第95話 それならば、冬の海に

「陽都、おつかれー! とりま一回おわり」

「了解です」


 俺は配達用のリュックを置いて事務所の椅子に座った。

 この前、模試を受けたら判定あんまり良く無くて、それを見た品川さんが出してきた勉強スケジュールはかなりキツいものだった。

 もう自宅で勉強している場合ではなくなり、受験に向けた勉強が必要で塾に入る日が増えた。

 そして逆に自宅で勉強していた土曜日と日曜日に配達のバイトに入ることにした。

 母さんは「ここも塾に」という雰囲気だったけど、さすがにそこまですると紗良さんとデートも出来ないし、なによりメリハリがなさ過ぎる。

 俺は店長も品川さんも、この店も好きだからバイトに来たい。それにさくらWEBにだって行きたい。

 中園が本当に次の4BOXに出るなら、俺も、ちょっとやりたい。中園と安城さんたちが楽しくしてるなら、俺も一緒に遊びたい。

 中園に彼女が出来ても一度も「淋しい」と思ったことないけど(むしろ次こそ続けと思う)、安城さんと中園が仕事するのに、俺が関わらないのはなんだか淋しい。仲間はずれみたいだ。だから恵真さんの4BOXの後……つまり1年後の4BOXは企画に参加したい。

 でもその時俺は高三で、そんなことしてる時間マジで無い気がする。

 というか中園はどうして俺が受験の年にそんなことを……。

 紗良さんとデートもしたいし、本当に時間が無い……椅子にひっくり返ってると、木蓮の香りがした。

 え、この香りって。


「陽都。サボっとるのか」

「ばあちゃん!!」


 俺は叫んだ。

 いつも通りの着物姿に、木蓮の香り。ばあちゃんはいつも同じ香りがするからすぐに分かる。

 そして真っ白だけど美しく整えられた短い髪の毛に、品良く施された化粧。毎回迷いがなくひかれている深紅の口紅と大ぶりの真珠のピアス。

 ばあちゃんだ。俺はすぐに椅子を準備して、


「久しぶり。え、めっちゃ久しぶりじゃん。元気そうだね」

「陽都、鍋川漁港のこと、誰に言われたんや」

「え? 最初っから本題……ばあちゃんに会ったって感じがする」

「誰に言われた」


 ばあちゃんはメチャクチャ忙しくて挨拶とか全部すっ飛ばして、すぐに本題に入る。

 俺は横の椅子に座り、


「前に一回LINEで聞いたよね。『俺も孫だ』って言ってた天馬さんだよ」

「やっぱり天馬か。あの子は本当に陽都が気になって仕方ないな」


 そう言ってばあちゃんはカラカラと笑った。

 ばあちゃんは本当に「カラカラ」と笑う。大きな箱があって、そこに鈴を入れて転がしたようにカラカラと。

 その笑い方は目の前で話さないと聞けない。電話で話しててもばあちゃんはこういう風に笑わないんだ。

 本当に要件だけ話して切る。それがばあちゃんとの電話だし、LINEだ。

 この笑い声を久しぶりに聞けて、これを聞くと元気なんだなと思えて嬉しい。

 俺が「ばあちゃん!」と叫んだのを聞いて、すぐに店長が事務所に飛び込んできて、身体を九十度に曲げて挨拶、秒で高いお茶を買いに消えた。

 ばあちゃんが来たと聞きつけた品川さんが塾から駆け付けてきて挨拶してお茶菓子を置いて、すぐに戻っていった。

 神出鬼没すぎて、レアキャラ感ハンパない。俺も一年どころじゃない……前に会ったのは高一の時の運動会だ。

 それでもゆっくり会話せず「どうや」「頑張った!」「そうか」しか話してない気がする。

 だからこんな風に腰を据えて話に来てくれたのは久しぶりで嬉しい。

 ばあちゃんは、こんな汚くてゴチャゴチャしてる事務所でも凜としていてスゲーんだ。

 店長が慌てて買ってきて煎れたお茶だって(こういう時用に、店長は高い器を隠している)飲み方がキレイなんだよなあ。

 ばあちゃんマジかっけえ……。

 ばあちゃんは店長がしっかり煎れたお茶を一口飲み、


「陽都は昔、鍋川に行ったこと覚えてないんか」

「いや、漁港出身の子と話してた時に、なんか昔、海がある所に行ったな……と思い出しただけ。そこが鍋川って所だなんて覚えてないよ。だってあれ小学生でしょ」

「一年生やったな。学校帰りにさらったから美雪が怒ってた」

 

