本章 君が目を覚ます前に



 冬の夜は長い。朝五時になっても空は暗いままだった。どうせ起きないだろうと思いつつ、それでも彼を起こさないよう慎重にベットから出た。寒さと静けさが充満した部屋で私は軽く伸びをした。少しだけ体が震えていた。

 もう名前さえ思い出すことのできない彼の寝顔を見て、ごめんねと呟いた。彼は勿論起きない。どうせ起きないのなら、と思い私は彼の頬をそっと撫でた。何度も触れた筈の頬、その感触に私は懐かしさを感じていた。そうか、この感触でさえも私は忘れかけているのか。

 「ごめんね、本当に、ごめんね」

 頬を伝った涙が彼の頬に渡った。すると彼が寝返りを打ったので私は慌てて手を離す。彼は健やかな寝息を立てていた。 

 きっと、これ以上こうしていると折角決めた心が揺らいでしまうだろうから、私は準備を進める事にした。この家から、彼から離れる準備を。

 準備といっても特に大掛かりなものは何も無く、最低限の荷物を纏めて家を発つだけだ。それよりもこの決断をする事の方が余程大掛かりだった。

 私は部屋を出て階下へと降りた。ドアは念のためそっと閉めた。洗面所に行き身支度を整える。顔を洗う水は今日も変わらず冷たかった。


 財布、スマホ、着替えは向こうの物を使えば良い。部屋に戻った私は出ていくのに必要な荷物を纏めていた。なるべく荷物は少ない方が良い。きっとこの家から多くを持っていけば痛む機会も増えるだろう。私は目的地に辿り着くのに最低限必要な物を手持ちのバッグに入れた。私の跡を多く残して彼を置いていくことは棚に上げて。厚手のコートを羽織い、手袋を着けてバッグを持つ。家出をするとは思えない重さだ。揺らいでしまわないようにすぐに部屋から出ようとしたけれど、やっぱりもう一度だけ最後に彼の頬を撫でた。ごめんねとありがとうとさよならを、最後に音にして彼に渡した。いや、押し付けた。私はドアを開けた。


 さっきも通った筈なのに階段がやけに冷たい。部屋の分だけ欠けた心の隙間に冷えた空気が入り込んでいるような気がした。一段、また一段と下っていく度に少しづつその隙間が広くなっていくのが分かる。玄関に辿り着いて長靴を履く。窓の外の景色は見えなかったけれど雪は積もっているだろう。下駄箱の上に置いてある鍵を取って、ドアを開ける。幸いそこまで風は強くなかった。最後にもう一度だけ「さよなら」を、彼とこの家に言った。家の分だけ心が欠けた。この調子だと一週間もしないうちに私の心は無くなって終いそうだ。鍵を掛けて、そのまま鍵は玄関先に落とした。どうせ盗む人など居ない。置かずに落としたのは、少しでも未練が無さそうな素振りをすれば心も頭も誤魔化されると思ったから。今の所その悪あがきは効果が無さそうだけれど。

 

 足跡の無い道を歩く。彼と何度も通った道を歩く。彼のことをなるべく考えないように歩くが、頭を空っぽにして歩くと彼の思い出が流れ込んできて、他のことを考えようにも邪魔をされる。忘れていって仕舞うから忘れたくないのに、忘れたくて忘れられない。心のどこかで少しだけ、いや、大いに安堵していた。まだ、覚えている。

 ほんの少し歩けば川沿いに出る。相変わらず川は凍っていた。流れる葉も無ければ隣を歩く人も居ないのでひどく退屈で虚しい。それと、やっぱり悲しい。帰り道として使うことが無いと考えるだけでこんなにも道というのは寂しくなるのか。一人、足跡の無い道を歩き続ける。この道の分だけまた心が欠けた。

