第97話 ふたりの子
ジャズバーで楽譜を見ながら楠木さんと話していたら、友梨奈からLINEが入った。
『お姉ちゃん、今どこ? うひひひ、今日お母さん居ないんでしょ? 一緒にご飯食べようよ!』
お母さんは昨日から三重に行っていて、帰りは今日の深夜だとLINEが来ていた。
だから食事は各自取ることになっているんだけど、こういうとき友梨奈は出先で食べてくるから、夕方に連絡してくるのは珍しい。
それにすごくテンションが高い。なんだろう?
私はLINEを打ち込む。
『家の近くの商店街にいるわ。銭湯の斜め前にあるジャズバー』
『今、駅についたから行く~。お腹空いたあ』
そうLINEが入った。
お腹が空いたとなると、このお店では無理だ。
ここはジャズバーで、基本的にお酒を飲む店だ。それにもう夕方も過ぎて、そろそろ開店準備もあるだろう。
楽しくて随分長くお邪魔してしまった。でもせっかく駅前にいるなら、家で作るより一緒に食事を外で取ってしまったほうが早いから、ひさしぶりにあのオムライスのお店に行こうかな。来たら出ようと思って荷物を手にしたら友梨奈がスマホ片手にお店に飛び込んできて、
「ジャジャジャジャーン! 見て見てお姉ちゃんヤッバいのお~、匠が自爆して草~~~!」
匠さんの話?!
私はそれを聞いて慌てた。
友梨奈には「この話をここでしないほうがいい」とか、そういう観念は存在しない。
したい話をしたい時にする。匠さんがここでどういうポジションだったかとか、町の人がどう思っているかとか、そういうのは全く関係がない。思ったことをそのまま言う。今お母さんは和歌山に行ってるし、まだ確定情報じゃないことも多い。
今、匠さんに関することを関係者以外に言うのは良く無い。
みんなどうして匠さんじゃなくて、他の人がお手伝いにくるのか……本音は興味津々だからだ。
私はカバンを持って、
「友梨奈。匠さんの話はここでは止めましょう」
「お姉ちゃん。もうアイツは自爆したんだ。だから私たちが黙ってる必要なくなったの」
「……え?」
友梨奈はテーブルにスマホを置いてインスタを開いた。
それは空のアイコンの知らない人のアカウントで、場所はカラオケの個室に見えた。そこには五人ほどの女性がいる。
匠さんはテーブルの上にコップを置き、お酒を二種類混ぜて右側の女の子に渡した。
そして「おら飲めよ! 俺が作ったんだから、飲めよ!!」と強引にお酒を飲ませている。
女の子は戸惑いながら一口飲むが、すぐに机に置こうとした。すると匠さんはテーブルを蹴飛ばして「置くな! 飲めよ!」と叫んだ。
机の上のお酒の瓶が床に落ちて割れて女の子が叫んでいるところで動画は終わっていた。
私は友梨奈を見て、
「……友梨奈は、こんなことさせてないのよね? 大丈夫なのよね?」
「別れる前まで紳士だったけど。でもよく考えると、最初から私をコントロールしようとしてたんだよなあ。服とかメイク用品とかめっちゃくれてたもんね。コメントもすごいの。タグ付きでどんどんヤバい動画上がって来てる」
友梨奈がクリックすると、酒を飲んで暴れる匠さんがたくさん出てきた。
これはもう完全にお終いだ。それを見ていた楠木さんはため息をつき、
「何してるんだ匠くんは」
友梨奈はスマホをいじりながら、
「これだけじゃないですよ。私の腕も掴んで引きずり落としてストーカー。ガチのクズなんですから」
楠木さんは眉をひそめて、
「……その話、お母さんは知ってるの?」
私は静かに頷いた。
楠木さんは「ふう……」と息を吐いて、
「残念だよ。うちの商店街ではすごく頑張ってくれてたからね。信じたくないけど……この量が出てきたらもう言い逃れできないね」
「ざまあみろの大炎上ですよ、はーーっ、私が今まで付き合ったなかで一番のゴミでした。あーあー。顔は良かったのにDV男とかクソすぎる」
楠木さんはスマホを置いて料理をして、私たちの前に焼きそばを出してくれた。
「もし何かあったらお店に相談にきてよ。DV男の成敗くらい、俺たちでも出来るから。俺たち勇ちゃんの親友だからさ。親友の子が辛い目に遭ってるのイヤだよ。警察だって弁護士だって、腕利きのバーテンもいるし、お風呂の温度を完璧に調整できるばーちゃんも、そば切り包丁でDV男を切り刻んでくれる男もいるよ。最後には美味しい天ぷらにしてくれるし、残りは風呂釜で煮よう」
「最後のほうがかなり怖いです」
私はそれを聞いて苦笑してしまったけど、相談においでと言ってくれるのは心強いと思った。
焼きそばを美味しく頂いて、私は楠木さんに頭を下げた。
「今日はありがとうございました。匠さんが来られなくなって顔を出すことにしたんですけど、久しぶりにピアノを弾くことになって、楽しみです」
「え。お姉ちゃん何か弾くの?」
友梨奈は置いてあったビーフジャーキーを勝手に食べながら言った。
私はテーブルの上に置いてあった箱を引き寄せて、
「秋祭りで久しぶりに。ほら、お父さんのウクレレ」
「え? お父さんウクレレとか弾けたの? 全然覚えてないんだけど」
「……友梨奈って本当に自分のことしか興味ないのね。お父さんピアノもウクレレもすごく上手だったのに」
「全然覚えてない。正直音楽してたイメージもない。ていうか、人生で自分のこと以外に大切なことってなに?」
それを聞いて楠木さんが手を叩いて笑う。