 そう言ってばあちゃんは時を思い出すように静かに目を閉じた。

 その瞼は昔より皺が濃く刻まれている気がして、少しだけ俺は背を伸ばした。

 美雪はお母さんの名前だ。まあそりゃ誘拐するみたいに連れて行ったら、どんなお母さんもキレる気がするけれど。

 ばあちゃんは目を閉じたまま、

 

「鍋川は私の故郷でな。一度でもええから陽都と行きたかった。でも美雪にとってはええ思い出がないから連れて行きたくないんやろうな」

「ばあちゃんの故郷ってことは、母さんも鍋川に行ったことあるの?」

「美雪も15才まで住んでたんよ」

「え。そうなの。母さん地元は東京だって言ってた気がするけど」


 でも確かに、子どもの頃から、夏休みや正月に遊びにいくのはいつも父さんの親戚の家だった。父さんの親戚は東京から少し離れた場所にあって、それなりに自然も多くて父さんの兄貴とか、その子どもとか、昔はよく遊んだ。

 でも母さん側の親戚とか、そういう人はばあちゃんしか知らなくて、別にそれを疑問に思ったりしなかったし、母さんも多くは語らなかった。

 まさか鍋川がばあちゃんと母さんの故郷だなんて知らなかった。

 ばあちゃんは朝に誰にも気が付かれずに降る雨のように静かに目を開いて、


「語らんことで、消せる過去はある」


 その言葉があまりに正しくて、なんだかきれいで、空気が澄んでいる雨上がりの早朝みたいで。

 俺には全然分からないけれど、そうなんだろうなって言葉のまま心に入ってくる。

 きっとそうやってばあちゃんは生きてきたし、そうやってこれからも生きていくのだろう。

 ずっと大人ってなんだろうと思ってたけど、ひょっとして、語らない過去が多いほど大人なのかなって思った。

 そして少しだけ優しい表情になり、


「……15で出てきてあとはずっと東京でもう45すぎたら、東京に住んでる期間のが長い。だから故郷って感覚は抜けていくんやろうね」

 俺は慌てて空気を取り戻すように明るく、

「東京のが長くなると、そんな感じになるのかな」

「私は鍋川が好きで、まだあそこに家もある。みんなにいうたらアカンで、すぐに来る」

「あはは! 分かった」

 

 ばあちゃんはすぐ行方不明になるので有名だけど、鍋川とか、そういう避難所をたくさん持っているんだろうな。

 俺は全然鍋川のこと覚えてないけど、ばあちゃんは漁港でも高層階マンションでも船の上でも、何も変わらずお茶を飲んでいそうだ。

 ばあちゃんは俺のほうを見て目を細め、


「天馬も鍋川の出身でな、でももうあの子の家はないから、行った時は私の家に泊まってるんよ」

「え」

「潰れて三日間放置まんじゅうみたいな顔になったな。カピカピや。捨てなアカン」

「え。だって俺は泊まったことないのに」

「小学生の時に泊まった」

「そんなの覚えてないし!」


 鍋川なんて全然興味なかったし、ばあちゃんの隠れ家なんだなあ……としか思ってなかったのに、天馬さんが泊まってると聞いて一瞬でイラッとした。

 なにそれ。なんで俺が行ってなくて、いや、行ってるけど、天馬さんが行ってんの、ずる!!