 十分程歩き続けて、漸く橋が見えてきた。バス停の方へ直進せず、左へ折れて橋を渡った。そのまま広い道を歩き続ける。ここは他のどの道よりも彼との思い出の濃度が高い気がした。毎日というほどでは無いが、散歩の度にここは必ずと言って良いほど通っていた。雪合戦もここでした。変わらず足跡の無い道を歩き続ける。

 神社まで歩けば少しは暖かくなるだろうかと思っていたが、相変わらず体は冷えたままだった。葉も花も無いが雪だけ身につけた桜の木の下を通って階段を上がる。掴まる人が居ないからいつもより更に慎重に。冷えたままの体をゆっくりと動かして、漸く小さな祠が見えた。前に立つ。手ぶらで散歩していたいつもとは違い今日は持ち合わせがあるので賽銭をした。今更どういうつもりなのかは自分でも判らないが、五円玉を一つ入れ、手を合わせた。そして、少し迷ったが、ここ一年程願い続けているそれと同じ願いを二つ唱えた。


「君のことを、忘れませんように」

「君が、ずっと幸せでありますように」


 賽銭をせずに願うなんて罰当たりだろうと思って、代わりに長く手を合わせていたいつもの癖で、今日もだいぶ長い時間手を合わせていた。きっとそれだけが理由ではないのだろうけど。

 あぁ、二つ目はだいぶ悪かっただろうか。神様にも、君にも。祠を背にして階段を下ると、神社の分心が欠けていた。

 なんとか転ばずに階段を下ることができたのだが最早それすらも虚しかった。スマホの時間を見ると始発のバスまで意外と時間が無いことに気が付いた。神社を背にして早足でバス停の方へと向かう。まだ辺りは暗いまま。

 誰の足跡も無い道を、寒さと自己嫌悪と数十分闘いながら歩き続けるとバス停が見えてきた。ベンチの方まで雪が積もっていたので座わらずにバスを待つ。五分もしないうちに明かりをつけたバスが雪の上を走ってきた。誰も居ないバスに乗り込むと、なるべくドアから離れるように一番後ろの席へ座った。暖房がかなり効いている。バスが走り出すと同時に大きく心が欠けたような気がした。


 私が彼のことを忘れ始めたのは、丁度一年前の冬頃だった。最初は、今に比べるとほんの些細なことから始まった。ある日、彼の名前を呼ぼうにも言葉が詰まって出てこなくなってしまったのだ。時間にしたらほんの数秒の出来事だったと思う。彼の名前を忘れるなど出会ってから一度も無かった私は、そのほんの数秒に戸惑いを隠すことが出来なかった。それから数日後、また同じように彼の名前を呼ぶことが出来なくなった。それから同じようなことが数日に一度起こるようになっていった。時にはキッチンで、時には寝室で、時には散歩中に、予告もなく訪れるそれに私はかなり当惑していた。

 そして、初めて名前を忘れてから数週間後の朝、私は今までよりも遥かに長い時間彼の名前を忘れた。目を覚まし、体を起こして隣の彼を見た瞬間、彼の名前をまた忘れていることに気が付く。その現象に少しづつ慣れていた私は、またか、とだけ思っていたのだが、数秒も経てば今までのそれとは違うことに気が付いた。いくら経っても彼の名前を思い出すことが出来ない。例えるなら、関わりの薄かった人と偶然すれ違った時に起こる、顔は分かるのに名前が思い出せないあれに近かった。私の場合、関わりが薄い筈もないのにそれに出会した。そして彼の顔を見ながら数分、記憶の海の中を泳ぎまりやっとの思いで見つけることが出来たが全く以て嬉しくなかった。それ以来、怖くなって仕舞った私は、彼のことを「君」とだけ呼ぶようになった。元々、「君」という呼び方を全くしていなかった訳ではないので彼は特に違和感を感じていなかった、と思う。そう信じたい。