「あははは!! 友梨奈ちゃんは花江さんにそっくりだ。昔さ、勇ちゃんがこの店で酔っ払ってピアノ弾いてた時に花江さんが来てさ『人生に音楽はあってもよいけど、あなたに今必要なのは支援者のお店で呑むことです!』って連れ出していって!」
それを聞いて私は爆笑してしまう。すごくお母さんが言いそう。なんならきっと今も言う。
友梨奈は平然と、
「まあお酒呑むならどこでも一緒じゃん? よっしお姉ちゃん、手繋いで帰ろ。今日はお祝い。あっ、コンビニでプリン買おう?」
「分かったわ。行きましょう」
私は立ち上がって、頭を下げて再度お礼を言った。財布を出そうとすると楠木さんは笑って、
「食事代金は花江さんに四倍にして請求するよ。次の打ち合わせの後に練習しよう? 楽しみだなー!」
と笑ってくれた。
お母さんの一部として手伝わされるのがイヤで遠ざかっていた秋祭りのお手伝いだったけど、信頼できる人に再び繋がれた安心感で私は嬉しくなった。
そして友梨奈と手を繋いで、ぶらぶらと外を歩きながらコンビニでプリンを買って家に向かった。
九月の夜はほんの少しだけ秋で、でもまだまだ蒸し暑くて、静かな夜。
「ただいま」
23時すぎ。家の前にタクシーが止まってお母さんが帰ってきた。
いつもは家の中に全部荷物を入れて靴も片付けるけど、手も洗わずソファーに座り込んだ。
私は温かいお茶を出して、椅子に座った。
「おかえりなさい」
「あーー……疲れた……。ごめんなさいね、秋祭り顔出してもらって。だってあれよね、多田さんの息子さん、会ったこと無い人だったわよね」
「うん、でもすごく頑張ってたから任せても大丈夫そうだったよ」
「……匠さんもそうだったのよ。匠さんも! はーー……」
そう言ってお母さんは上着を脱いだ。
この騒ぎがあって一ヶ月、お母さんは急速に老け込んだように見える。
私はどこか……お母さんが落ち込めばいいと思っていた。私が思い通りに動かなくて。
お母さんが悲しんで苦しんでしまえば良いと思っていた。そしたら今まで自分がしてきたことを反省するんじゃないか。
謝ってくれるんじゃないかって思ってた。でも今明確に分かる。そんなことしたって私も傷ついて、お母さんも傷つく。
それにここまで仕事ができる人だもん。そんなことで反省するくらいなら、もっと前に気が付いてる気がする。
自分の中で出たアンサーに少し笑ってしまう。
この人は母親というより、仕事人間なのだろう。
母親としての対応を求めるより、仕事相手として正しい位置を保つのが一番正しい付き合い方だ。
どうやらお母さんもインスタを見たようで、
「匠さんの見た? あれはもうお終いね。友梨奈はもう寝た? 友梨奈はこういうことされてないの?」
「付き合ってた時は大切にしてくれてたみたいよ。でもそれを信じられるか、もう今となっては分からないけれど」
「そうね……もう別れててラッキーと思うレベルだわ。次の市長は多田さんで決まり」
「二度目の? 体調は大丈夫なの?」
「新薬が身体に合ってるみたいね。今回は藤間さんに……って言ってたけど、松島さんに『息子のために死ぬ気でやれ』って言われて頷いてた」
「多田さんなら大丈夫だね」
「そうね……一安心だわ……」
多田さんは前々回の市長を務めていたんだけど、体調を崩して一度引退していた。
でも良い薬が出て体調が回復。最近はお母さんと一緒に動いていた。
そして今回娘婿のためにももう一度頑張ることを決めたのだろう。
多田さんはお母さんと仲がよいし、多田さんの娘さんは私も知ってるけど良い人だ。
だから次は大丈夫だろう。お母さんは私が出したお茶を飲み、インスタを立ち上げて、
「……でもね。私思うんだけど、きな臭いのよね。ほら見て。匠くんの服装」
「え?」
「ハイネックのセーターに後ろにコートとマフラー。見て、このマフラー。これ去年のクリスマスに友梨奈があげたやつよ」
「あっ……」
「これ去年撮られた動画だと思うの。こっちの動画は後ろに桜が咲いてるし、こっちは夏よ。それを誰かがずっと持っていた。そしてこの市長選直前のタイミングで放出したのよ。昨日今日撮られたものじゃない。弾として準備されてた可能性が高いわ。紗良も友梨奈も気を付けて。もうほんと最近はすぐに動画に撮られるから。もう動画の撮影自体断って。あとで何に使われるか分かったもんじゃないわ」
「はいはい」
ここにきて言うのは自分の心配だ。
あまりにお母さんすぎて、私は机の下に置いていたウクレレを取りだしてポロンと鳴らした。
お母さんはむくりと身体を起こして、
「えっ、なにそれ?」
「お父さんの。ジャズバーに隠してあったの。お母さんが怖くて」
「えっ、なにそれ。怖くなんて無いわよ」
「怖くて隠してたんだって。捨てられると思って隠してたんだって」
「そんなことしないわよ!」
「するよ、するする。お母さんはする」
「何よもうそれ酷い」
「お母さん触らないでよ」
お母さんは「触らないわよ。もうお風呂入る!」と怒りながら立ち上がった。
ううん、当時なら絶対捨てたと思う。
それに誰も反対も出来なかった。
でも今。
この距離感が掴めたから、この距離で言えるようになったから、絶対に私が捨てさせないし、触れさせない。
こんな風にお母さんに対応できる自分が、ほんの少し好きになってきた。
私はきっと、音楽が好きで、意志がつよい、ふたりの子。
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