔が思い出せないこと。そして、私が彼にしてしまったこと。その全てを思い出しても尚、我慢できる筈がなかった。私は、数分前に会ったばかりの人の前で泣いた。


 その後のことはよく覚えていない。店長が水を持ってきてくれたこと。採用の場合は一週間以内に連絡すると言っていたこと。こんなやつ採用する人がどこにいるんだと思ったこと。チェックアウトをする時にフロントの人にやたらと驚かれたこと。気が付けばスーパーの二階に併設されている百円ショップに来ていた。


 もう二ヶ月も経ってしまったがあるだろうかと探していると、シンプルな壁掛けのものがいくつか余っていた。その中から一つだけ買って外に出ると、雪が降り始めていた。バスの時間を調べると案の定一時間以上あったので、昨日もお世話になったハンバーガーチェーンに行って遅めの昼食を摂った。昨日の彼女は今日も働いていた。


 バスを降りる頃には、陽が傾き始めていた。雪も次第に強くなってきて、スーツケースは転がしているというより引きずっているようだった。家の前に真新しい足跡は無い。

 雪を払い、コートを脱いで上がる。手を洗うよりも先にリビングの小物入れから画鋲を一つ取って自室へと上がった。そのまま窓の横、丁度部屋に入った正面の壁にカレンダーをかけた。そして、棚に放置されていた、大学時代に使っていたリュックの中からペンケースを取り出した。その中にあった赤ペンを握り、私は狂ったように今日までの日付全てに丸を付けた。覚えていた、覚えていた、覚えていた、覚えていた。と言いながら。


 冷蔵庫の電源が抜けていたのでコンセントに挿した。

 ガスの元栓が閉まっていたので開けた。

 意味があるのか分からないけど蛇口の水を出しっぱなしにした。

 昨日買った食材で夕飯を作る間に風呂を沸かした。

 夕飯を食べた。

 風呂に入った。

 髪を乾かした。

 歯を磨いた。

 部屋の暖房をつけた。古い匂いがした。フィルターを変えようと思った。

 久しぶりに自分のベッドに寝た。古い匂いはしなかった。でも明日干そうと思った。


 あぁ、眠るのが怖い。とても怖い。私が望んだのに、やっぱり怖い。ごめん、ごめん、本当に、ごめん。優香との旅行、ちゃんと楽しめるだろうか。楽しんでいいのだろうか。やっぱり、忘れたい筈なんてなかった。もう私は、どうしたって痛いままだ。たった一つの痛みを消し去る方法に、こんなにも抗おうとしている。たった一日で分かった。居ないだけ、それだけでこんなにも忘れてしまっている。


 眠るのが、怖い。このままずっと、起きていたい。







                   * 






 目を覚ますと、色のない春がどこからともなく部屋に入り込んでいた。今日はなんだか目覚めが良い。


 そういえば、酷く幸せな夢を見ていたような気がしている。いや、酷く悲しい夢だったかもしれない。なんとなく、胸の真ん中あたりに、生温いような、少し重たいような感覚が残っている。ずっと続いている、夢の続きを見ていたような、そんな感覚がしている。


 体を起こすと目の端にカレンダーが見える。相変わらず付けられた赤い丸の意味を思い出せない。忘れるくらいだから、大したことじゃないような気もする。でも、あの印を書く度に、酷く辛い思いをしていたような気がしている。


 今日、私は、昨日の夢の続きを見ていた。そんな気がしている。

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