 そして、その日から彼の名前を忘れる回数も時間も、目に見えて増えていった。今思えば、「君」という呼び方が彼の名前を忘れていくことに拍車を掛けていたのかもしれない。次の春が来る頃には、私は彼の名前をもう思い出せないでいた。厳密に言えば、郵便物やLINEに表示される彼の名前を直接見ることでしか思い出せなくなっていた。だから、私は彼の見ていないところで頻繁にLINEを開いては彼の名前を確認していた。確認する度に、忘れていることに失望した。


 そうだ、LINE。


 ここ最近は、忘れる事柄と心の痛む事象が増えすぎたので、名前を確認することもあまりしないでいた。私は、久しぶりにそのアプリを開いた。一番上に表示されているその名前を見る。


 「かなで、、、」


 そうだ、彼の名前は奏。奏だ。名前を見る度にいつも思う、どうして忘れて仕舞ったのか。どうして思い出せないでいたのか。どうして覚えていられないのか。当たり前のことを、誰もが意識すらしないことを、なぜ私は出来ないのだろうか。愛しい人の名前をどうして忘れることなど出来るのだろうか。

 そして、LINEを開いて気が付く。私が出ていったことを知ったら、奏は必ず連絡をしてくるということに。迷った挙句、私は奏の連絡先を消した。そして同時に、その名前を思い出す術も失った。一つ息を吐くと、私はもう彼の名前を忘れていた。


 私が忘れていっているのは、名前に限った話ではない。彼にまつわる全てである。顔、仕草、声、口癖、匂い、その他にも沢山のことを忘れていっている。私は、「彼」を忘れていっている。ところがどうしてか、思い出の類は忘れることはない。人間が自然に忘れていくのと同じように忘れてはいるけれど、他の事に関する異常な忘れる速度に比べれば、忘れていないと言っても過言ではない。いつもあの道を散歩していたことも、よく寝る前に二人で映画を観ていたことも、彼の物語を聞かせてもらったことも、春の桜も、夏の花火も、秋の紅葉も、冬の雪合戦も、ちゃんと覚えている。それなのに、隣になんて名前の人が居て、その人がどんな顔で、どんな声で話していたかが思い出せない。隣に歩いている人を思い浮かべても、その顔には靄が掛かっている。

 それと、彼への想いも忘れることはない。私が彼を好きだということ、彼を大切に想っているということ、彼を愛しているということ。私は、名前も顔も分からない人に恋をしている。だから私は、彼を忘れている、ということは覚えている。

 それでも、きっと名前の知らない彼という存在を思い出せなければ、それらのことも記憶の棚から引っ張ってくることは出来ないのだろう。仮に私が、彼にまつわる全てを完全に忘れてしまったのなら、私は彼を忘れているということを思い出すことが出来るのだろうか。彼の全てを、存在自体を忘れてしまったのなら、それは初めから無いのと同じではないのだろうか。彼の居た思い出を思い出すということが、初めから無いものを空想する、いわば妄想と同じにはならないだろうか。


 彼の名前を思い出せなくなった春に、私は病院へ行った。母が若年性認知症を患っているので、余計に不安になったということもある。記憶障害だから大きい病院の方が良いかと思ったけれど、そういうところは紹介状が無いと行けないのだろうと思い、電車で三駅ほど離れたところにある神経内科へ行った。彼には、買い物をするとだけ伝えた。結果は、何の異常も無かった。私は安堵したものの、原因が分からなかった事に少なからず落胆した。念の為大きい病院で見てもらいたいということを医者に伝えると、紹介状を書いてくれた。翌週、最寄駅から歩いて十五分ほどのところにある総合病院へ向かったが、結果は変わらなかった。精密検査もしたけれど、私の脳は健康そのものであった。医者は私の症状を不思議がっていたけど、ストレスだろうということで気休め程度に薬をもらった。症状が酷くなったらまた来るようにと言われ夏にもう一度だけ行った時も、検査結果は変わらなかった。 今になっても原因はわからないまま、ただ彼を忘れ続けていく。