 もろに顔に出ていたようで、ばあちゃんは俺の顔をみてカラカラと笑った。


「その顔を、天馬は見たかったんやろうな」

「え?」

「天馬には誰もおらんから、陽都に自分の優位を知らせて、思いを知らせたかったんやろな。天馬は陽都の視界に入りたいんや」

「なんだよそれ、意味わかんないんだけど」

 

 俺がそう言ってむくれると、ばあちゃんは空気を鎮めるように染みこませるように静かに、


「誰だってそうや。さみしいんよ。誰だってそうや。ふたりでいても、愛する人といても、百万人に囲まれても、人は誰でもさみしい。ひとりで死にたくない」


 俺はなんだか慌てて、


「俺ばあちゃんめっちゃ好きだよ」

「わかっとる。だから私もここにいる」


 ばあちゃんはゆっくりと瞳を閉じて、


「ええ所やから、冬に鍋川に行こう」

「え。夏じゃないの? 海なのに?」

「雪がよく降るところでな。雪が海に飲み込まれていくのよ。雪が鉛色の空から落ちてきて何にも触れず、ただ真っ黒な海が飲み込んで踊る。足元には無限の雪が積もっていくのに、海には無い。足元が違うだけや。足元が違うだけで、ここには積もり、海には消える。それを見てると、全部そういうもんやと気が付ける。海は雪を見に行くところや。毎年絶対に雪が降る日がある。絶対に降るから、その日に行こう」


 ばあちゃんが静かに語るのを俺は聞いていた。

 話を聞いているだけで、昔の記憶がほんの少し蘇った。

 大きな縁側、たわわに実ったトマトを引きちぎると土の匂いがした。

 そしてばあちゃんが台所から紫蘇を取れと叫んでいる夏の日。

 そこから海が見えた。

 あれはきっと夏だったけど、冬ならきっと、雪を飲み込むのが見えるのだろう。

 あそこに母さんとばあちゃんはいたのだろうか。そしてふたりで雪の海を見たのだろうか。

 だからきっと母さんの名前は美雪なんだ。海のある町で生まれ育った美雪。

 ばあちゃんは、海に飲み込まれる雪を美しいと思って、そう付けたのだろうか。

 それを母さんは知ってるのだろうか。

 どうしようもなく「普通」に固執して、ばあちゃんを嫌い、俺から遠ざける母さんには、雪を飲み込む鍋川で何かあったのだろう。

 なにか理由があるとしても、俺はばあちゃんがただ好きで。

 そして母さんのことも、なんだか今より少しだけ、母さんというより「人間」を感じた。

 大人にはみんな、俺たちより長い過去があるってことを、俺は知らない。


 やがて、どうやらずっと待っていたらしい男性がしびれを切らしてドアをノックして、ばあちゃんは立ち上がった。

 時計を確認すると、なんと一時間近くばあちゃんと話していた。「配達にいけ」と言われなかったのは、店長が全部行っていたようだ。

 ばあちゃんが店から出ると、外には十人以上の人たちが待っていて、丁寧に頭を下げた。

 これだけみると、ばあちゃん本当に堅気かな……? という気がしてくる。

 ふと気が付くとそこに紗良さんが立っていた。

 ばあちゃんは紗良さんに気が付いて一歩寄った。

 そして、


「吉野紗良ちゃんやね」

「!! はい、はじめまして。よろしくお願いします」

「ええ顔になった」


 そう言って、スマホを耳にあてながら、ばあちゃんは車に乗り込んで去って行った。

 俺と紗良さんは小さくなっていく車を静かに見守った。

 やっぱばあちゃんの存在感、マジで半端ない。

 見たこともないのに、さっきから俺の頭の中には真っ黒な海に振り続ける雪が見えていた。

 ばあちゃんが愛した世界を見てみたい……静かにそう思った。

 そして横に立っていた紗良さんのスマホが鳴った。戸惑いながら紗良さんは電話に出て内容を聞き、驚いた表情で俺を見た。


「……藤間さんが松島建設に切られたって……よく分からないけど……ごめん、私、先に帰るね!」


 そういって紗良さんは夜の街を走って消えていった。

 藤間さんってあれだろ、匠さん? 俺はよく分からず店に戻り、ばあちゃんのために店長が買ってきた緑茶を飲んだ。

 すんごい旨いなんだこれ!!

 そして改めて思う。

 ばあちゃん、神出鬼没すぎるし、やっぱなんか人間のパワーがすげー……。

 でもやっぱ、めっちゃ好きだわ、かっけぇ。



 

 

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