 病気じゃないのなら、私のこれは何なのだろう。なぜ一番大切なものだけを忘れてしまうのだろう。もっとあるだろ他に。忘れていいもの。覚えてなくていいもの。何故、誰が私から彼を奪うのだろう。

 恨みとも後悔とも言えない複雑な何かを胸の中でかき混ぜている内に、バスは終点に到着した。降りてから少しだけ伸びをする。空が少しずつ明るみ始めていた。


 バスのロータリーを離れ、ショッピングモールに併設されている駅へと続く階段を上る。まだモールは開いておらず、改札の脇にあるコンビニだけが営業をしていた。きっとモールが開いていたのなら彼との思い出を少しだけ拾いに廻ったのだろうけど、仕方がない。私はそのまま自動改札機を通った。階段を下ってホームに出ると、規模は小さいが地方都市というだけあって、スーツを着たサラリーマンや遠方の学校に通っているのであろう学生が疎らに居た。ホームのベンチに腰を掛けて、五分後に来る電車を待つ。鼻先が冷たい。

 胸の中でバスの続きをしている内に電車がやってきた。彼らとは違いどこかに逃げる私も、彼らと同じ電車に乗った。暖房の効いた車内に入り、四人掛けのボックスシートに座った。どうせそこまで人は乗ってこないだろうと、隣の席に荷物を置いた。電車がゆっくりと動き出す。もう欠ける心も残っていないような気がした。向かい側のシートに隠れるようにして私は泣いていた。

 嫌われたと思うだろうか。愛想を尽かされたと思うだろうか。そんなことない。そんなことある筈がない。私にそれをさせたいのなら、あと人生が幾つあっても足りない。時間ごときじゃ測れない。それは、彼を忘れるにも同じだと思っていた。信じていた。それなのに、私はこうも簡単に彼を忘れていく。歩くよりも、食事をするよりも、眠るよりも簡単に彼を忘れていく。嫌いになんてなるはずもないのに。愛想なんて初めから底が無いのに。それでも私は彼を忘れていく。息をするように彼を忘れていく。そして、私は逃げ出した。彼のためと心に醜い嘘を吐いて逃げ出した。君を忘れていく私を見たら悲しむだろう、なんて、彼が本当に悲しむのはどっちか分かっていながら逃げ出した。本当は分かっていた。全部自分のためだって。彼を忘れていく痛みに耐えることが出来ない私の心のためだって。彼から逃げて、彼のことをすっかり忘れて仕舞えば心が痛むこともなくなるだろうって。全てを伝える強さは無い癖に、逃げる強さは持っている私が心底嫌いだ。全部、嫌いだ。弱い私も、強い私も、彼を忘れてしまう私も、全部嫌いだ。彼が「大好き」だと言ってくれた私を嫌ってしまえる私も、大っ嫌いだ。なんで、なんでどうして私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。ただ、このままが続くことだけを願っていた。なにもいらなかった。ただ、このままを願っていただけなのに。


 泣き疲れたのか、暫くの間眠っていたみたいだった。目的の駅の二つ手前で目が覚めた。鏡を見なくとも目が腫れているのが分かる。窓の外に目を向けると、空はすっかり明るくなっていた。少しだけ落ち着いた頭で、これからのことを考える。私は、彼と住んでいたところから一つ隣の県にある実家へと向かっていた。

 そのまま実家で暮らしても良いが、もし彼が私を探すとしたら初めに実家を訪ねるだろう。それなら、実家近くのアパートでも借りるのが良いだろうか。そして、仕事を探そう。なんでも良い、生きていくのに最低限のお金が手に入るのならそれで良い。そこで、彼を忘れながら一人暮らしをしよう。初めは痛くてしょうがないだろうが、それも彼が近くにいないのならきっと慣れてくる。未だにそれで良いのか自分の心でさえも分からないが。

 目的地まで残り一駅となったところで、思い出したようにLINEを開いてメッセージを打った。予想よりも遥かに早く、そして想定外の返事が届いた。

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